07 殿下のお肌は、何でできている
「東屋には、城のものではない結界が張られていたと?」
「はい。近衛が到着した時にはすでに消えておりましたが、周辺に残った魔力から、魔術師団がそう判断しております」
低く、落ち着いた男の声が聞こえた。ナナリーは目を閉じたまま、その声を聞いていた。眠いのに、誰かがすぐ近くで難しい話をしている。
「シノンの容態は」
「打撲と擦り傷はございますが、いずれも軽いものです。ドラクロワ伯爵令嬢も診察を終え、客室でお休みになっております。お二人とも、しばらく安静にするようにと」
「では、警備は引き続き厳重に。エルネット、シノン殿下を頼む。目を覚ましたら知らせてくれ。私は会場へ戻る」
「かしこまりました」
女性の声が答え、衣擦れの音が遠ざかった。扉が静かに閉まる。
エルネットという人が、シノンという人を頼まれたらしい。どちらにしても、自分には関係のない話だ。ようやく眠れそうだと思ったのに、今度は顔のすぐ近くで声がした。
「殿下。お目覚めになりましたか?」
殿下という人は、ずいぶん近くで寝ているらしい。だとしても、もう少し向こうで起こしてもらえないだろうか。
ナナリーはもぞもぞと身体を動かし、ゆっくり目を開けた。
上質な黒いワンピースを着た女性が、こちらを覗き込んでいる。年齢は母より少し上だろうか。きちんと結い上げた髪にも、背筋の伸びた姿勢にも、隙がない。声には聞き覚えがあった。先ほど「かしこまりました」と答えた人、つまり、この人がエルネットだ。
見知らぬ人なのに、眠り足りないから放っておいてほしいとは、なぜか言いにくい雰囲気だった。学院で一番厳しい魔術礼法の先生と、同じ種類の空気をまとっている。
「ご気分はいかがでしょう。ロラン、お水を」
「はい、エルネット様!」
部屋の隅から、ナナリーより少し年下の少年が飛び出していった。従者の服を着て、栗色の髪をきっちり撫でつけている。どうやらあちらがロランらしい。
よく分からないまま、ナナリーは枕へ頬を沈めた。その感触があまりに柔らかく、思わずうっとりする。まさかこの枕、雲を袋に詰めたのだろうか。
掛け布団も軽いのに温かく、シーツからは清潔な香りがした。自分の寝台だって寝心地はいいと思っていたが、こちらは頭を乗せただけで、もう一度寝ることを問答無用で勧めてくるタイプだった。
しかし、寝台のよさを堪能している場合ではない。一体ここはどこなのかと、ナナリーは枕から顔を上げ、部屋を見回した。
壁紙は濃紺、調度品は艶のあるこげ茶色でまとめられている。窓辺には厚いカーテンがかかり、奥には暖炉と、立派なソファセットが見えた。明らかに自分の部屋ではない。
ナナリーの部屋は、祖父が「待望の女の子だ」と張り切って用意した、白と淡いピンクの世界である。机にも椅子にも花が彫られ、鏡の縁にまで小鳥がいる。十七歳になった今では、もう少し大人っぽい家具に替えたいところだけれど、祖父の喜びが家具という形で刻まれているため、なかなか言い出せない。
父や兄の部屋とも、屋敷の客室とも違う。そう思いながら視線を動かし、壁にかけられた絵を見つけたところで、ナナリーは目を細めた。
あの絵は、お土産屋で売っているポストカードで見たことがある。
水辺の風景の中に、白いイリスが描かれていた。アヤメに似たその花は、ルルシア王国にだけ群生する魔力花だ。根も茎も葉も薬に使え、花は香りづけにも使える。見た目が綺麗な上に、余すところなく役に立つ、大変働き者の植物である。
イリスは幸運の花と呼ばれ、王家の紋章にもなっている。その意匠の元になったのが、伝説の魔術師ヤン・ミュラーの描いたイリスの絵だった。
ヤンは庶民の出でありながら、幾度も国を戦火から救い、恋仲になったジルレイア王女との結婚を許された。歴史の本では幸運な男として紹介されているが、ナナリーは、その説明を読むたびに少し引っかかっていた。
国を何度も救うほどの魔術師になるのは、どう考えても運だけでは無理だ。自分など、試験範囲の術式を覚えるだけでも一苦労なのだから。
現在の王家にも彼の血が流れているため、ヤン・ミュラーが描いたイリスの作品は国のあちこちで複製されていた。しかし、今この部屋にかかっている絵は、いつも見かけるものと少し違う。
花びらから茎へ、茎から水辺へと巡る魔力が、驚くほど滑らかだった。眺めているだけで、呼吸までゆっくりになる。百年以上前に描かれた作品には、今も国の繁栄を祈る魔術が残っているそうだが、これほど美しい流れまで複製できるものだろうか。
もし本物だとしたら、ここは相当に特別な部屋なのではないか。そう考えたところで、ナナリーは今夜ここへ来るまでのことを一気に思い出した。
王城の夜会で香水瓶を拾い、媚薬を嗅いでしまった。それから雨の中で、シノンと口づけを交わしたのだ。
