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08 私がいる

「はい。殿下と共に東屋で倒れていらした、ナナリー様です」


 イザベルが、はきはきと答えた。


 自分はここにいるのに、扉の向こうにもナナリーがいる。それは、なかなか興味深い展開だった。せっかく見る夢なのだから、自分がもう一人いるところまで確かめてみたい。


「ああ、あの可愛らしい子か」


 エルネットの片眉が、今夜三度目の上昇を見せた。ロランは盆を抱えたまま、口を半分開けている。


 念のため言っておくと、自分で自分を可愛いと言ったわけではない。夢の中の王子として、ドラクロワ伯爵令嬢を適切に紹介しただけだ。


「彼女は、初等科からの僕の学友である。何か困っているのかもしれない。よろしい、通してくれたまえ」


 プリントを回した仲なのだから、嘘ではない。


「殿下。念のため申し上げますが、現在は婚約者選びの最中です。夜会の途中に、ご令嬢を私室へお招きするとなれば、噂になる可能性がございます」


 言われてみれば、その通りだった。ナナリーが読んだ恋愛小説でも、王子の部屋を訪ねる令嬢には、大抵何かしらの下心があった。


 けれど、今は自分を見てみたい。ナナリーは腕を組み、王子なら言いそうな理屈を探した。


「しかし、同じ事故に遭った相手だ。具合を気にかけずにお帰しするのも、僕としてはいかがなものかと思うのである」


 エルネットは少しの間、こちらの顔を見ていた。ナナリーは背筋を伸ばして待つ。どうも「である」をつけすぎた気がしたが、今更取り消すのもおかしい。


「……では、寝室ではなく、続きの応接間へ。私も同席いたします。イザベル、ご令嬢をそちらへご案内して。それから、お茶と軽食を」


「かしこまりました」


 イザベルが一礼して下がっていく。


「それでよろしい」


 腕を組み、それっぽく頷いておく。


「その前に、殿下はお着替えを。寝間着のままでは、ご令嬢も落ち着いてお話しになれません」


「確かに。いつもと違う格好って、何かどきどきしますものね。それに、男女でパジャマパーティーというのも、あまりよくないと思うし」


 四度目。


 ナナリーは慌てて咳払いをしたが、侍女長らしいエルネットは問い返さず、「ロラン、殿下のお召し物を」とだけ告げた。問い返されない方が、かえって怖い。


 ロランが衣装部屋へ駆けていき、白いシャツと濃紺のズボンを抱えて戻ってきた。そして当然のように、寝間着の紐へ手を伸ばす。


 そこでナナリーは、ようやく重大な問題に気づいた。


「待ってください。着替えは、一人でします」


「ですが、殿下はお怪我を」


「手も足も動きます。服の着方だけ教えていただければ」


 ロランは戸惑いながらも、衣服を順番に並べ、留め具の位置を説明してくれた。ついでに、鏡の奥に着替え用の衝立があることまで教えてくれる。王子に服の着方を教える日が来るとは思っていなかったのだろう。説明する声が少し震えていた。


 衝立の陰へ入ったナナリーは、シャツとズボンを前に、しばらく動きを止めた。


「夢なら、念じるだけで着替えが済むかもしれないわ」


 何となく目をつぶり、三秒待ってから開けてみたが、期待も虚しく寝間着のままだった。


「なんで?」


 夢なのだから、着替えくらい一瞬で済ませてくれてもよさそうなものなのに、ここだけ妙に現実に忠実だった。


 寝間着を脱ぎかけてから、ナナリーは天井を見たまま作業を進めることにした。見なくていいものは、できるだけ見ない。その方針を固く定めたのに、途中で自分の身体との決定的な違いに気づいてしまい、衝立の陰で小さく悲鳴を上げた。


「殿下、どうなさいました!?」


「何でもありません。男の子って、大変ですね」


「殿下……?」


 衝立の向こうで、ロランが途方に暮れている気配がした。


 返事をせず、ナナリーは急いでシャツを着た。夢にしては、知らなくてもよかったことまで、よくできている。


 今日初めて口づけという行為を実習したばかりなのに、まさかその日のうちに、異性の身体構造についてまで、いらぬ知識を得てしまうとは。大人の階段を飛び級しすぎていて、頭の中の受け入れ容量が限界を超えそうだった。


