〈番外編〉猫型妖精の王は、聖騎士団第三隊長に勝てない②
ヒルダの腕が、赤ん坊を強く抱きしめていた。
「……もう、別れないといけないのか?」
オシアンは思った。もしかすると、自分はやり方を間違えてしまったのかもしれない。子どもとの束の間の邂逅は、却ってヒルダの悲しみを深くするばかりだったのではないかと。それでも、彼は猫型妖精の王として告げなければならなかった。
「肉体に守られていない魂は、非常に危うい状態だ。早急に肉体を得て、新たに生まれるのが、この子にとっては最善の道なのだよ」
ヒルダは、赤ん坊を胸に抱きしめ、寂しげに答えた。半ば自らに言い聞かせるように。
「……そう、だよな。このままじゃ、日差しの温もりも、花の匂いも、お菓子の甘さも感じられないだろうし。……それに、友だちと思う存分遊ぶ楽しみも知らないなんて、あんまりだ」
彼女は名残り惜しそうに赤ん坊の頭の産毛に鼻を埋め、頰を擦り寄せ、額に口付けして、もう一度抱きしめた。
そして、顔を上げた時、涙で潤んだその瞳には、いつもの強い光が戻っていた。
「坊や。お母さんも、坊やのことが大好きだよ」
ヒルダが赤ん坊の瞳をまっすぐに見つめてそう伝えると、赤ん坊は笑って手を振った。
――たぁたん、ちゅき。またね。
赤ん坊は、再び小さな金剛石に戻ると、オシアンの掌に飛び込み、元気よく宣言した。
――もう、いくの!
オシアンは思わず微笑んだ。ヒルダに似て、思いきりの良い子だ、と。
「我が配下に、子どもを欲しがっている若い猫型妖精の夫婦がいる。強く誠実で、心優しい二人だ、きっといい親になる。その二人の元に送り出してあげよう」
オシアンは輝く小さな魂を自分の魔力で幾重にも包み込むと、その子の両親として相応しい夫婦の元に送り出した。
「……行ってしまったな」
そう呟くヒルダに、オシアンは微笑みかけた。
「貴女は強い人だ。立派にあの子を送り出せたではないか」
ヒルダは首を振った。
「そんなことない。本当なら、手放したくなかった。……でも、このまま私の側にいたって、あの子は幸せにはなれないって、……分かって、しまったから」
「それを分かっていても、己の執着の方が勝って、愛する者を手放せない者もいる。……故に、我は貴女を弱いとは思わない。貴女はただ、誰よりも愛情深いだけなのだよ。涙は、その証だ」
オシアンがそう言うと、ヒルダがしゃくり上げた。
「……泣くのは、弱い奴のすることだって、父上が……」
「我は、このアーケイディアを瞬時に業火の海に変えるほどの力を持っている。それでも、亡くした弟のことを思って泣き明かした夜は数えきれない。我は、貴女の父君よりも弱いだろうか?」
ヒルダは一瞬泣き止み、しばらく無言でオシアンを見つめ、それから一言一言、区切るように答えた。
「……アーケイディアを業火の海にしちゃ駄目だ。勿論、アーケイディアに限らず、人間の住んでいる所は全部」
「それが貴女の望みとあらば」
オシアンは優雅に一礼して見せた。今後、どれほど腹が立ったとしても、人間の居住地を業火の海に変えることだけはすまい、と心に決めて。
顔を上げると、ヒルダが気遣わしげにオシアンの目を覗き込んだ。
「……その、弟さんというのは、前に言っていた、魔女に殺されたという、末の弟さんのことか?」
「ああ。心優しい、まっすぐな気性の弟で……最愛の弟だった。おそらく他の兄弟にとってもそうだったろう。むごい死に方をするはずの子ではなかった」
末弟のことを思うと、今でも後悔と悲しみが押し寄せてくる。母から臨終の間際に、くれぐれもと妹と弟たちのことを自分に託されたものを。
オシアンの手を、婦人としては大きく、骨張った温かな手が包み込んだ。
「私が知る限り、ボンボンショコラは最強だよ」
それは、ヒルダにとっては単に事実を述べただけだったに違いない。だが、オシアンの心の中が、温かい何かで満たされた。
