83 使い魔はいりません、恋人がいます
シャンデリアの腕は、二十四本だった。
何度数えても変わらない。魔石灯はすべて同じ白金色に輝き、磨き上げられた床へ、無数の小さな光を落としている。ナナリーは広間の中央から、それを見上げていた。
以前の持ち場は、いつも柱と窓のあいだだった。
二十位以内に入れず、渋々夜会へ連れてこられていた頃は、誰の邪魔にもならない一角で、魔石灯や料理の皿を数えていた。友人と話し、終わりの時間を待ちながら見上げたシャンデリアは、ずいぶん遠く感じられたものだ。
今夜は、同じ灯りが、すぐ真上で輝いていた。
「また数えているな」
低い声に振り向くと、シノンがこちらを見下ろしていた。少し呆れたようで、それでも口元は緩んでいる。
「二十四本です。今夜も、全部そろっていました」
「知っている。前に、君から三回聞いたから」
「四回目です」
胸を張って答えると、彼が吹き出した。近くの貴婦人たちが振り返り、扇子の陰で顔を見合わせる。
「ご覧になって。殿下が、また笑っていらっしゃるわ」
「今夜は、もう何度目かしら。あんなに楽しそうなお顔、初めて拝見したわ」
「すっかり夢中でいらっしゃるのね、ドラクロワ嬢に」
扇子は口元を隠しても、声までは隠してくれなかった。ナナリーは頬を熱くして、シノンを見上げた。彼は聞こえなかったような顔をしているが、耳がうっすらと赤い。王子の微笑みも、そこまでは取り繕えないらしかった。
建国祭から、ふた月が過ぎていた。
二人の婚約は先週、王家から正式に公示された。王城の掲示板の前には、三日間、人だかりが絶えなかったという。ルルーナは学院の誰よりも早く告示を確かめ、自分は最初から分かっていたと語って回っていた。
同じことを主張する人を、ナナリーはもう一人知っている。
その人は今夜も玉座に腰を下ろし、上機嫌で杯を傾けていた。
「最初から、私には分かっておったのだ。あの二人は、グリンピースで結ばれる運命だとな」
集まった貴族たちに、国王が例の話を聞かせている。隣の王妃は扇子で口元を隠し、肩を小さく震わせていた。グリンピースが恋の証拠として王国の歴史に残るのを、もう誰にも止められそうにない。
楽団が、新しい曲を奏で始めた。
「踊ろうか」
シノンが、手を差し出した。
ナナリーは、白い手袋に包まれた大きな手に、そっと自分の手を重ねた。もう念話に頼る必要はない。伝えたいことがあれば、こうして顔を見て話せるし、彼の表情から気持ちを確かめることもできる。差し出された手を握り返すと、シノンが嬉しそうに微笑んだ。
今夜は、シノンがリードする。
右足から下がるのは、ナナリーのほうだ。考えるより先に、身体が覚えた動きが出た。彼が進めば下がり、導かれれば回る。王子の身体では何度も迷った拍子が、自分の身体では素直につながっていった。
一、二、三。数えなくても足は動く。それでも、心の中で数えた。数えるのが好きだったし、拍子を追っていると、この一曲を余さず味わえる気がした。
「上手いな」
「当然です。小さい頃から、女性側を習ってきましたから」
「一か月、男性側も踊ったしな」
「十二回、殿下の足を踏みながらですけど」
答えた拍子に、つま先が彼の靴をかすめた。
二人で、足元を見る。
「十三回目だな」
「今のは、かすっただけです!」
「数えるのは、君の癖が移ったからだと言っただろう」
シノンが笑い、ナナリーもこらえきれずに笑った。広間の中央でこんなふうに声を漏らす日が来るとは、以前なら思いもしなかった。近くで踊る人たちが振り向いたが、その顔も、柔らかくほころんでいた。
周りには、次々と踊りの輪が広がっていた。
