11 お兄様、妹はこちらです
「どうぞ」
最後のサンドウィッチを飲み込んでから、ナナリーは扉へ声をかけた。
入ってきたジョルジュは、魔術師団の黒い制服を着ていた。肩にはわずかな雨の跡があり、いつもきちんと整えている髪も、額の辺りが少し乱れている。
ルルーナが今の兄を見たら、濡れた髪までありがたがりそうだ。
ただ、残念なことにナナリーには、これから始まる説教の予告にしか見えなかった。
警備の仕事をしていたところへ妹の騒動を知らされ、庭を探し、その上、王子の部屋まで呼ばれたのだ。機嫌がよいはずがない。ナナリーは背筋を伸ばし、膝の上で両手を揃えた。
「シノン殿下。妹がご迷惑をおかけし、申し訳ございません。お怪我の具合はいかがでしょうか」
「大丈夫ですよ」
反射的に答えると、向かいのシノンから視線が飛んできた。
叱られるのが分かっていて、素直に「はい、私が犯人です」と手を挙げる人間なんていない。シノンの刺さるような視線と「早く言え」という無言の圧力から必死に目をそらし、ナナリーは堂々と王子の笑みを浮かべて見せた。
「大したことはない。気にしなくていいよ。ジョルジュも疲れただろう。今日はもう休みたまえ」
王子風の口調も完璧に決まったと内心で胸を張ったが、ジョルジュの張りついた笑顔はびくともしなかった。それどころか、黄金色の瞳の奥で怪しい光がぎらりと揺れる。
「ありがたいお言葉ですが、まずはこの愚妹を連れ帰り、じっくりとお灸を据えねばなりません」
「あ、はい……」
「愚妹」と直球で呼ばれた向かいの「自分」が、どこか居心地悪そうに肩をすくめた。内面から滲み出る――かどうかは微妙だが、王子の威光をもってしても、ナナリーの見た目では、兄の説教欲を退けることはできないらしい。
兄の口元は緩んでいるように見えるが、眉間がわずかに動いている。兄の外向きの笑顔から、本来隠しておくはずの不機嫌がはみ出していた。これはよくない兆候だ。
王子へ文句を言えるはずもない兄が、どこでその不機嫌を処理するのかは、考えるまでもなかった。
「ナナリー」
ジョルジュが向かいのソファーへ顔を向けた。声の温度が見事に変わる。
「お前、何をしたんだ」
シノンがカップを置いた。
「何を、と申しますと」
「その喋り方は何だ。殿下の前だからって、今更おしとやかなふりをするな。ヴィクトール兄さんに何も言わず庭へ走って、靴まで投げ捨てたそうじゃないか」
ナナリーは、膝の上で指を組み直した。
叱られているのは向かいの人なのに、言葉は全てこちらへ刺さってくる。自分の顔をした王子が代わりに座っていても、説教の効力は変わらないらしい。
「お前の靴を拾ってくださったのは、殿下なんだぞ。お怪我までさせて、一体何を考えてる」
「それは、僕も少々困っていて」
「僕?」
ジョルジュの眉が寄った。シノンが口を閉じる。
兄の取り扱い説明書を持たない人に、自分の分の説教を受けてもらうのは、さすがに申し訳なくなってきた。
観念したナナリーは、そっと手を挙げた。
「お兄様。あなたの可愛い妹はこちらです」
ジョルジュがこちらを見た。その目が、ゆっくり大きくなる。
「殿下?」
「今、お兄様が叱っているのはシノン殿下です。いつもお兄様に叱られている妹は、こっちにいます」
兄はナナリーを見て、シノンを見て、またナナリーを見た。
「私がナナリーよ」
分かりやすいように、自分の胸を指しておく。ただ、指した先には王子の身体があるので、説明を補強できているかは怪しい。
「つまり、私が殿下で、殿下が私なの」
「その説明では、かえって分かりにくい。ジョルジュ、俺たちは身体が入れ替わったんだ」
シノンが横からナナリーの言葉を補った。
今度こそ、ジョルジュが黙った。こんなに静かな兄を見るのは久しぶりだった。できれば普段も、これくらい話を聞いてから叱ってほしいものだ。
「ご冗談、ですよね」
「僕も、冗談ならよかったと思っている。まず扉を閉めてくれ」
シノンの声はナナリーのものだったが、話し方には、普段ジョルジュと向き合う時の王子の落ち着きがあったのだろう。
ジョルジュは無言で扉へ戻り、隣室のエルネットへ、魔術師団として事故の状況を確認したいと伝えた。
「それでしたら。ですが、お二人ともまだお疲れですので、長くはなさらないでください」
「もちろんです」
エルネットから許しを得て扉を閉めると、ジョルジュはテーブルの端に浮かぶ術式を見つけた。
「会話を遮る術まで」
「さっき俺が置いた。外からの呼びかけは聞こえる」
シノンが答えると、兄の目つきが少し変わった。
俺という呼び方に反応したのかもしれない。この二人は外向きと内向きの顔を使い分ける者同士、通じ合うところがあるのだろう。ナナリーとしては、その技術よりいつ誰を相手に切り替えているのか、その判断基準を今後の参考までに教えてほしかった。
