10 この身体、最高では?
「もう着替えの話はするな」
顔を上げると、シノンはまだ赤い顔をしていた。それでも何とか息を整え、彼はテーブルの上の紅茶へ手を伸ばす。一口飲んで、心を鎮めるようにゆっくりと杯を置いた。
「この状況のまずさを理解してくれたならいい。とにかく、このままでは困る。早く原因を調べて、元に戻る方法を探さないと」
「そうですね。私、お父様にもお母様にも、まだ何も説明していませんし」
「ヴィクトールには、君が目を覚ましたことは伝えてもらっている。侍医から安静にと言われたから、今夜は城の客室に泊まると。俺が君の姿で寝ていた時、彼も部屋にいた」
「兄は、気づかなかったのですか?」
「俺が目を覚ました時、具合を聞かれた。返事は短くしたから、まだ疲れていると思ったようだ」
長兄は、次兄ジョルジュと違い、もともとナナリーを細かく問い詰めるような人ではない。それなら今夜だけは、何とかなるのかもしれなかった。
けれど、今夜だけでは済まないとしたら、明日の朝からはどうするのだろう。
「お母様に会ったら、ちゃんといつもの私として喋れます?」
「君の喋り方を覚えるのは、少々難しそうだ」
王子にも難しいことがあると知って嬉しいところだが、今回に限っては、素直に喜びに浸っている場合ではなさそうだ。
ナナリーは考えるために、サンドウィッチを一つ取った。ここへ来るまで、ほとんど何も食べていない。さっきのスコーンで多少落ち着くかと思ったが、まだ胃袋には十分な余裕があった。
しっとりしたパンに挟まれたきゅうりを噛むと、爽やかな歯応えがした。もう一つ食べ、さらにハムの載ったものへ手を伸ばす。
「君、よく食べるな」
「殿下の身体だからでしょうか。全然、お腹がいっぱいになりません。この身体、最高では?」
「最高かどうかはともかく、俺の顔で食べ続けると、今後出される量が増えそうで心配なんだが」
「王子殿下が、その程度の食費を気になさるのですか?」
「食費の問題ではない。毎回増え続ける量を出されたら、残すわけにもいかなくなるだろう」
「でしたら、お手伝いに伺います」
自然に答えた後で、ナナリーは手を止めた。元に戻ったら、王子の食事を手伝いに来る理由など、どこにもない。今は何もかも奇妙なので、距離感までおかしくなっているらしかった。
シノンはサンドウィッチへ伸びたナナリーの手を見てから、自分でも一つ取った。
「まず、入れ替わった時のことを整理しよう。覚えているのは、媚薬と落雷。それから」
「私のファーストキスを奪った極悪人」
「人助けだったはずだろう」
「それは感謝しています。でも、思い出すと恥ずかしいので、少し文句を言いたかったんです」
ナナリーは唇へ触れかけ、今はシノンの唇だと気づいて手を引っ込めた。こういう時、自分は誰の顔で赤くなっているのだろうと考えるだけで、さらに恥ずかしくなる。
「殿下は、初めてではなかったのですか?」
「それは今の話に関係ない」
返事が速かった。しかも、せっかく元に戻りかけていた顔の色が、また赤くなっている。
聞きたいことが一つ増えたが、ナナリーがたずねるより先に、シノンが話を戻した。
「媚薬の方から確認しよう。東屋では、拾った瓶だと言っていたな。ロザリー嬢の名前も出ていたが、彼女が落とすところを見たのか?」
「見たわけではありません。ホールでロザリー様とぶつかった後、足元に転がっていたんです。でも、ぶつかった時、ロザリー様から同じ甘い香りがしました。そうだ、瓶はそのドレスのポケットに入れたはずです。右側です」
シノンがスカートへ目を落とし、少し探ってから小さなガラス瓶を取り出した。
「ドレスにもポケットがあるのか」
「便利でしょう。ハンカチも入ります」
瓶は夜会のホールで見た時よりも、ずっと怪しく見えた。中の液体は薄いピンク色で、小さな粒のようなものが光を受けてきらめいている。
こうして明るいところで見ると、明らかに魔術で作られた薬だった。どうしてあの時、普通の香水だと思ってしまったのか。
勉強不足という言葉が頭に浮かんだが、今は他に考えるべき問題があるので、ひとまずその事実は端へ寄せておいた。
「彼女の持ち物だった可能性はある。ただ、それだけで決めつけるわけにはいかない。中身は専門の者に調べてもらおう」
シノンは蓋が閉まっていることを確かめ、ハンカチで丁寧に包んだ。自分の手がこんなに慎重に動くのを見ていると、ナナリーも少し反省したくなる。
「媚薬だけで身体が入れ替わるなんて、習った覚えはありません」
「俺もない。単に雷に打たれたから、というのも説明にならない。あの時、何か声を聞かなかったか?」
ナナリーは、東屋での光景を思い返した。