唇へ指を当てると、触れた時の温かさまで戻ってきた。顔へ熱が集まり、ナナリーは掛け布団を鼻の下まで引き上げる。
「お顔が赤くなりましたね。やはり、まだ熱がおありでしょうか」
エルネットが、心配そうに身をかがめた。ちょうどロランも、銀の盆にグラスを載せて戻ってくる。
熱はあるかもしれないが、原因はそこではない。身体よりも、今は唇に残る記憶の方が問題だった。
「いえ、私は大丈夫で……あれ?」
ナナリーは口を閉じた。それから、恐る恐る、もう一度開く。
「あー。あ、あー?」
声が明らかに低い。寝起きだから少しかすれている、という程度の違いではなかった。
「殿下?」
「私の声、男の子なんですけど」
ロランが盆ごと固まった。グラスの水だけが、小さく波打っている。
エルネットの片眉が、ぴくりと上がった。母が家計簿の中に、身に覚えのない出費を見つけた時と、そっくり同じ動きだった。
ナナリーは布団から両手を出し、顔の前へ持ち上げた。普段より大きく、指の節がしっかりしている。手のひらには、剣の練習でできたような硬いところまであった。
「やだ、手も違う」
「お待ちください。ロラン、すぐに先生を――」
「その前に、鏡を見てもいいですか」
返事を待たずに、ナナリーは寝台から足を下ろした。立ち上がると、床が恐ろしく遠くなる。エルネットの頭のてっぺんが見え、部屋の家具まで何となく低く感じられた。
寝台の脇から姿見へ向かうには、開け放たれた飾り扉を通る必要があった。普段のナナリーなら何も考えず歩ける高さだが、今は上の枠が頭に近い。
かがんだつもりだった。けれど顔だけ下げて足を進めたせいか、額の辺りに、ごつんと硬いものが当たった。
「いたっ。この扉、低っ!」
「殿下、そこはいつもお屈みになるところです!」
先生を呼びに行きかけていたロランが、扉の前で振り返って叫んだ。
初めて通ったのに、いつもと言われても困る。しかも、成績最下層のナナリーを殿下と呼ぶなんて、王子本人が聞いたら不敬だと思うのではないだろうか。
ナナリーは額を押さえ、今度こそ腰を曲げて通り抜けた。姿見の前で息を整え、顔を上げる。
金髪の美しい青年が、こちらを見ていた。青い瞳を大きく開き、白い寝間着をまとい、片手で額を押さえている。ナナリーが手を下ろすと、鏡の中の青年も同じように手を下ろした。
「うそ。私、シノン殿下?」
鏡に近づいても、姿は変わらない。頬を触ると、彼も頬を触る。右へ顔を向ければ、王子の美しい横顔が見えた。左へ向けても、やはり美しかった。
なんということだ、美しさに死角がない。
「これは、夢だ」
ナナリーは鏡へ両手をつき、深く頷いた。
今夜は媚薬を嗅いで、キスをして、雷に吹き飛ばされた。そんなことが立て続けに起これば、おかしな夢くらい見るだろう。
納得すると、少し落ち着いた。夢なら、自分が王子になっていても問題はない。女神様が、あまりに散々だった試験結果へのお詫びに、面白い夢を用意してくれたのかもしれない。
「それにしても、やっぱり美しいわね」
ナナリーは頬を両手で挟み、指先でそっと押した。もっちりとした感触がする。顔を近づけて見ても、毛穴がどこにあるのか分からない。
「女の私より、お肌が綺麗なんですけど。一体、何の保湿クリームを使っているのかしら」
「殿下、お肌に痛みがおありですか?」
「いえ。むしろ、悔しいくらい調子がいいです」
鏡越しに、ロランが泣きそうな顔でエルネットを見るのが映った。エルネットの片眉は、今夜二度目の上昇を見せている。
ナナリーは気にせず唇を眺めた。口紅もグロスもつけていないのに、血色がよく、自然な艶がある。
「何、この唇。脂身たっぷりのステーキの肉汁でも、ここまで艶々にはならないのに」
「殿下が……肉汁……」
背後でロランが呟いた。王子の口から聞く予定のなかった単語だったらしい。
指で軽くなぞると、鏡の中のシノンが同じ動きをした。それが妙に色っぽく見えて、ナナリーは慌てて手を引っ込めた。
先ほど触れたのは、この唇なのだ。夢の中でまで思い出さなくていいのに。
ナナリーは両手で顔を扇いだが、その仕草まで王子の顔で再現されてしまい、ますます落ち着かなくなる。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。客室付きの侍女、イザベルでございます」
入ってきたのは、城のお仕着せを着た若い侍女だった。急いで来たのか、少し息が上がっている。
「ドラクロワ伯爵令嬢がお目覚めになり、殿下とお話ししたいと仰せで……。お止めしたのですが、どうしてもと仰るので、お部屋の前までお連れしております」
「お連れした? 先生の診察は終わっているのね?」
「はい。お身体に問題はないとのことです。ただ、その、歩き方が少々……」
ナナリーは鏡の前で振り返った。
「ドラクロワ伯爵令嬢って、今、仰いました?」
どうやらこの夢には、自分が二人いるらしい。




