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02 勉強が嫌いです

 学業優先を打ち出していた父が、娘の結婚相手選びに乗り気な母側に寝返った。


 きっかけは、シノンの母であるソフィア王妃が、息子の婚約者選びに本腰を入れたという噂だった。


「今シーズンは、王妃殿下のお茶会に特別予算がついたらしいよ。警備の仕事も増えて、僕まで駆り出されそうだ」


 魔術師団に勤める次兄のジョルジュが、夕食の席でそう漏らしたのを覚えている。その時はナナリーも、兄は大変だなと思いながら、皿の上の肉を切っていた。まさか、その特別予算が自分の平穏まで削りに来るとは思わなかったからだ。


 国王夫妻は恋愛結婚をしており、息子の意思も尊重すると公言していた。そのため、年頃の娘を持つ貴族たちは「我が子にもチャンスがあるのでは」と、娘の婚約を決めず、虎視眈々とその機会を狙っていたらしい。


 しかし、王妃が本気で動くとなれば、王子の相手が決まるのも時間の問題だ。選ばれなかった令嬢たちは、その後で一斉に別の相手を探し始めることになる。


 そうなる前に動くのが賢いのだと、母は夕食の席で力説した。


「トカーナ様は、殿下に選ばれなかった場合、エドモントン様と婚約するお話が内々に進んでいるそうよ。我が家も、そろそろナナリーのために本腰を入れた方がいいと思うの」


 結婚というものは、もう少し夢のある話だと思っていた。誰かと目が合い、頬を染め、花を贈られて始まり、お互いの距離をミリ単位で近づけた先にあるもの――なんて悠長な話は恋愛小説の中だけのようだ。


 実際は、王子が駄目なら次はこちらと、あらかじめ順番を決めておくものらしい。


 なかなか切れない肉にナイフを押し当てながら、ナナリーは内心で小さく溜め息をついた。


 ナナリーの実家、ドラクロワ伯爵家は、建国の頃から名を連ねる古い家だ。先祖代々、王から預かった領地と民を大切に守り、堅実に暮らしてきた。食べるものに困るほど貧しくはないが、贅沢三昧ができるほど裕福でもない。


 ナナリーがついうっかり「うちって地味よね」と漏らした時、父は否定せず「堅実と言いなさい」と訂正した。そのあたりからも、ドロクロワ家の方針が滲み出ている。


 長兄のヴィクトールはすでに結婚し、昨年、男の子が生まれた。次兄のジョルジュは一昨年学院を卒業し、魔術師団に入った。跡取りも、その次の跡取りも、次男の就職先も決まっている。


「私たちも、そろそろ領地でのんびりしたいわよね」


「ああ、そうだな」


 母が切実な願いを口にし、父が頷いた後、二人の視線は揃ってナナリーに向いた。


 ナナリーは口に運ぼうとしていた肉を、ゆっくり皿へ戻した。どうも自分が、両親の引退を妨げる最後の案件になっている気がしたからだ。


「ナナリーはお裁縫もダンスも、飛び抜けて得意というわけではないでしょう。それに男性の馬に相乗りするより、自分で手綱を握りたがるところもあるわ」


「自分で乗った方が楽しいもの」


「そこなのよ、お母様が心配しているのは。でも、黙っていれば可愛いし、夜会に出ればどなたかとの出会いもあると思うの」


「お母様、それ、私を褒めています?」


「もちろんよ。だからピカピカで初々しいうちに、どなたかを騙し……こほん。どなたか素敵な方と恋仲になれたらいいと思うの」


「騙すって、いまお母様、騙すって言いましたよね?」


 母は咳払いの後、何事もなかったようにワインを飲んだ。父もそこは聞かなかったことにしたらしく、実に真面目な顔で頷く。


「殿下の婚約者が決まれば、格上の令嬢たちも相手探しを始めるだろう。となると、今が好機なのは間違いないな」


「そうですわ。結婚市場は条件のよいお相手から決まっていくのですもの。上位貴族のご令嬢が殿下に狙いを定めている状態の今こそ、ナナリーにも好機があるのよ」


 母は息子の婚約者選びをしている王妃の話題から、娘の婚約者選びをしている自分へ、実に滑らかに話をつなげた。


 その手腕はお見事だが、感心している場合ではなかった。このままでは、コルセットを締められ、慣れない靴を履かされ、知りもしない男性の前で笑顔を浮かべる日々がやってくる。