この時、彼は自覚した。何故、初めて出会ったその日に、彼女を攫ってしまいたいと強く思ったのか。それなのに何故、衝動のままにそうしなかったのか。どうして、アンバーコーブの魔女屋敷でヒルダの危機を知って焦ってしまったのか。もう二度と人間に仕えるのは御免だと思っていたのに、どういう訳で、自ら彼女の使い魔になることを提案したのか。彼女が一人で泣いていると、酷く胸が痛むのは……。
――この人を、愛しているからだ。
しかもそれは、父親が娘に向けるような、或いは兄が妹に向けるような愛ではなかったから、オシアンは酷く狼狽し、思わず猫の姿に戻っていた。
呆然としているうちに、オシアンはヒルダに抱き上げられ、膝に乗せられた。
「しばらくで良い、側にいてくれないか、相棒?」
全く、この美しい女主人は、何という残酷なことを言うのだろう。
「……我に、貴女の望みを拒めるとでも?」
「ごめん、ボンボンショコラ。君は撫でられたり抱き上げられたりすることが、本当はあまり好きじゃないんだよな」
寂しげで頼りなさそうなヒルダの声――。
オシアンは、一つ深呼吸した。
「……いや。他ならぬ貴女がそれを望むのならば、喜んで」
彼は、普通の猫が飼い主にそうするように、ヒルダの手に自らの頭を擦り寄せた。
「約束しよう。我は貴女の望まぬことは決してせず、貴女が我に望むことは何でも聞き入れると」
ヒルダは少し面食らったようにオシアンを見つめ、くすっと笑った。それから、彼を肩の高さまで抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。
「……ありがとう、ボンボンショコラ」
このすぐ後に、泣き疲れたヒルダがそのまま眠ってしまい、オシアンは大いに慌てた。――しかしヒルダの腕からどうにも上手く抜け出せなかったので、朝まで自分も無理矢理眠ることに決め、魔法を使ってヒルダの身体を毛布で包み、目を閉じた。
――おはよう、ボンボンショコラ。
この世で最も魅力的な声。次いでごつごつとした大きな手が、彼の頭を優しく撫で、節くれ立った指が彼の鼻をつまんだ。……鼻をつまむ?
オシアンは、はっとして跳ね起きた。
そこは彼の城にある寝室で、既に動き易いワンピースに着替えたヒルダが、悪戯っぽく笑っていた。
「済まない、我としたことが」
ヒルダは、きょとんとした顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「朝食のことなら、心配ないよ。昨夜、オシアンがブランウェンに十時にこっちに運んでくれるように頼んだだろう?」
まだ寝惚けているのか、と尋ねられ、どうやらそのようだ、とオシアンは頷いた。
「……夢を見ていたのだよ。貴女と出会って間もない頃の夢を」
ヒルダは呑み込み顔で頷いた。
「大丈夫だよ。君は私をここに連れて来る前にダイアナに一週間のハネムーン休暇を申請していたし、三ヶ月後のモリーとハワードの結婚式には必ず参列すると、君の父君の名にかけてあの子たちに約束していた」
オシアンは昨夜の自分を思い出し、羞恥と思考の沼に沈み込みそうになった。ヒルダに説明されなくとも全てはっきり覚えていた。何と年甲斐もなく浮かれていたことか。いや、自分の結婚式くらい浮かれても許されるのではないか。思いがけずヒルダの花嫁姿を目にすることが出来たのだ。結婚式の会場からここまで彼女を横抱きにしたまま連れ帰ってしまったが、それも無理からぬことではないか。……いやむしろ、新郎が新婦を横抱きにして家に入るのは慣例としては間違っていなかったはず――。
不意に、ヒルダが彼を抱きしめた。
「だから安心してくれ。君が私を無理矢理攫って――って訳じゃない。……それに私は、自分の意志で君の妻になったんだ。いつも君が私を側で支えてくれたように、今度は私が君を側で支えたいから。……君を、愛しているから」
多分、あの会場にいた人々の中で、誰もオシアンが浮かれていたことに気が付いていません。
遠方からの招待客をしっかり家まで送り届け、ダイアナが忘れかけていた休暇をきっちり申請し、結婚式を用意してくれた第三隊の団員たちに向かって丁寧に挨拶をした後にヒルダを横抱きにして退出したので「あれが王侯の作法なのかな」と思った団員もいたくらいです。




