09 夢なら、もう少し親切にして
「夢にしては、随分ちゃんとしたクロテッドクリームですね」
ナナリーはスコーンを二つに割り、片方へ白いクリームをたっぷり塗った。さらに苺ジャムを載せると、焼き色のついた生地の上に、赤と白の大変魅力的な景色ができあがる。
向かい側では、自分の姿をしたシノンが、まだ紅茶にも手をつけずにこちらを見ていた。
「まさかとは思うけど、君はまだこれを夢だと思っているのか」
「ええ。私がシノン殿下になって、私そっくりの人がシノン殿下を名乗るなんて、夢以外に説明がつかないでしょう?」
「入れ替わったと言っているだろう」
「そういう筋書きの夢なのは、さすがに気づいてるってば」
ナナリーは澄ました顔で頷くと、完成したスコーンを口へ運んだ。
ほろりと崩れる生地に、濃厚なクリームと、甘酸っぱい苺の味が重なった。これは美味しい。夢の中でも舌はちゃんと働くものなのだと、ナナリーは感心した。
自分がこれまで食べたもので、夢の味もできているのだろうか。それなら今日は、知らないうちに蓄えていた食の記憶が、かなりよい働きをしている。
「君、俺の顔で、そんなに幸せそうに食べるな」
シノンが眉を寄せた。
「美味しくないふりをした方がいいですか?」
「そうじゃない。自分の顔が自分の見たことのない表情をするのを見ると、何とも言えない気持ちになるんだ」
「分かります。私も、自分の顔がそんなに真剣に悩めるものだとは知りませんでした」
そう答えると、シノンはさらに難しい顔になった。
鏡で見慣れているはずの丸顔なのに、眉の寄せ方や目の細め方が違うだけで、随分印象が変わる。それでも、魔術の難問について考えているというより、スコーンを食べるべきか、次はケーキにするべきかを悩んでいるように見えてしまうのが、少し気の毒だった。
「何がおかしい」
「いえ。自分を客観的に見る、貴重な機会だと思って」
「だったら、もう少し現実を客観的に見てくれ」
もっともなことを言われたが、夢の中で現実を見るのも難しい。ナナリーは最後の一口を飲み込んでから、念のため周囲へ目を向けた。
細く開いた扉の向こうには、使用人たちの気配があった。話し声はしないが、完全に誰もいなくなったわけではない。
「声、外に聞こえません?」
「念のため、こちらの会話が外へ漏れないようにしてある。外から呼ばれたら、俺たちには聞こえる」
シノンがテーブルの端を示した。紅茶のカップの陰に、小さな術式の光が浮かんでいる。ナナリーが食事に夢中になっている間に、用意したらしかった。
「便利ですね。お兄様に叱られる時にも、そういう魔術があればいいのに」
「君は叱られる時にこそ、ちゃんと話を聞いた方がいいと思う」
初対面に近い王子にまで、そんなことを言われる筋合いはない。ナナリーは少し口を尖らせ、紅茶を飲んだ。
「私の知るシノン殿下はもっと、王子様っぽく優しい口調でお話しなさるけど」
「それを言ったら君だって、学院ではこんなにお喋りじゃないだろ?」
「そんなことないけど。まあ、目立つ集団の取り巻きでもなかったし、もし仮にあなたがシノン殿下だとしたら、私のことは知らなくて当然かもね」
「初等科で同じクラスだった君を、さすがに知らないなんてことはない。とにかく問題は、この状況をどう打破するかだ。早く対策を練らないとまずい」
「えー、楽しみましょうよ。どうせ夢なんだし」
「は? だからこれは夢じゃない」
少し苛ついた様子で、シノンがこちらへ身を乗り出す。ナナリーはティースタンドに伸ばしかけた手を引っ込め、仕方がないといった表情で視線を合わせた。
「どうして夢じゃないと思うの? というか、そもそもあなたがシノン殿下である証拠はあるの? 場合によっては不敬だと思われちゃうわよ?」
「君が夢の中にいたい気持ちは分かった」
「だって夢だもん」
深いため息をつかれた。
ため息をつく時の自分を客観的に見ると、どこか馬車の中で見せるジョルジュの姿に重なるものがあった。いや、兄はもっと嫌味な顔をするから、それに比べれば自分の顔の方がずっと品がある気がする。
「俺だと証明するために、君に確かめてほしいことがある。俺の左肩には、小さな傷があるはずだ」
「傷?」
「幼い頃、こっそり真剣で練習して、つけてしまった傷だ。肩の少し後ろだ」