ジェニーが、ギュスターと回っている。彼の目つきは相変わらず鋭いが、ジェニーと目が合うたびに緩み、耳たぶは赤い。彼女のほうは隠そうともせず、嬉しそうに笑っていた。どちらから誘ったのかは、あとで聞かなければならない。
少し離れたところでは、エミールが婚約者と踊っていた。幼い頃から想っていたという、男爵家の令嬢だろう。ナナリーとの縁談の席では困り顔だった彼も、今はぎこちない足運びを気にしながら、相手へ晴れやかな笑顔を向けている。
ルルーナも、学院の卒業生に誘われて踊っていた。相手の肩越しに周りを見ているあたり、踊りながらも、明日の噂の材料を集めていそうだ。
王女ヘンリエッタは、こちらを見て嬉しそうに笑っている。
王子の婚約が決まるまで進まなかった縁談が、いくつも動き出したと聞いている。シルヴァンのもとへ届いていた苦情の手紙も、少しは減っただろうか。今夜の明るい顔ぶれを見ていると、その期待を持ってもよさそうだった。
以前は、もっと誰もが、王子の動きを気にしていた気がする。誰と話し、誰を誘うのか。目で追う人々に気づくたび、ナナリーも、彼のいる方角を避けていた。
今は、その隣にいて、手を取っている。周りから聞こえる笑い声も、楽団の音も、以前よりずっと軽やかに感じられた。
曲が終わり、あちこちで拍手が起きた。ナナリーは息を整えながら、彼を見上げる。
「お腹、空きませんか?」
「君の口から、その言葉が出るのを待っていた」
ジョルジュなら、食いしん坊だと呆れそうな会話なのに、シノンは優雅に頷いた。近くの貴婦人たちが、またこちらを見ている。
「まあ、なんて睦まじい」
「殿下の、あの甘やかなお顔をご覧になって」
ナナリーは気恥ずかしくなり、料理の並ぶ卓へ視線を逃がした。シノンがどれほど甘い顔で微笑んでいようと、二人が話しているのは食事のことだ。わざわざ訂正するのも恥ずかしく、そのまま聞こえなかったふりをした。
「あちらに、君の好きなタルトも残っている。今のうちに行こう」
「はいっ」
彼が差し出した腕へ手を添え、堂々と料理の卓へ向かった。誰かの視線を避けて移動する必要は、もうない。けれど、あの日食べそこねたローストビーフが残っているかを確かめたくて、足は少しだけ速くなった。
*
卓には、相変わらず贅沢な料理が並んでいた。
ナナリーは、まっすぐローストビーフへ向かった。壁際で夜会の終わりを待っていた頃、自分を慰めてくれたのは、いつもこの皿だった。誰とも踊らない夜も、肉をひと口食べれば、来てよかったと思えたものだ。
二切れを、小皿に載せる。王子の身体なら、六切れくらいは軽く入った。今は、あとでタルトも食べることを考えると、この量がちょうどいい。
隣で、シノンが四切れ取った。
「殿下、そんなに召し上がれます?」
「この身体なら、入るだろう?」
「知っています。一か月、お借りしていましたから」
二人で、卓の端へ寄った。肉汁が口に広がり、ナナリーは思わず目を閉じる。自分の舌で味わうと、王子の身体で食べた時より、少し塩気が強く感じられた。それでも、やはり美味しい。
シノンの皿には、付け合わせのグリンピースも載っていた。彼は小さな匙で、それをそっと皿の端へ寄せている。
「殿下」
「何だ」
「まだ嫌いなんですか」
「嫌いだ」
きっぱりとした返事に、ナナリーは笑った。王国中で恋の証拠になっても、本人の好みは少しも変わらないらしい。
「私が食べます。でも、陛下に見られたら――」
受け取った一粒を口へ入れた時、背後から大きな声が響いた。
「見たか! 今のを見たか! 息子のグリンピースを、ドラクロワ嬢が引き受けておる。これぞ、夫婦円満の証であるぞ!」
