04 壁の花には、ローストビーフを
親友のジェニーが、会場中の視線を浴びながらホールの中央でシノン殿下と優雅にダンスを披露している。その姿を、友人のルルーナと共に壁の花となって眺めていたナナリーは決心した。
「もしロザリー様がジェニーに手を出したら、私は社交界を追い出される覚悟で倍返しするわ」
口元に扇子をあてて、ルルーナに意気込みを伝える。
「やだ、血が流れそう」
「そうね。その時は回復魔法をお願い」
「了解」
ルルーナがくすくす笑う。
「でも、ジェニーは大丈夫そうよ」
「どうして?」
「ギュスター様が、別の令嬢と踊りながらジェニーを見てるもの。あれは愛ね」
「何で愛なの?」
気軽に尋ねたら、ルルーナがため息混じりに告げた。
「ナナリー。あなた、本当に周りが見えてないのね」
その言い方に、少しむっとした。シャンデリアの魔石灯は、全て数えた。それくらい周囲は見ているつもりだったからだ。
「アングール侯爵家のギュスター様は、初等科の頃からジェニーが好きなの。有名な話でしょう?」
「ああ、そうだ。そうだった!」
ナナリーは扇子を閉じ、ぽんと手のひらへ打ちつけた。黒髪で目つきの鋭いギュスターは、確かに昔からいちいちジェニーに絡んでいた。
「最初に受けた防御魔術の授業でジェニーに負けて、それから付きまとい始めたのよね? でもジェニーのこと、『気が強い女』とか言って泣かせてなかったっけ?」
「その頃は、好きな子への接し方も分からなかったんでしょう」
「ジェニーの失敗を探して、見つけたらわざわざ教えに来てたけど」
「それも昔の話。今はちゃんと成長してるじゃない」
指摘されてギュスターをしっかり見てみると、すっかり礼服の似合う少年になっていた。
初等科の男子なんて、猿の集団みたいなものだと思っていたが、あんなふうに堂々とみんなの前でダンスを披露できるようになっているのだから、年月とは侮れない。
曲が終わると、シノンとジェニー、ギュスターとその相手の四人はホールの端へ寄り、給仕から飲み物を受け取った。
ギュスターと踊っていた少女がこちらを向き、ナナリーにもようやく顔が見える。
シノンとよく似た金髪と青い瞳を持つ、ヘンリエッタ王女だった。淡いピンクのドレスを着て、シノンの隣で楽しそうに笑っている。
「なるほど。ギュスター様のお相手は、ヘンリエッタ殿下だったのね」
ルルーナが納得したように大きくうなずいた。その隣でナナリーは状況を自分なりに把握する。
「つまり、ヘンリエッタ殿下はギュスター様がお好きで、ギュスター様はジェニーが好き……えっ、まさかの三角関係ってこと?」
「全然違うわよ」
ルルーナがふぅと息を吐いて続けた。
「王女殿下がお相手を選ぶ時には、身元が確かかどうかも大事だわ。その点、ギュスター様は殿下のご学友で、しかもジェニーを一途に思ってる。つまり、余計な期待をなさらない男子だから、王女殿下も安心してお相手をお願いできるんだと思うわ」
「へー」
「もしかしたらシノン殿下は、ロザリー様の噂をご存じなのかも。だからジェニーをお相手に選んだのね」
一人納得するルルーナの横で、首を傾げる。
「全然わからないんだけど。どういうこと?」
「ギュスター様の監視下にあるジェニーには、さすがのロザリー様も後で文句を言いに行けないでしょう? ギュスター様が愛の力でジェニーを全力で守るから」
「愛の力……」
あまりに乙女チックな表現に、ナナリーは思わず微妙な顔になる。だが、遠目に見えるギュスターの姿を観察してみれば、確かに彼はヘンリエッタと談笑しつつも、その鋭い眼光で、ジェニーに近づこうとする他の令息たちを牽制していた。