 それでも何とか服を着終えて応接間へ移った頃、扉が開いた。


 イザベルに案内されて入ってきた少女を見て、ナナリーは口を開けたまま固まった。


 うぐいす色の髪に、金色の瞳。見慣れた丸顔と、イエローゴールドのドレス。髪飾りは外され、濡れていた裾も乾いているが、どう見ても自分だった。


「私がいる」


「殿下。口が開いていらっしゃいますわ」


 声まで自分と同じだった。ただ、言い方は妙にきっぱりしている。


「すごい。私にそっくりな人が私の声で、ちゃんと感じ悪い」


「あら、殿下。肩に埃が」


 自分を語る少女は言葉を遮り、こちらへ足を進めた。三歩目で少し足元が揺れたが、そのまま踏みとどまり、ナナリーの肩へ手を置く。


『君はナナリー・ドラクロワだな?』


 頭の中に、シノンの声が響いた。


『俺はシノンだ。どうやら、俺たちは入れ替わっている。今はややこしくなるから、話を合わせてくれ』


「やだ、シノン殿下の声がする。今の、念話魔術?」


 自分そっくりの少女の笑顔が引きつった。鏡では見たことのない、自分の表情だった。なるほど、自分はこんな顔もできるらしいとまじまじと顔を眺める。


『声に出すな』


「あ。そういう決まりなのね」


『念話とは、そういう魔術だろ』


 言われてみれば、その通りだ。習った時にも、声に出さず意思を伝えられる便利な魔術だと説明されていた気がする。


『とにかく、今は騒ぐな』


 低い声で、シノンが念を押す。


 どうやら彼は、見た目と中身があべこべになっているという驚愕の事実を受け入れろ、と言っているらしい。


 なるほど、話の筋は通っている。だが、大事なことを忘れている。


「夢の中なんだから、もっと気楽にいきましょうよ、殿下」


 にこりと微笑むと、とても嫌そうな顔になった自分と目が合った。


「……殿下?」


 エルネットの声がした。王子が、目の前の伯爵令嬢を「殿下」と呼んだのである。五度目の眉が、これまでで最も高く上がっていた。


「い、いや。殿下というのは僕のことで。つまり、自分に言い聞かせているのである。気楽にいけよ、殿下、と。まぁ、そのような感じである」


 自分の顔をしたシノンが、天井を仰いだ。


「殿下、ご令嬢にお席をお勧めになってはいかがでしょう」


 エルネットが、何事もなかったように促してきた。助け舟なのか、これ以上喋らせないための措置なのかは分からないが、ありがたく乗ることにする。


「どうぞ、どうぞ。こちらへおかけください」


『令嬢に、そんなに腰を低くするな』


 自分の顔から、今度は鋭い視線が飛んできた。小説の王子を真似すると侍女長に見つめられ、普通に話すと自称シノンに睨まれる。王子の言葉選びは、思ったより難しい。


 やたらとリアルな夢であることに変わりはないが、あまりにややこしいので、ひとまず目の前の自分をシノンと呼ぶことに決めた。頭の中を整理しながらソファへ向かって歩き出すと、隣でシノンが声を上げた。


