〈番外編〉二人でダンスを
ヒルダが二十五歳の頃。旧大陸にある聖騎士団第二隊に所属していた彼女には憂鬱なことがあった。
それは、上流階級の人間と交流しなければならない場面が多々あるということだった。
槌矛を振り回して人狼やヴァンパイアを殴り倒す女傑として知られつつあったヒルダは、窮屈な礼儀作法を要求される上流階級の社交が大の苦手だったのだ。
ある晩、とある子爵の令嬢から舞踏会の招待状を受け取ったヒルダは、うんざりとした気分で朝を迎えた。
「君の所作は上流階級の人間たちの中でも問題ないものだと思うが、何を苦手としているのかね?」
朝食を共にしながら、人間形態のオシアンがそう尋ねた。
そう、意外に思われるかもしれないが、ヒルダはそうしようと思えば、貴族の令嬢のように上品に振る舞うことが出来た。そうでなければ、幾ら美貌の持ち主とはいえ、地位と財産を持つ男たちから再婚の申し込みが次々舞い込むことなどなかっただろう。
「言葉の裏を読んで話をするのも苦手だし、ダンスに至っては男性パートしか踊れない」
ヒルダはそう答えて肩を竦めた後、こう説明した。聖騎士団員を養成するアーケイディア単科大学でもダンスを習う機会はあったのだが、その講義の選択者は圧倒的に女子が多かったため、背の高いヒルダは男性役ばかり務めることになったのだ。
「しかし、中流階級でも、若者たちのためのダンスパーティーの催しはよくあるはずだが」
「父上が、そういう催しに参加するのを許してくれなくてね。ああいう場は風紀が乱れがちだから、と」
「それは、気の毒に……」
オシアンはそれだけ言うと、見事な所作でカトラリーを操り鮭を口に運んだ。
彼は、ヒルダの父親について何か物申したいことがあっても、大抵はこうして飲み込んでしまうのだ。頑迷だとか、庶民に対する偏見があるだとか、そういう批評めいたことは特に。
しばらく二人で食事を続けた後、オシアンが言った。
「会話はある程度、こちらで引き受ける。ダンスに関しては、我にも少しは心得があるので、教えてあげよう。来週末の舞踏会には間に合うはずだ」
これは逃げられない流れだな、と思ったヒルダは素直に頭を下げることにした。
「もしかすると、数回は御足を踏んでしまうかもしれませんが、何卒よろしくお願いいたします、公爵閣下」
その日の午前中は、鍛錬の代わりにダンスの練習に費やすことになった。
魔法で一瞬にして夜会服に着替えた二人は、聖騎士団第二隊の寮の広間でダンスの練習を始めた。
自動演奏のピアノの曲に合わせて一曲通して踊ったところで、オシアンが言った。
「姿勢とステップは申し分ないが、男性パートばかり務めていたせいだろうか、やはり動きがぎこちない。……舞踏というよりも、まるで獅子と力任せに組み合っているような感じがする」
ライオンと組み合ったことがあるのか、と茶化そうとしたヒルダだが、止めておいた。あると答えられても困る。何しろ、彼女の使い魔などに甘んじているのが不思議なほど、目の前の猫型妖精の王は、何でもこなしてしまうので。
少し考えていたオシアンは、再びヒルダに手を差し出すと、柔らかく微笑んだ。
「次は余分な力を抜いて、試してみようか」
ヒルダは、初めの数ステップで目をみはった。言われた通りに力を抜いた方が、滑らかに踊れると気付いたからだ。
「そう、先程よりも随分良くなった。何も君がリードする必要はないのだよ、些事を引き受けるのは我の役目だ」
相手は余裕があるのだろう。「何が、『少しは心得がある』だ」とヒルダは内心で呟いた。彼は自分の身体の使い方を充分に心得ており、指先に至るまで一切の無駄がない。いつになく楽しそうですらある。
「君を手荒に振り回すような真似はしない。――信じて、全てこちらに委ねて」
そっとそう囁かれたヒルダは、彼に対して少々反感を覚えかけていたのを見抜かれたと悟った。