声のしたほうを振り向くと、国王が満面の笑みで立っていた。いつの間にか料理の卓までやって来たらしい。その隣では、王妃がとうとう扇子で顔をすっぽりと隠している。
国王の声に、近くの貴族たちから笑いが起こった。ナナリーは口の中のグリンピースを慌てて飲み込み、熱くなった頬をどうにかしたくて俯く。隣ではシノンが額を押さえていたが、ふと顔を上げた彼と目が合った。
どちらからともなく笑みがこぼれる。国王にとっては、グリンピースが何より確かな夫婦円満の証らしい。まだ結婚もしていないのに、ずいぶん気の早い話だった。
柱の傍では、エルネットが見守っていた。今夜は、一度も眉を上げていない。ナナリーと目が合うと、静かに微笑んでくれた。
「ナナリー」
声をかけられて振り向くと、ジェニーがギュスターの腕に手を添えて立っていた。彼女の頬がほんのり上気しているのは、踊ったせいだけなのだろうか。あとで聞きたいことが、また一つ増えた。
「おめでとう。それから、試験も。二十九位ですって?」
「二十位以内に入るって、お父様と約束しているから、まだあと九人抜くようだけどね」
弁解しながらも、ナナリーは胸を張った。
一位には、遠く及ばない。けれど、下から数えたほうが早かった頃からは、ずいぶん遠くまで来た。順位表を見た父は、ハンカチを二枚使い切った。ジョルジュの手帳の「妹の行動一覧」には、ナナリーが自分で、勉強を続けると書き足しておいた。
書いたからには、守らなければならない。今度は召喚術へ逃げず、まず教本を開くつもりだった。
ジェニーが、ふと思い出したように首を傾げた。
「そういえば、使い魔の申請はもうしないの? あんなに欲しがっていたのに」
ナナリーは、少し考えた。
頼りになって、近くにいて、助けてくれて、見た目もいい相棒。召喚書を前に願った条件を思い出す。黒猫か、カラスか、フクロウか。愛読書に出てくるような相棒が、いつか自分の肩に止まってくれたら素敵だと、ずっと思っていた。
隣を見上げると、シノンが少し目を逸らした。何を言われるのか、察したのだろうか。耳が、また赤くなっている。
「使い魔は、もういらないわ」
ナナリーは、ジェニーに笑って答えた。
「だって、素敵な婚約者がいるもの」
ジェニーが、声を上げて笑った。ギュスターは、なぜか自分まで照れたように咳払いをする。シノンは、とうとう顔ごと横を向いてしまった。
ナナリーは、その横顔を見て、少し満足した。彼の笑顔に何度も照れさせられてきたのだから、たまには自分が照れさせてもいいはずだった。
楽団が、また新しい曲を奏で始めた。
シノンがこちらへ向き直り、手を差し出す。
「もう一曲、踊らないか?」
「十四回目を踏んでもいいなら」
「踏んだら、数に足しておくけどな」
二人は、もう一度、広間の中央へ歩き出した。
見上げれば、シャンデリアの腕は二十四本。今夜も、全部そろっている。けれど今度は、数え直したりはしなかった。彼の手を取り、曲の始まりを待つほうへ気持ちが向いていたからだ。
ナナリーは、髪飾りにそっと触れた。黒い羽根が一枚、うぐいす色のリボンで留めてある。窓の外で、どこかのカラスが一声鳴いた気がした。
顔を上げると、青い瞳がこちらを見ていた。
ナナリーはその目に微笑み返し、自分の足で最初の一歩を踏み出した。
(完)
お読みいただき、ありがとうございました。途中、二人の関係を描くのが楽しくなって横道に逸れてしまい、長くなってしまいました。それでもお付き合いいただき、感謝です。
番外編を一話追加して終わりになります。
評価、ブクマ、などしていただけると、とても励みになります。
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