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06 一思いに、キスしちゃってください

 媚薬を嗅いだと気づいてくれたシノンに、ナナリーは勢いよく頷いた。


 自分の口で説明しようとすると途中に必ず告白が挟まるので、彼の方から察してくれるのは、非常に助かる。


「誰かに嗅がされたの?」


「拾った香水瓶を、自分で。ロザリー様とぶつかった後に落ちていて、でも落とすところは見ていなくて、殿下、好きです」


「最後の一言は、事情の説明に必要ないよね」


「私もそう思います。でも好きだって思って口から出ちゃうんです」


 ナナリーは両手で顔を覆った。王子へこんな報告をする日が来るとは思わなかった。しかも原因は、自分が落とし物の蓋を勝手に開けたことである。


「瓶の蓋は閉めた?」


「閉めて、ポケットに入れました」


「よかった。今は出さないで。僕にも作用したら、収拾がつかなくなる」


 その可能性については、ナナリーも考えたくなかった。自分が好きだと言うたびに、向こうまで好きだと返してきたら、それはもう、兄に一生言われるどころの話ではない。


 シノンが指先で短い術式を描いた。淡い光がふわりと広がり、風の通り道を作るように、東屋の中に停滞していた空気が動く。濃くまとわりついていた甘い香りが少し薄まり、ナナリーはようやく息を深く吸えた。


 だが、胸の苦しさは収まらない。シノンへ手を伸ばしたい気持ちばかりが、ますます強くなる。


「すみません。苦しくて、少し、支えていただいてもいいですか」


「分かった。立たなくていいから」


 シノンが傍へ来て、ナナリーの肩へ手を添えた。それだけで安心し、同時に触れられた場所から熱が広がる。


 近寄らないでと言ったのに、自分から頼んでしまった。頭の中に残るいつものナナリーは、そのことをちゃんと分かっていたが、身体の方は王子が手の届く場所に来たことを全力で歓迎していた。


 気づけば、彼の礼服を両手で握っている。


「あ、君、それは少し近い」


「だって、シノン殿下のことが大好きなんです」


「うん。それはさっきから、何度も聞いてる」


 シノンは赤くなった顔を少し横へ向けた。ナナリーは彼の胸元へ額を寄せかけ、肩を押さえられて止まる。


「落ち着け。俺はお前を助けるために来たんだ。だから、いったん、少し離れてくれ」


 声が変わった。正確には声ではなく、口調が変わっていた。


 ナナリーは顔を上げ、目を丸くする。いつも優雅に微笑んでいる王子の口から、俺とお前が出てきた。これはもう、大事件だ。


「殿下、普段とお話の仕方が違いますね」


「今はそこに気づかなくていい」


「でも、その話し方も好きです」


「頼むから、少し黙ってくれ」


 そう言いながらもシノンの手は、ナナリーがベンチから落ちないように支えていた。困らせているのが分かるのに、その気遣いに胸がきゅんとして好きが膨らむ。理性がいくら抗議しても、ナナリーの思考回路は全てを好意として受け取るらしかった。