「殿下はヘンリエッタ殿下と二回、ロザリー様と二回、ジェニーと一回踊ったから、しばらく休憩なさるはずよ。移動するなら今がチャンスかも」
「ほほう」
ナナリーが天井のシャンデリアについた魔石灯を数えている間に、ルルーナは王子が誰と何回踊ったかを数えていたらしい。同じ数を数えるという行為でも、将来への役立ち方には大きな差がありそうだった。
「じゃあ、私はこれで。シノン殿下に見つかって誘われないようにね。ロザリー様にも気をつけて。それと、一番大事なこと。ジョルジュ様によろしくお伝えしておいて!」
ルルーナは早口で言い置くと、人混みの中へすばやく消えていった。ナナリーの身の安全よりも兄への伝言が大事らしいことに少々引っかかったが、ひとまず扇子を広げて息をつく。
喋ったせいか、喉が渇いていた。考えてみれば、今日はまだ飲み物すら口にしていない。
今日のエスコート役は長兄のヴィクトールだったが、シーズンに合わせて領地から出できたばかりの兄は、久しぶりに顔を合わせた知人たちと話に花を咲かせていた。
ナナリーは兄のいる位置を確かめてから、そろそろ料理を取りに行こうと決めた。
嫌々出席する夜会にも、楽しみはある。趣向を凝らした軽食と、香りのよい果実水だ。
特に今日参加している王族主催の舞踏会には、半年先まで予約が埋まっている料理人が腕を振るう料理が並んでいるという噂だった。そのような機会を与えられながら、何も摂取せずに帰るわけにはいかない。
壁から一歩離れると、背の低いナナリーはすぐに人々の間へ埋もれてしまう。
「身を削ってヒールを履いているのに、なんでまだ背伸びをしなくちゃならないのよ」
足を犠牲にしているぶんくらい、見晴らしをよくしていただきたいものだ。
飲み物を持った給仕を探していると、先ほどシノンたちがいた辺りへ、新しいグラスを載せたトレイが運ばれていくのが見えた。
王子の周囲には、いつの間にか令息たちが輪を作り、その隣ではヘンリエッタが令嬢たちに囲まれている。
王族というのも大変だなと、ナナリーは他人事として眺めた。
殿下に見つかるなという、ルルーナの忠告を思い出すが、飲み物まで王族の方へ吸い寄せられていくとなると話は別だ。
ナナリーは給仕へ狙いを定め、淑女らしく、走らない程度の早足で進んだ。果実水を手に入れたら、次は料理である。今日は笑顔の仮面を貼り付けた悪魔みたいなジョルジュの隣でお行儀を気にし続ける必要もないし、ルルーナと久しぶりにゆっくり話せた。
あとはローストビーフとか、ローストビーフとか、ローストビーフとか。
「きゃっ」
頭の中を薄切りの肉で埋め尽くしていたせいか、前方から急に向きを変えた人と肩がぶつかった。
ふわりと甘い香りが鼻をかすめる。顔を上げたナナリーは、目の前に艶やかなピンクゴールドの髪を見つけて固まった。
ルルーナに気をつけろと注意されたばかりの少女、ロザリーだった。
「も、申し訳ございません」
慌てて謝ったが、ロザリーは一瞬こちらを振り返っただけだった。その顔に何か焦ったような表情が見えた気がしたものの、確かめる間もなく、薔薇色のドレスは人混みの向こうへ消えてしまう。
返事くらいしてくれてもいいのにと思ったが、呼び止められて身分をわきまえろと言われるよりは、通り過ぎてもらった方がずっといい。
ナナリーは止めていた息を吐き、再び給仕の方へ向かおうとした。すると、靴の先に何か硬いものがこつんと当たる。
「ん? 香水瓶?」
足元に、小さなガラス瓶が転がっていた。透明な蓋のついた、携帯用のものらしい。
このままでは誰かが踏んでしまう。ナナリーは身をかがめて拾い、ロザリーが消えた方を見た。もう姿は見えない。今ぶつかった時に落としたのだろうか。
