05 好きです、逃げてください
媚薬だ。
ようやくその名前を思い出した時には、ナナリーの胸は、シノンへの気持ちでいっぱいになっていた。
つい先ほどまでは、料理を口にせず帰るなどありえないと思っていたのに、今は目の前の王子から視線を外すことすら惜しい。金髪も青い瞳も、学院で何度も見たはずだ。白い礼服が似合うのだって、踊っている時に気づいていた。それがどうして突然、胸が苦しくなるほど素敵に見えるのか。
薬のせいだと分かっている。分かっているのに、理性と胸の内側が、全く別のことを言っていた。
「シ、シノン殿下。こっちに来ないでください。見ないで。でも好きです」
口まで胸の側についてしまった。
慌てて瓶をドレスのポケットへ押し込み、両手で口を塞いだ。なぜ今、最後の一言を付け足したのか。そこだけは省略しても十分に意味が通じたはずなのに。
「ナナリー、大丈夫? 頭でも打った? それとも悪いものを食べたの?」
ジェニーが眉を寄せ、顔を覗き込んでくる。
食い意地の張った人みたいに言わないでほしい。今日はまだ何も食べていない。残念ながら、その抗議をするために手を離すと、また余計な告白まで口から出ていきそうだった。
「君、顔が赤いね。気分が悪いの?」
シノンが一歩近づいた。その声があまりに優しくて、ナナリーは胸元を握りしめたくなった。できれば彼の礼服の胸元を握りしめたい、というところまで考えが進んでしまい、ますます焦る。
「悪いです。とても悪いです。ですから、大変申し訳ないのですけど、今すぐ私から逃げていただけると助かります。ああ、でも大好きです!」
「逃げた方がいいのか、傍にいた方がいいのか、どちらかな」
「逃げてください。傍にいてほしいので!」
シノンの笑顔が、初めて少し固まった。ナナリーとしても、意味が分からない返答をしている自覚はある。しかし現在、矛盾なく話すことには相当な努力が必要で、その努力はほぼ報われていなかった。
「殿下、少しお下がりください」
シノンの後ろにいたギュスターが、一歩前へ出た。黒髪の下で眉をきつく寄せ、不審者を警戒するような目がナナリーへ向く。
「近衛を呼んだ方がよろしいかと」
「待ってください、ギュスター様。確かにいつものナナリーとは違いますけど、私の親友です。大ごとになれば、普段からそれほど高くない評判がさらに傷つきかねませんわ」
ジェニーが慌てて庇ってくれた。大変ありがたいけれど、普段の評判については、今ここでわざわざ触れなくてもよかった気がする。
ナナリーはシノンを見つめながら、じりじりと後ろへ下がった。視界に彼がいる限り、好きだという気持ちは増えるばかりだ。いっそ背を向ければ、少しは落ち着くかもしれない。
「ごめんなさい。私、少し離れます。殿下、好きです。今のは忘れてください! でも大好きです!」
頼むことが多すぎる。自分でもそう思いながら、ナナリーは踵を返した。
ホールへ戻れば人がいる。こんな状態であそこを歩き、皆の前で愛の言葉を撒き散らすわけにはいかなかった。ナナリーは回廊から中庭へ飛び出し、庭園の奥へ向かって走った。
「ナナリー嬢!」
呼び止める声まで素敵だったが、今は聞いている場合ではない。わずかに頭に残る理性を頼りに、ナナリーはドレスの裾を持ち上げた。石の道が植え込みの間を曲がり、王城の明かりが葉の陰へ隠れていく。
その時、空が白く光った。続いて低い雷鳴が響き、肩に冷たいものが落ちてくる。顔を上げると、さっきまで月が見えていた空に、黒い雲が広がっていた。
媚薬だけでも手いっぱいなのに、天気まで悪くなるとは。女神様には、自分へ試練を与える時、もう少し日程を調整していただきたかった。
雨脚はあっという間に強まり、ナナリーが庭の端の東屋へ駆け込んだ時には、ドレスの裾がすっかり濡れていた。
「はあ、最悪。雨だし、苦しいし、シノン殿下は素敵だし」