「ああ、どうしてこんなに素敵なの」


 うっとりした顔をシノンに向けたとき、遠くから、二人を呼ぶ声が聞こえた。


「ナナリー!」


「シノン殿下!」


 ナナリーは声のする方へ顔を向けた。雨の向こうに人影が見えた気がしたが、庭を照らす明かりが滲んでいて、誰なのかは分からない。


「ここだ!」


 シノンが声を張った。その声に重なるように、上空で雷が鳴る。先ほどよりもずっと近い音に、ナナリーは肩を縮めた。


 何かが東屋の柱の間を、薄く光りながら走ったように見えた。雨の反射だろうかと思ったが、確かめようとした途端、胸の奥がぎゅっと縮む。


「シノン殿下、苦しいです。死ぬかも。だから、早く助けてください」


 礼服を握る指に力が入る。もう好きだと言うより、息を整える方が難しかった。


 シノンがすぐにナナリーへ向き直った。赤くなっていた顔から笑みが消え、肩を支える手に力がこもる。


「薬の作用を解く方法は知ってる。ただ、口づけで魔力を渡さないといけない」


「授業で、聞きました」


「もう少しで人が来るけど、待てる?」


 ナナリーは答えようとしたが、吸った息が途中で震えた。待てると言って彼を安心させたいのに、胸の苦しさには勝てそうもない。


「待てません。お願いします。早く、一思いにキスしちゃってください」


「その言い方、何とかならないか」


「今、言葉を選ぶ余裕があまりなくて」


 シノンは一度目を閉じ、小さく息を吐いた。それからナナリーの両手を礼服から外し、ナナリーの顔を真っすぐに見た。


「いいか。今からすることに他意はない。薬を解くためだからな。戻ってから、俺が勝手にしたとか言わないでくれよ」


「言いません。助けていただいたって、お伝えします」


「できれば、伝える相手も選んでくれ」


 返事をする前に、温かい指が顎へ添えられた。


 近くで見るシノンの瞳は、庭の明かりを受けて、深い青に見えた。睫毛に残っていた雨粒が一つ落ちる。その様子に見惚れていると、彼が少し顔を傾けた。


 次の瞬間、柔らかなものが唇に触れていた。


 自分でお願いしたのに、ナナリーは驚いて目を閉じることもできなかった。冷たい雨に濡れていたはずなのに、触れた唇は温かい。そこからじんわりと何かが流れ込み、胸の中へ広がっていく。


 それと同時に、視界の端で黒いものが動いた。


 シノンの背後に、大きな翼の影があった。まるで彼の背中から生えているように、真っ黒な羽が夜の闇の中へ広がっていく。


 どこかで、カラスが鳴いた。


 こんな雨の夜に、なぜカラスが。しかも一羽ではない。幾つも重なる鳴き声が、さっきまで耳を埋めていた雨音よりはっきり聞こえた。


『楽しませてもらおうか』


 低い男の声がした。


 シノンの唇が離れ、彼も何かに気づいたように顔を上げる。ナナリーはその視線を追おうとしたが、先に、自分の胸の中に起きた変化に気づいた。


 彼に触れたくてたまらない気持ちが、少しずつ引いてきた。先ほどまで頭を占領していた、大好きだ、離れたくないという思いが薄れていく。


 息が吸える。胸も、さっきほど苦しくない。


「よかった。私、もう」


 大丈夫です、と続けようとした瞬間、東屋のすぐ横が白く染まった。


 太い光が、傍に立つ木へ落ちる。


「まずい!」


 シノンの腕がナナリーを包んだ。彼の肩越しに幹が裂けるのが見え、耳を塞ぐ暇もなく、破裂するような音が全身へ響く。


 足元から突き上げられ、身体がベンチを離れた。何が起きたのか理解できないまま、シノンに抱えられた身体が床へ倒れ込む。肩に衝撃が走り、息が喉に詰まった。


 魔術薬を嗅いで、王子に告白して、キスをして、最後は雷に吹き飛ばされる。こんな夜会があるのなら、出席前に内容を説明しておいてほしかった。


 ナナリーはぼやこうとしたが、声が出なかった。代わりに、胸の辺りから光が浮かび上がる。


 丸く、淡く輝くものが、自分の身体をすり抜けるように外へ出ていた。


 何なのだろうと目で追うと、横に倒れたシノンの胸からも、同じような光が浮かび上がった。二つは空中で近づき、ほんの一瞬、触れ合うように揺れる。


 それから、自分から出た光が、シノンの胸へ吸い込まれていった。


 彼から飛び出た光は、こちらへ向かってくる。逃げようにも身体は動かず、温かいものが胸に触れたと思った時には、光はもう見えなくなっていた。


 ナナリーは瞬きをした。床も雨も、傍にいるシノンも、急に遠くなった気がする。肩に触れていた腕の重さまで分からなくなり、視界の輪郭がぼやけていった。


 草を踏みしめながら庭を走る足音が近づいてくる。誰かがナナリーとシノンを呼んでいた。助けが来たのだと思うと、張り詰めていた力がようやく抜ける。


 靴もドレスも、きっとひどいことになっている。今夜の料理は結局、何も食べていない。それなのにシノンとキスをした感触だけは、まだ唇に残っていた。


 明日の朝、ジェニーに何から説明すればいいのだろう。


 ナナリーはその順番を決められないまま、目を閉じた。誰かがすぐ傍で膝をつく音がして、名前を呼ぶ声がもう一度聞こえたが、返事をする前に意識が途切れた。

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