持ち主を追いかけて確認するのが親切なのかもしれないが、先ほど聞いた噂を思い出すと、できれば直接関わりたくなかった。
「クロークに預けておけばいっか」
ナナリーはそう決め、まずは給仕からりんごの果実水を受け取った。渇いた喉を放置して落とし物を届けに行くほど、自分を後回しにはできない。
近くの壁際へ戻り、グラスに口をつける。りんごの爽やかな香りが広がり、冷たい液体が喉を滑っていった。気づけば、ほとんど一息で飲み干していた。
腰に手を当てなかっただけでも、淑女としては頑張った方だと思う。
空のグラスを給仕に渡し、ナナリーは拾った瓶を改めて眺めた。
侯爵令嬢の持ち物にしては、随分と簡素な作りだった。ナナリーが母から譲られた香水瓶でさえ、貝殻をかたどった凝った品なのに、この瓶には飾りらしい飾りがない。
中の液体の色も、ホールの明かりではよく分からなかった。傾けると、何かが小さくきらめいた気がする。
そういえば、ぶつかった時のロザリーは、とてもいい匂いがした。
花のようで、熟した果実のようでもある。ナナリーがいつも使っている石鹸や香油とは、全く違う甘い香りだった。
「一体、何を調合しているのかしら」
クロークへ向かうため、中庭に面した回廊へ足を進める。ホールの賑わいが少し遠くなり、開いた窓から涼しい夜風が入ってきた。その風に混じる庭の花の香りが、余計に瓶の中身への興味を誘う。
もちろん、他人の持ち物を勝手に使うつもりはない。ただ、どんな香りなのか知りたいだけだ。肌につけるわけでも、減らすわけでもないのだから、ほんの少し蓋を開けるくらいなら。
優秀な魔術師の条件は、好奇心が旺盛であること。気になるものを調べ抜く姿勢が、洗練された魔術を生み出す。
何かの本にそう書いてあった。どの本の何ページかまでは思い出せなかったが、今のナナリーには大変都合のよい教えだった。
「少しだけ、嗅がせていただきます」
近くにいない持ち主に断り、ガラスの蓋を引き上げた。キュポン、と小気味よい音がして、途端に濃い甘さが鼻先へまとわりつく。
やはり、先ほどロザリーから漂っていた香りだ。けれど直接嗅ぐと、ずっと強い。甘いはずなのに、胸の奥へ細い針を差し込まれたような不思議な刺激があった。
ナナリーは瓶を顔から離した。何となく、この匂いを知っている気がする。香水店だったか、学院の授業だったか。思い出そうとしたが、肝心の記憶はなかなか出てこない。
その代わり、胸が妙にどきどきし始めた。走ったわけでもないのに脈が速くなり、頬にじわじわと熱が集まってくる。
コルセットを締めすぎたのだろうか。いいや、それならもっと早く苦しくなっていそうだ。ナナリーは片手で胸元を押さえ、もう一方の手で瓶の蓋を持ち直す。
「ナナリー?」
背後から、ジェニーの声がした。
ようやく親友が来たことにほっとして振り返ったナナリーの視界へ、真っ白な礼服が飛び込んできた。ジェニーの隣に立つ、シノンの服だ。その後ろには、ギュスターの姿もあった。
「こんばんは、ナナリー嬢」
声をかけてきたのは、シノンだった。
透き通る青い瞳がこちらを向き、柔らかな笑みが浮かぶ。その顔を見た途端、ナナリーの胸の中で、さっきまでとは比べものにならない勢いで鼓動が跳ねた。
手の中の瓶と、王子の顔を交互に見て、ナナリーはようやく思い出す。
甘い香りについて説明した授業があった。確か、人の感情に作用する魔術薬の話だったはずだ。
ナナリーは慌てて瓶の蓋を閉じた。しかし、目の前のシノンからは、どうしても目を離せない。先ほどまで頭の中を埋めていたはずのローストビーフのことまで、すっかり消えていた。