唇に触れた感触まで蘇りそうになり、その場面だけ急いで飛ばす。確か、彼の背後に黒い翼が見えた。その後、カラスが鳴いていたはずだ。
「殿下の背中から、黒い羽が生えたように見えました。それに、カラスが何羽も鳴いていて、男の人の声で」
「楽しませてもらおうか」
「そう、それです!」
ナナリーは顔を上げた。シノンが真剣な表情で頷く。
「俺も聞いた。気のせいではなかったらしい。それに、近衛が来た時、東屋には何者かの結界があったと報告されている。誰かが術を使った可能性がある」
「誰かって、あの場には私たちしかいませんでしたよね」
「俺たちには見えていなかったのかもしれない。黒い翼とカラスなら、闇の魔術を連想するのだが……」
「闇の魔術?」
ナナリーは膝の上で手を握った。
人の魂を媒介として力を行使する、古い魔術。危険なものが多いため、今では禁忌とされ、学院でも扱うことを許されていない。
試験前に現実逃避で使い魔召喚を試したナナリーでも、さすがにそこまでは手を出していない。
「魂に作用する魔術なら、入れ替わりを説明できるかもしれない。ただ、そんな術を扱える者が、城の中にいたとすると」
「怪盗シルヴァンですか?」
シノンがこちらを見た。その顔に少し驚いた様子が浮かんだので、ナナリーは先に言っておく。
「私だって、それくらい知っています。魔術師の卵ですから」
「疑ってはいない」
「今、意外そうなお顔をなさいました」
「話が急に通じたことに、少し安心したんだ」
全然、褒められた気がしなかった。
闇の魔術師を名乗る怪盗シルヴァンは、王都を騒がせている人物だ。古い魔術、特に伝説の魔術師ヤン・ミュラーに関係する品を盗んでは、捕まえに来た騎士や魔術師を煙に巻く、厄介な人物らしかった。
ナナリーが詳しいのは、ジョルジュが時々部屋へ来て「また逃げられた」と愚痴をこぼすからだ。妹には勉強しろと厳しい兄が、追跡では何度も出し抜かれている。その話を聞く時だけは、ナナリーも少し気が楽になる。
「ジョルジュお兄様が、よく悔しがっています」
「そうだろうな。俺も彼から話を聞いている」
「兄と、そんなに親しくなさっていたのですか?」
「学院にいた頃から知っているし、仕事でも会う。妹は努力が嫌いだと、時々こぼしていた」
聞かなければよかった。
「嫁入り前の妹が、さらに嫁に行けなくなるようなことを外で言うなんて最低だわ」
「今夜の君の行動を見る限り、君が嫁に行きたいのか行きたくないのか、よく分からなくなっているんだが」
「まだ未定です。でも、行くか行かないかは、自分で考えたいんです。評判のせいで選べなくなるのは、また別の話でしょう」
シノンは少し目を細めた後、なるほど、と頷いた。その返事にナナリーも頷き返し、ようやく、二人で話を進められている気がした。
犯人も原因も、まだ分からない。しかし、目の前の相手と協力するしかないことだけは確かだった。自分の身体は彼のところにあり、彼の身体は自分が預かっている。
「では、まずシルヴァンについて調べるところからですね」
「候補の一つとしてだ。先に、誰に事情を伝えるかも考えないといけない。俺たちだけで、何日もこの生活を続けるのは無理がある」
「できれば、怒らない人がいいです」
「怒らないことより、秘密を守れるか、魔術の知識があるかの方が大事だろう」
ナナリーは、それに当てはまる人物を一人思いついた。思いついた途端に、できれば別の人にしたくなった。
その時、扉の向こうからエルネットの声がした。
「殿下。ジョルジュ・ドラクロワ様がお見えです。ご令妹もこちらにいらっしゃると伺い、お二人にお会いしたいとのことですが」
ナナリーの手が、ティースタンドへ伸びた途中で止まった。
シノンは立ち上がりかけ、ナナリーが首を横に振っているのを見て腰を下ろした。それからテーブルの術式を指先で消し、扉へ向けて丁寧に声をかけた。
「少々お待ちいただけますか。すぐに殿下に確認いたします」
自分の声で兄を待たせるのを聞いて、ナナリーは、とうとう逃げ道がなくなったと悟った。
向かいのシノンが、こちらへ身を寄せる。
「ちょうどいい。君の兄なら、口もかたいし、魔術にも詳しい。話そう」
「ちょうどよくないです。私、すでに心当たりだけで三つくらい叱られそうです」
「どれについてだ」
「拾った瓶を開けたことと、ヴィクトールお兄様に断らず庭へ走ったことと、靴を蹴り飛ばしたことです」
口に出して並べると、なかなかひどかった。シノンは一瞬黙り、それから同情するような顔になる。
ナナリーは、自分の顔に同情されるという不思議な体験をしながら、食べかけのサンドウィッチを急いで口へ運んだ。せめて説教が始まる前に、胃袋の方は満たしておきたかった。




