03 壁の花にも、持ち場があります
「中央の一番大きなシャンデリアが三十八個。右の二つがそれぞれ二十四個。左も同じで、奥の小さいのが十二個ずつ」
ナナリーはドレスと揃いの扇子で口元を隠し、天井から視線を下ろした。ついに、このホールにある全てのシャンデリアの魔石灯を数え終えてしまった。
だから何だと言われればそれまでだ。しかし今のナナリーにとっては深刻な問題だった。
暇つぶしが一つ、完全に失われたからだ。
王城の大広間には、色とりどりのドレスと華やかな礼服をまとった人々が集まっていた。楽団の奏でる軽快な曲に合わせ、中央では男女が息の合ったステップを踏んでいる。魔石灯の柔らかな明かりが宝石や髪飾りに反射する様子は、壁際から眺める分には大変美しい。自分もその中へ入るべきだと思わなければ、いつまでも見ていられそうだった。
試験結果を前に家出を決意してから、しばらく経つ。学院の玄関ホールで転んだナナリーは、その日のうちに無事、屋敷へ回収された。そして父には「約束は約束だよ」と言われ、母には「黄色のドレスが、とても似合うと思うの」と有無を言わさぬ笑顔を向けられた。
誰も家出の話を真剣に取り合ってくれなかったのは、家出をする前に自分から膝を冷やしてほしいと頼んだせいかもしれない。
学院の休みに合わせたように始まった社交シーズンも、ようやく半分ほどが過ぎた。ナナリーは毎回、母が奮発して仕立ててくれたドレスを着て、会場の壁を守る任務に励んでいる。誰にも任命されていないが、今のところ一度も持ち場を離れて踊りに行ってない。
「ナナリー様、ごきげんよう。ところで、今日はジョルジュ様はいらっしゃらないの?」
隣のやたら大きな花瓶に活けられた黄色い花と、今日のイエローゴールドのドレスの色がよく似ているため、ナナリーは花に同化できているつもりだった。けれど、魔術学院の同級生であるルルーナには、あっさり見つかってしまった。
もっとも、彼女が探していたのはナナリーではなく、いつもナナリーの隣にいるはずの兄だったようだ。
「ごきげんよう、ルルーナ様。ジョルジュは今日、魔術師団のお仕事なんだって。多分、このお城のどこかで警備をしていると思う」
「まあ、残念」
ルルーナは心底がっかりしたといった様子で肩を落とした。
「魔術師団は忙しいみたいだから」
そう取り繕いつつ、ナナリーはこれまでの道中、馬車の中で繰り返された、兄の恨み節を思い出していた。
今季、ナナリーを夜会へ連れていく役目は、八割方、次兄のジョルジュが引き受けていた。引き受けたというより押しつけられたと言う方が、本人の態度には合っている。
「お前が勉強の手を抜くから、僕まで巻き込まれたんだぞ。ほんと、ありえない」
会場へ向かう馬車の中では、毎回そんな愚痴を聞かされていた。ナナリーにとっても不本意な出席なのに、兄の分まで責任を取らされている気がして、どうにも納得がいかない。
しかも母は、ジョルジュにも逃げ道を与えていなかった。
「目的はナナリーが家格の釣り合うご令息の目に留まることよ。でもジョルジュ、あなたも目に留まった素敵なお嬢さんがいたら教えてね」
一度の夜会で、娘と息子の両方を何とかしようとしている。さすが、堅実を家風とするドラクロワ伯爵家の夫人である。支払った衣装代は、できるだけ有効に使うつもりらしい。
「僕はまだ、自分の身を立てるだけで精一杯なんだ。結婚なんて考えられない。ああ、面倒くさい。何でお前、勉強しなかったんだよ」
兄の愚痴は、いつも最後にはナナリーへ戻ってくる。ナナリーが勉強していれば、自分の結婚の話まで防げたと考えているようだが、それについてはぜひ母と直接話し合っていただきたい。
ところが、不機嫌丸出しの兄は馬車の扉が開いた途端、全く別の人間になるのだから恐ろしい。
「ナナリー、足元に気をつけて。ドレスの裾を踏まないように僕の手を取りなさい」
ついさっきまで窓の外を見ながら不貞腐れていた人が、優しく微笑んで妹へ手を差し伸べる。会場に入れば、ナナリーと同じ黄金色の瞳を柔らかく細め、集まってくる令嬢たちにも、とろけるような笑みを惜しみなく振りまいた。
「妹がいつも世話になっているね。何か迷惑をかけていないといいのだけれど」
その合間に「ナナリー、大丈夫かい?」「疲れたら言うんだよ」と、わざわざ腰をかがめて顔を覗き込んでくる。見目麗しく、面倒見もよい、理想のお兄様の完成だった。
最初にそれを見た時、ナナリーは真剣に両親へ相談するべきか悩んだ。馬車を降りた瞬間に性格が変わる病気があるのなら、早めに診てもらった方がいい。