だが、そんなことを言い出せる雰囲気ではない。
ジョルジュはソファーの脇へ立ち、二人の顔をまじまじと眺めた。
「失礼ですが、幻術や念話による悪戯の可能性は」
「こんなことをする意味があるか?」
「意味もなく妙なことをする人間を、僕は一人知っておりますので」
そう言って、ジョルジュは妹の顔をしたシノンに凍える視線を向けた。
ナナリーは挙げていた手を、もう少し高くした。
「妙なことという点には異議ありだけど、お兄様が示した人間は私です」
兄の顔がますます難しくなった。さっきから話しかける相手を間違えているのだから、そろそろ位置を覚えていただきたい。
「お前がナナリーだと言うなら、答えてみろ。僕が昨年、夜中に厨房へ行った時」
「残り物の苺タルトを食べようとして、お皿を落とした話?」
「そこまで言えとは言ってない」
「義姉様が夜中に喉が渇いたと起きてきて、割れたお皿を見つけたから、私が食べたことにしてほしいって頼んだでしょう。ナナリーなら夜中にタルトを食べても不思議じゃないって」
ジョルジュの頬が引きつった。
「私、食べてもいないタルトのことで、お母様に叱られたんですけど」
「口止めに焼き菓子を買ってやっただろ」
「その焼き菓子を買いに行ったのは私だし、ちゃっかり自分の分も買ってこいって余分にお金を押し付けてきたじゃない」
「それはお前が自分で選ぶと言い張ったからだろ」
「そうだっけ?」
「全くお前は……というか、僕の分の話は、今、必要ないだろう」
「私の食い意地ばかり外で言いふらすからよ。お兄様だって、真夜中に厨房に行くくらいには、苺タルトがお好きじゃない」
向かいのシノンが、カップを口元へ持ち上げた。飲んでいるにしては、肩が少し揺れていた。
兄の名誉のため、普段は黙っている話だ。しかし今は、今後の運命を左右する本人確認の局面だ。ナナリーは、堂々と次の話へ進むことにした。
「もう一つ教えてあげる。去年、魔術師団への入団が決まった時に、お母様から」
「分かった。それ以上はいい」
ジョルジュが素早く遮る。
「でも、確かめなくていいの?」
「十分だ」
「殿下にもお話ししておいた方が、今後のために」
「今後の何のためだ」
兄の秘密なら、ナナリーにもそれなりの蓄えがある。兄が自分の顔をした王子を前に、言葉を選んでいる様子は、なかなか新鮮だった。だが、経験則からするとこれ以上悪ノリをするのは危険だった。深追いしすぎれば、今度は自分の痛い腹を探られかねない。
ジョルジュは一度息を整えてから、検査の必要を説明してきた。
「殿下の中身がナナリーなのは、かなり納得した。ただ、記憶を読み取られた可能性は残る。魔術で確認させていただいても、よろしいでしょうか」
「構わない」
シノンが答え、ナナリーも頷いた。
「お兄様、痛くしないでね」
「殿下の身体に、そんなことをするわけがないだろ」
「私の身体でも、しないでほしいんだけど」
兄は返事をせず、上着の内側から細い鎖のついた水晶を取り出した。小さな金属の枠には、細かな文字がいくつも刻まれている。
「手のひらを上にして、こちらへ」
「うん」
言われた通りに腕を伸ばす。ジョルジュはナナリーの手のひらの上へ水晶を吊るし、その下に指で術式を描いた。
青白い光が輪になって広がり、内側を細い光が走った。すると、そのうちの一本だけが、向かいのシノンへ伸びていく。
ジョルジュの指が止まった。
「今度は、そちらのお手を拝借してもよろしいでしょうか?」
シノンにも同じ術を施すと、もう一つの輪が浮かんだ。今度はそこから伸びた光が、ナナリーに向かって飛んできた。
二つの輪の間に、ほとんど見えないほど細い糸ができた。ナナリーが指を動かすと、糸もふわりと揺れる。
「引っ張ったら、戻れる?」
「引っ張るな」
「まだ引っ張ってないわ。可能性をたずねただけでしょ」
「余計なことを考えるな」
ナナリーは大人しく手を止めた。兄は昔から、ナナリーが何かを思いつくと、その次に何をするつもりなのかまで先回りしてくる。今回はまだ質問しただけなのに、実際に糸を引っ張るところまで読まれていたようだ。
ジョルジュは別の術式を重ね、二人の顔の前へ薄い光を通した。姿は何も変わらない。
「幻術の反応はありません。意識を操る術や、念話で別の声を聞かせている痕跡もない。ただ、身体と魂をつなぐ流れが、互いの方へ伸びています」
ナナリーはシノンを見た。彼も自分の手に残った光を眺めている。
「では、本当に入れ替わっていると」
「少なくとも、見た目を変える術や悪戯では説明できません。このような反応を実際に見るのは、僕も初めてです」
ジョルジュの声が硬くなった。
光が消えると、ナナリーは手を膝へ下ろした。もう夢ではないとさっきから納得しているはずなのに、改めて兄の検査で入れ替わりを認められると、胸の奥がまた少し落ち着かなくなった。