ナナリーはカップを置き、シャツの襟元をわずかにずらした。首を回し、肩の後ろを覗こうとしたが、首の動きには限界がある。
「見えません」
「鏡があるだろう」
視線を追うと、確かにあった。
少し面倒だと思ったけれど、好奇心が勝った。
ナナリーはソファから立ち上がる。足をテーブルにぶつけないように、慎重に一歩を踏み出し、応接間の壁にかかった鏡へ近づいた。
そこに映し出されたのは、輝く金髪に透き通る青い瞳、手足のすらりと長いシノンだった。
「やっぱ、美しいって得よね。微笑むだけで騒がれて、眉間に皺を数ミリ寄せたら、『何か深いお考えがおありなのだ』って、勝手に解釈してもらえるんだから。私が同じ顔をしたら、ただの『お腹が痛い顔』で終わるのに」
ナナリーは借り物の美形ぶりに、純粋な感嘆の吐息をもらした。鏡の中の王子様は、眉をひそめる動きひとつ取っても絵画のように美しい。
「くだらないことを考えていないで、早く傷を確認しろ」
すかさず呆れた声が飛んできた。
「はいはい、今確認しますってば」
鏡に肩を向けると、皮膚に細い傷痕が残っていた。随分前についたものらしく、色は薄い。
「本当だ。まさか殿下が傷物だったなんて」
「その言い方は、誤解を生むからやめてくれ」
「こういうことを、私が知っちゃっていいんですか?」
「夢じゃないと信じさせるために、君が知らないことを、俺が教えたんだ」
ナナリーはシャツを戻し、鏡の中の顔を眺めた。
夢の中の自分が知らないことを、夢の中の相手に教わる。言われてみれば、少し妙な話だった。
しかし、ここが夢なら、いくらでも設定を書き換えられる。つまり、傷なんて好きに作れるということだ。
「それだけでは、夢ではないと決められないような」
「右膝にも傷がある。それと、へその近くに小さなほくろが」
「そちらの確認は、遠慮させていただきます」
ナナリーは急いでソファへ戻った。着替えの時点で、すでに十分すぎるほど、この夢の作り込みには感心している。これ以上、未知の領域へ踏み込むつもりはなかった。
その動きを見て、シノンの視線が白いシャツへ落ちた。
「そういえば、着替えているな」
「はい。寝間着では、ご令嬢が落ち着かないそうです」
「誰に着替えさせてもらった?」
「誰にも。一人で着替えました。夢の中でまで着替えるなんて、面倒なことをさせられました」
シノンがほっとしたように肩の力を抜いたので、ナナリーもつい、続きを話してしまった。
「ただ、知らなくてもよかったことまで、かなり詳しく再現されていまして」
「何を知った」
途端に声が変わった。
ナナリーは口を閉じた。向かいにいる自分の顔が、みるみる赤くなっていく。
「まさか、お前、見たのか」
「見ようとして見たのではありません。できるだけ天井を見て着替えたのですけど、服には留め具というものがあって」
「留め具の説明はいい!」
シノンが両手で顔を覆った。ちなみに覆われているのは、ナナリーの顔である。
「最悪だ」
夢の中の人物が、こんなに真剣に困るものだろうか。ナナリーは急に申し訳なくなり、膝の上で両手を揃えた。
傷痕も、紅茶の温かさも、額をぶつけた時の痛みも、着替えの時の混乱も、あまりに細かい。さらに目の前では、自分の顔をした相手が、自分の知らない魔術を使っている。
そう考えると、夢だと言い張っている方が、少し無理をしているように思えてきた。
「もしかして、本当に夢ではない?」
「最初から、そう言っているだろ」
シノンは指の隙間からこちらを見た。ナナリーは紅茶のカップへ手を伸ばしかけ、そのまま止める。
本当に、自分がシノンの身体の中にいて、シノンが自分の身体の中にいる。
その説明が、妙にしっくり胸に落ちた。
つまり、夢を見ている間だけの面白い出来事ではなく、眠りから覚めても終わらないということだ。
「数々のご無礼、申し訳ございませんでした」
ナナリーは深々と頭を下げた。
肩の傷を傷物と言ったことも、男女の違いにうっかり気づいてしまったことも、夢だからと思って軽々しく振る舞ったことも。
今となっては、まとめて謝るしかない。
「これからは、着替えの時にも、細心の注意を払うことを女神様に誓います」
もっとも、女神様に誓う前に、まず元の身体へ戻る方法を考えなければならないけれど。