最後だけは文句としておかしかったので、頭を振って追い払う。東屋の中へもう一歩進むと、足の裏に冷たい石の感触がした。
「あれ。靴がない」
いつの間にか、両足とも裸足になっていた。そういえば、途中から随分走りやすかった気がする。片方が脱げたので、もう片方も邪魔になって蹴り飛ばしたような、そんな記憶がぼんやりと戻ってきた。
母がドレスと揃いで作ってくれた靴だ。屋敷へ戻ってから何を言われるか考えると、媚薬とは別の理由で胸が苦しくなった。
ナナリーはベンチに腰を下ろし、濡れた裾を軽く絞った。水を含んだ布は重く、華やかなフリルも今は大して役に立たない。足を引き上げて両膝を抱え、ようやく雨を避けられる体勢になる。
伯爵令嬢としては、かなりお行儀が悪かった。それでも、靴も理性もどこかへ落としてきた身としては、体裁だけ守っている余裕はない。
「落ち着いて、思い出すのよ。媚薬の解除について、授業で何て言ってたっけ」
媚薬と呼ばれる魔術薬には、いくつもの種類がある。香水に混ぜ、相手に自分を好ましく感じさせる程度のものなら、魔術管理課が定めた濃度の範囲内で売られていたはずだ。
けれど、本人の意思に反して強い感情を起こすものは規制されている。今のナナリーに起きていることは、どう考えても、ちょっと好印象を持ったという程度ではなかった。
「こんなに苦しくなるほど好きにさせるなんて、絶対よくないわ。シノン殿下の瞳、近くで見るとすごく綺麗だったな……じゃなくて、解除。解除の方法よ」
気を抜くと、すぐに王子の顔が頭へ戻ってくる。試験中もこれくらいしつこく術式が浮かんでくれれば、母はあんなに急いでドレスを仕立てなかっただろう。
確か、時間が経てば効果は薄れる。それ以外にも、対象となった相手から魔力を受け取ることで、薬の作用を解く方法があったはずだ。
そこで思い出しかけた説明が、ナナリーの顔をさらに熱くした。
「対象者の魔力を口移しで受け取るって、それ、キスでは?」
シノンとキスをする。
自分で考えておいて、ナナリーは膝へ顔を伏せた。そんなことができるわけがない。そもそも、キスをしたいと思う気持ちまで薬に膨らまされている今、自分の考えをどこまで信用していいのかも分からなかった。
「ナナリー嬢。ようやく見つけた」
「ぎゃっ、シノン殿下! 好きです。違います、好きじゃないです。嘘です、好きです!」
もはや訂正するたびに状況が悪くなる。
ナナリーは慌てて顔を上げ、そのまま口を押さえた。東屋の入口にシノンが立っていた。金髪から水が滴り、白い礼服の肩も胸元も雨に濡れている。手には、見覚えのある黄色い靴が左右とも、きちんと揃えて握られていた。
「あ、私の靴。ありがとうございます。水も滴るいい男ですね。何で今それを言うの、私!」
「君は、いつもそうやって思ったことを全て口にするの?」
「普段は、もう少し選んでます」
「そう。それなら今の言葉は、できるだけ忘れることにするよ」
それはぜひお願いしたい。ナナリーは必死に頷いたが、濡れた髪の下から向けられる青い瞳に、また胸がいっぱいになる。雨の中、靴を拾って追いかけてくれたことまで嬉しくて、薬がなくても少しは感動していただろうと思った。
「近衛も来る。ジェニー嬢たちには、君の兄上を呼んでもらっているから」
「兄は駄目です」
「どうして?」
「この状態を見られたら、一生言われます」
シノンが少し困った顔をした。助けを呼んでくれた相手に言うことではなかった。けれど、ナナリーの失敗に関して、兄の記憶力は大変よい。
「今はそれより、君の具合をどうにかしないと。傍に寄ってもいい?」
「駄目です。近くで見たら、もっと好きになります」
シノンは足を止め、ベンチから少し離れた場所に靴を置いた。それからナナリーの顔を見て、口調を真面目なものへ変える。
「君、媚薬を嗅いだんじゃない?」