だが、言おうかどうか悩んでいるうちに慣れた。今ではもう、兄があの笑みを浮かべている時は、それなりに慎ましく振る舞うべきなのだと学んでいる。
なぜなら、兄の茶番に協力した日は、帰りの馬車の中での説教が、少しだけ減ることを知ったからだ。
遠い目をしていたナナリーの意識は、ドレスの裾をいじりながらため息をつくルルーナの声で、一気に煌びやかな大広間へと引き戻された。
「私も、そろそろ現実的なお相手を探さなきゃ。ジョルジュ様は素敵だけれど、狙っている子が多いし。ナナリーのお友達だからお話ししてくださるけど、私なんかじゃ無理よね」
「無理とか、そういうことはないと思う。でも兄は、見てる分には癒やされるかもしれないけど、本気になるのはやめておいた方がいいよ。タチが悪いもの」
「やだ、それ以上知りたくない。イメージは大事だもの。目の保養もそうだけど、ジョルジュ様は全てが尊いお方でいてくれないと」
ルルーナは両耳を塞ぐ真似をした。せっかく近親者が有益な情報を提供しているのに、受け取りを拒否するとは。
「尊いって大袈裟すぎる。兄も朝は寝癖がついてるし、機嫌が悪いと――」
「ナナリー、ネタバレはやめて。そうだ、もうジェニーから聞いた?」
力ずくで話題を変えられた。兄の寝癖より気になる話があるらしく、ルルーナはナナリーの隣へ身を寄せ、扇子を口元に近づける。
「前回の夜会で、ロザリー様がシノン殿下と踊った子を後で呼び出して、身分をわきまえろって叱ったらしいわ」
「え、そうなの?」
ナナリーがホールの中央へ目を向けると、ちょうどシャンデリアの下で、シノンとロザリーが踊っていた。
王家特有の鮮やかな金髪と、ロザリーの艶やかなピンクゴールドの髪が、魔石灯の光を反射して眩しいほどに煌めいている。二人が旋回するたび、ふんわりと舞うロザリーのドレスの裾はまるで花びらのように見えた。遠目から見てもため息が出るほど息の合った、完璧な二人の世界を作り出している。
バディスト侯爵家の令嬢であるロザリーは、王立女学院に通っている。貴族の淑女を養成する学校なので、魔術学院のナナリーとは普段、何の接点もない。
ただ、社交に慣れた同級生たちの話では、シノンの婚約者候補ナンバーワンらしい。本人も「私の他に殿下に釣り合う令嬢がいまして?」と公言しているらしく、その自信は、ナナリーが少し分けてもらいたいくらいだった。
もっとも、分けてもらいに近づく勇気はない。何しろ「ロザリー様とドレスの色が被ったら死を覚悟しろ」とまで囁かれているのだ。
幸い、今日のロザリーのドレスは深い薔薇色だった。ナナリーは自分の黄色いスカートを見下ろし、母の選択に初めて心から感謝した。
「私たち魔術学院の子って、女学院の子に比べると地味でしょう。でも、殿下にとってはご学友だから、声をかけやすいんだと思うの」
「私はシノン殿下とお話ししたことなんて、ほとんどないけど。あ、でも初等科で席が前後になった時に、プリントを回したことはあるわ」
「プリント?」
「『どうぞ』『ありがとう』って」
「それ、会話に入る?」
「立派な会話よ。ちゃんと『ありがとう』って、お返事もいただいたもの」
魔術学院には七歳から通う初等科がある。その頃はまだ成績順にクラスが分かれておらず、ナナリーもシノンと同じ教室で学んでいた。
同じ先生の話を聞き、同じ教科書を開き、同じ時間だけ机に向かっていたはずなのに、今では成績表の上と下にきっぱり分かれている。
その結果、シノンとナナリーは、同じ空間にいることすら稀な、完全に住む世界の違う存在同士になっていた。
「まあ、いいわ。とにかく殿下は、知らない女学院の子より、私たちには声をかけやすいってこと。だから気をつけないと……あ、ジェニーが捕まった!」
ルルーナの声で顔を上げると、曲が変わっていた。先ほどよりゆったりした旋律の中、シノンがジェニーの手を取り、ホールの中央へ導いている。
「ジェニーったら、どうしてあんな所を歩いてたのかしら。ホールの中央付近なんて、一番のデンジャラスゾーンなのに」
まるで自分のことのように青ざめるルルーナは、さらにナナリーに身を寄せた。
「ナナリー、見て。ロザリー様がジェニーを睨んでる」
ルルーナの視線を追うと、ロザリーの姿が見えた。周囲と優雅に談笑しながら、扇子の影から冷ややかな視線をジェニーへと注いでいる。
「うわぁ、視線だけで人を仕留められそう」
遠くにいるのに、ナナリーまで背筋が伸びる。
魔術学院の試験には視線で人を威圧する科目はない。だが、社交のプロフェッショナルを目指す女学院には存在するのかもしれない。もしそんな科目があるのだとしたら、ロザリーは間違いなく首席を取れそうだった。