 せめて将来について、自分でも考える時間が欲しかった。


 藁にも縋る思いで、ナナリーは咄嗟にひらめいた言葉を口にした。


「そういえば、ついうっかり忘れていましたけど、私は勉強が好きです」


 父の手が止まった。母もカップを置いた。黙々と肉にナイフを入れていた次兄ジョルジュのこめかみに青筋が立った。


 食卓が静かになったので、ナナリーはここぞとばかり、主張を補強する。


「魔術って奥が深いし、勉強しがいがあるし、いずれはジョルジュお兄様みたいに魔術師団へ就職するのが私の夢なんです」


「ほほう。お前がそんなに勉強好きだとは、お父様は知らなかったな」


 その時点で、嫌な予感がした。普段はおっとりした父が、珍しく身を乗り出していたからだ。


「では、次の試験で二十位以内に入れたら、嫁ぎ先のことで無理強いはしないと約束しよう。その代わり、入れなかったら今シーズンの社交には全て参加すること。いいね?」


「二十位!? 全ての社交!?」


「お父様は随分譲歩なさった方よ。ジョルジュはいつも五位以内だったのだから」


「そ、それは知っていますけど、私には私の成長の速度が」


「来年には卒業でしょう?」


 母の言葉は正しかった。ゆっくり成長していたら、学院の方が先にナナリーを送り出してしまう。


「あなた、念のためナナリーのドレスを何着か仕立てておいてもよろしいかしら。もちろん二十位以内に入ることを期待していますけど、万が一ということもありますもの」


「そうだな。もちろん二十位以内に入ることを信じているが、娘の幸せへの投資でもある。似合うものを見繕ってあげなさい」


「でしたら、明日にでも仕立屋を呼びますわ」


 万が一への備えが、恐ろしく迅速だった。二十位以内に入ることを期待していると言いながら、父は財布の紐をスルリと緩め、母はもう布の色を考え始めている。


 その夜、ナナリーは真剣に机へ向かった。教科書を開き、試験範囲を確認し、あまりの広さに一度閉じた。それからもう一度開き、今度は鍵のつく引き出しに入れてあった古い召喚の本が気になった。


 勉強前に少しだけ読むつもりだったのに、気づけば床に魔術陣を描いていた。使い魔を使役できたら、魔術の勉強を効率よく教えてもらえそうだし、一流の雰囲気も出る。一流の雰囲気が出れば、勉強も捗るはずだ。


 そう考えたのだが、何も現れなかった。むしろ証拠隠滅を図ろうとモップで床に描いた魔術陣を拭く手間のせいで、翌朝は寝不足だけが残った。


 そして今、最悪の試験結果を残してしまったというわけだ。


「女神様。どうか私の順位を上げてください」


 掲示板に向かって両手を合わせると、ジェニーが横からすかさず指摘した。


「そんなお願い、さすがの女神様も突き返すわよ」


「いいえ、信じる者は救われるって言うじゃない」


 ナナリーは目を擦り、もう一度自分の名前を見る。位置は変わっていない。試しに頬をつねると、痛かった。


「夢じゃないわ」


「そろそろ認めなさい。自分の不甲斐なさを」


「認めたら、夜会に出なきゃいけなくなるじゃない」


「認めなくても出ることになると思うけど」


 確かに、その通りだった。いまさら目を擦っても頬をつねっても、解答用紙の空欄が埋まるわけではない。母はすでに仕立屋へ注文を出しているし、父は約束を違えることに厳しい。あの二人の前で順位の解釈を巡って議論しても、勝てる気はしなかった。


 となれば、今からできることは限られている。ナナリーは顔を上げ、親友の両手をしっかり握った。


「ジェニー。長い間、お友達でいてくれてありがとう」


「何、その急なお別れ」


「私、家出するわ」


「どうしてそうなるの」


「お兄様の監視付きで、コルセットに壁の花の刑を受けるなんて無理だからよ。しかも見目麗しいジョルジュお兄様の隣に並ぶのよ? 皆様がお兄様にうっとりする中で、私だけがお腹を空かせて壁際に立っている未来なんて地獄でしかないわ」


「料理は出るじゃない。しかも食べ放題だし」


「そこは魅力的だけど、料理だけで乗り切れる回数にも限度があるの。それに万が一、何かの間違いで私がシノン殿下のお相手に選ばれたら、この国は大変なことになるわ」


「どうして?」


「王子妃のお勉強なんて絶対無理だからよ。だって私は勉強が嫌いだもの!」


「お父様にも、最初からそう言えばよかったのに」


「ええ、そうね。でもいまさら悔やんでも仕方がないこともある」


 ナナリーは掴んだジェニーの手を握りしめる。


「だから私は、この国の未来を思って旅に出る。落ち着いたら魔術レターを送るから。宛先はしばらく未定だけど、どうか元気で! 大好きよ、ジェニー」


 返事を待たずにジェニーの手を離し、ナナリーは玄関へ向かった。貴族令嬢としての慎みはひとまず置いていく。慎んでいたら、迎えの馬車に乗せられ、そのまま仕立てたドレスの待つ屋敷へ運ばれてしまう。


 しかし、決意を固めて走り出した三歩目で、靴の先が床を擦った。立て直そうとした四歩目は間に合わず、ナナリーは両手と膝をついて、学院の磨き上げられた床に這いつくばる羽目になった。


「ナナリー! 大丈夫?」


 駆け寄ってきたジェニーが、かがんで顔を覗き込む。ナナリーはひりひりする手のひらを見て、それから遠い玄関の扉を見た。


 国の未来のための旅は、玄関ホールからも出ていなかった。


 親友の手を借りて立ち上がると、制服の膝に白く埃がついていた。


「怪我はない?」


「うん、ありがとう」


 ナナリーは制服についた埃を払っているうちに、家出の準備より先に、屋敷へ帰って膝を冷やしてもらいたくなってしまった。


「膝も、心も痛いわ」


「ええ。今日のところは家に帰ってお医者様に診てもらった方がいいわ」


「そうね。家出は保留にするわ」


 ナナリーは痛む膝を庇いながら、ジェニーの腕につかまる。


 母が選んでいた黄色い布を思い出し、どうせ仕立てるならドレスの裾は今のうちに少し短くしてもらった方がいいと思った。

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