「不慣れな内だけで構わない。君なら程なく、一連の動作を自分のものに出来るはずだ」
彼のリードに任せてステップを踏みながら、なるほど、我を張らずに相手を信じて動けば良いのだなと、ヒルダもようやく飲み込めた。
ふと、ロバートとの結婚式で、慣例の新郎新婦のダンスを踊った時のことを思い出した。その時はいつの間にか、新郎新婦の足の踏み合い合戦に発展してしまったのだった。結局、二十八対三十でヒルダの方が勝って――。
「踊っている間は、目の前にいる相手のことだけを考えなければ。――今このひと時は、我のことだけを」
オシアンの声でヒルダの意識は引き戻された。気付けば二曲目は終盤に入っていた。曲が終わると、ヒルダはオシアンに目を合わせて、優雅に一礼してみせた。
「次は、君の好きなように。どのような動きにも合わせてみせよう」
オシアンがそう言ったので、ヒルダは笑った。
「それなら、ボンボンショコラがどこまでついて来られるか、試させてもらおうかな」
ヒルダは奔放にステップを踏み、くるりとターンをしたが、宣言通り、オシアンは全ての動きに難なくついて来た。ついて来るどころではない。ヒルダの望みを察して、上手くリードしてくれた。ヒルダは初めて、息の合う相手とのダンスが楽しいものなのだと知った。これなら無限に踊り続けられそうだった。途中、悪戯心を出してわざとオシアンの足を踏もうとしたのは全て華麗に躱されたが。
「魅力的な女性が相手なので、もう少し踊っていたい気もするのだが、そろそろ休憩した方が良さそうだ」
ヒルダが少し疲れたところを見計らったのか、オシアンが優しく微笑み、惜しそうに手を離した。
「さてと、ダンスの練習を始める前に、レモネードとジンジャーエールを冷やしておいたのだが、どちらが今日の君の気分に合うだろうか?」
「……幾ら何でも、至れりつくせり過ぎるだろう」
ヒルダはオシアンに向かい、降参、と手を挙げた。
「ところでさ、踊っている内に、ちょっと物足りない気がしたんだよな」
ヒルダの言葉に、オシアンがきょとんとした。彼がこういう顔をするのは珍しいな、とヒルダはにやりと笑った。
「ボンボンショコラ、さっきので分かったんだけど、実は徒手格闘も得意なんだろう?」
ヒルダは確信していた。オシアンは自分の身体を隅々まで意識的に使いこなすことに長けており、力加減も絶妙だ。しかも、ヒルダが足を踏もうとするのを華麗に躱す俊敏さ。彼は手練れの戦士でもあるに違いない、と。
「後で、手合わせして」
オシアンは苦笑した。
「……貴女の望むままに」
* *
「……何でも出来るのに、ネクタイを結ぶのだけは上手にならないな、オシアンは」
ヒルダの姪であるモリーの結婚式当日の早朝。五十三歳のヒルダは、夫となったオシアンのネクタイを結んでいた。
先程、オシアンは結婚式の会場となる薔薇荘に、花婿介添人を務める甥のアーセンを連れて来たのだが、まだネクタイをしていなかったのだ。
「兄様ったら、ネクタイを結ぶのだけは魔法を使っても上手く出来ないのよね」
泊まりがけで結婚式の手伝いに来ていたオシアンの妹、ミュリエルがくすっと笑った。
「我も自力で結べるように練習してはいるのだが……」
面目なさげにネクタイを結んでもらっているオシアンが、ヒルダの目には可愛らしく見えた。猫型妖精の王たる彼は猫の姿の時でさえ、あまり隙を感じさせないというのに。
「良いじゃないか。必要な時は私がいつでも結んであげるよ。オシアンは私だけの愛しの旦那様だもの」
ヒルダはそう言い、ミュリエルが花嫁の髪を結って来るわね、と席を外すや否や、オシアンの頬に軽くキスをした。
ニ、三体の敵に急に襲われても万年筆一本で何とか出来るけれど、ネクタイを結ぶのは苦手なオシアンなのでした。