「うわっ」


 よろけた彼の腕を咄嗟に掴み、ナナリーは自分の身体を支えた。妙な言い方だが、そうとしか言いようがない状況だった。


「大丈夫? 足、ひねってない?」


「何なんだよ、この靴は。まともに歩けやしない」


 自分の声で、シノンらしい文句が出た。


 部屋の空気が止まった。エルネットとロランが、伯爵令嬢をジッと見ている。


「――と、兄がよく申しておりますの。おほほ」


 シノンは扇子もないのに口元へ手を添え、令嬢らしく笑った。だが、兄のジョルジュはヒールを履かない。


 ナナリーは黙っておくことにした。


 改めて彼の足元を見て、事情を察する。今、彼が苛立っている原因は、今夜のために母が新しく仕立てさせた黄色い靴だった。


「ああ、ヒールね。つま先に体重がかかるから、慣れないと難しいの。それに、まだ下ろしたばかりだから、靴擦れするでしょ?」


『難しいというか、痛い。指も踵も痛い。どうして女の子は、こんな拷問みたいな靴を履くんだよ』


 今度はちゃんと、念話で文句を言ってきた。


「見た目がいいから」


『それだけで、この苦行を?』


 ナナリーは頷きかけたが、エルネットが二人をじっと見ていることに気づき、口を閉じた。王子が令嬢の靴擦れに詳しいのは、どう考えてもおかしい。


 夢の中なのに、いちいち自分に与えられた役の設定まで気にするのもどうかと思ったが、エルネットの視線がやけにリアルだったので、一応気にしておくことにした。


 無言で腕を支え続けていると、黄色いドレスのシノンが小さく息をつき、ようやく体勢を整えた。


「ありがとうございます、殿下。少々、足元が覚束なくて」


「いや、気にするでない」


『その口調も気になる。普通に喋れ』


 注文の多い王子だった。ナナリーはシノンを支えたまま、できるだけゆっくりソファへ近づいた。


「ふう」


 一息ついたシノンは、迷いなく暖炉側の席へ腰を下ろしかけた。そこですかさず、エルネットの声が飛んできた。


「ドラクロワ伯爵令嬢。そちらは殿下のお席でございます」


 厳しい指摘に、シノンの動きが止まる。


「あ、そうだった。いつもの……いえ、失礼いたしました」


 いつもの、と言いかけた口を閉じ、シノンは生まれたての子鹿のように足元を震わせながら、反対側へ回った。


 自分の姿で粗相をされると、妙に胸が痛む。こちらは何もしていないのに、帰宅後に母から叱られた時のような居心地の悪さだった。


 ナナリーは暖炉側のソファへ座り、ようやく肩の力を抜いた。足を動かして楽な姿勢を取ろうとしたところ、靴の先がローテーブルの脚へぶつかる。


「シノン殿下、足、長っ」


 思わず声に出てしまい、慌てて両手で口元を覆う。向かいのシノンが、ナナリーの顔のまま額へ手を当てた。


 エルネットの眉は、もう数えるのをやめた。シャンデリアの魔石灯なら全部数えられたのに、侍女長の眉の上下は途中で諦めてしまった。数える意味がないほど、上がりっぱなしだったからである。


 ナナリーは足を引っ込め、自分の膝を眺めた。見晴らしはよいし、足も長いが、歩く時には頭をぶつけ、座る時にはテーブルへぶつかる。背が高いというのも、よいことばかりではないらしい。


 そこへ、イザベルが紅茶と軽食を載せたカートを運んできた。銀のティースタンドには、小ぶりなサンドウィッチと、焼き色の綺麗なスコーンが並んでいる。


「夢にも、ちゃんと救いはあったわ」


 味がするかどうかはさておき、いい香りはしていた。


「殿下。少しだけ二人にしていただけますか。あの時のことで、お伝えしたいことがございますので」


 シノンが、エルネットを意識するように声を落とした。令嬢らしい言葉遣いは、ナナリー本人よりよほど板についている。ナナリーは頷き、今度こそ普段のシノンを思い出しながら口を開いた。


「そうだね。エルネット、少し話をさせてほしい。何かあれば呼ぶから」


 侍女長は二人の顔を順に見た。それから、扉の脇へ視線を向ける。


「では、私どもはすぐ隣で控えております。先生がお戻りになりましたら、お知らせいたします」


 扉は閉め切らず、細く開けたままにされた。誰にも聞かれずに秘密の相談をするには、少々心許ないが、口に出さず話す魔術ならある。


 使用人たちの足音が遠ざかると、向かいのシノンが深く息を吐いた。自分の顔が、見たこともないほど疲れ切った表情をしている。その姿を見て、ナナリーもソファへ背を預けた。


 自分の顔と声で、シノンがこちらを見ている。夢だとしても不思議だし、夢ならもう少し気楽に楽しませてほしかった。


 ナナリーはまず紅茶を一口飲んだ。温かさも香りも驚くほど本物らしく、渇いていた喉が潤っていく。カップを置くと、次はスコーンの隣に小さな器に入ったクリームと苺ジャムを見つけた。


 確かめたいことは色々あるが、あれがクロテッドクリームかどうかも、ナナリーには大切な問題だった。

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