番外編 あと一行で、ご褒美です
放課後の図書室は、窓から差し込む西日で、蜂蜜色に染まっていた。
高い書棚のあいだには、古い紙とインクの匂いが漂っている。奥の閲覧席では、成績上位者の証である金のラインが入ったローブを着た生徒が、分厚い魔術書に顔を近づけていた。司書が貸し出し台で帳簿をめくる音が、ときおり小さく響く。
窓際の長机には、四人が向かい合って座っていた。
ナナリーの前には魔術理論の教本と、まだ途中までしか埋まっていない課題の紙が広がっている。隣に座るのはシノン。向かいではジェニーが歴史の年表とにらめっこし、その横でギュスターが年号の覚え方を書き出していた。ジェニーが「難しい」と呟くたびに、ギュスターはすかさず新しい説明を書き足していく。どうやら、助けを求められるまで待つつもりはないらしい。
「殿下」
ナナリーは、ペンを置いた。
「甘いものが食べたいです」
「まだ三問目じゃないか」
「もう三問目まで来ました」
「十問のうちの、三問目だ」
シノンは、教本から目を上げずに答えた。その横顔は、学院の誰もが知る王子のものだった。ただ、ナナリーの課題を指でとんとんと叩く仕草には、少しの遠慮もない。
ナナリーは、机の下の鞄へ、そっと目を向けた。中には、今朝詰めてきた非常食が入っている。蜂蜜入りの焼き菓子が二つと、砂糖をまぶした木の実が一袋。手を伸ばせば届くのに、三問目の答えより遠く感じられた。
「鞄を見ても、問題は解けない」
「見ていません」
「三回見ただろう」
数えられていた。婚約してから、彼にはナナリーの癖がすっかり移ったらしい。自分が灯りを数えるように、彼はナナリーが鞄を見る回数を数えている。いまだけは、観察する相手を、もう少し別のものにしてほしい。
「あと一問、解けたら」
シノンが、顔を上げた。
「甘いものを食べてもいい」
「一問で?」
「一問で。この式を完成させたら」
ナナリーは、紙へ目を落とした。魔力の流れを分配する式が、途中で止まっている。ここから先が分からなくて、甘いものへ気持ちが向き始めたのだ。
「その式を完成させるのが、難しいんですけど」
「だから、一問でいいと言ったんだよ」
向かいで、ジェニーが笑った。
「殿下、ナナリーの扱いがお上手になりましたね」
「一か月、扱われる側にいたからな」
シノンが声を落として答えると、ギュスターも、年号を書く手を止めずに口を挟んだ。
「ナナリー嬢。諦めて解いたほうが早い。この方は、一度言ったら引かない」
「知っています。一か月、この方の顔で暮らしていましたから」
小声で返した時、書棚の向こうを、下級生の女子生徒が二人通りかかった。本を抱えたまま、こちらを見て、くすりと笑う。
「見て。またナナリー嬢が殿下に叱られているわ」
「でも、殿下はなんだか楽しそうね」
「きっと、励ましていらっしゃるのよ。あのナナリー嬢が、毎日放課後まで残って勉強しているんですもの。殿下のおかげでしょうね」
囁き声は、思いのほかよく通った。二人が書棚の向こうへ消えても、ナナリーの頬には、まだ熱が残っている。
隣を見ると、シノンは教本へ目を戻していた。けれど、その耳の先は、西日だけでは説明できそうにない色に染まっていた。
「殿下、いまの聞こえていましたよね」
「何も聞こえていない」
「耳が赤いです」
「西日のせいだ」
それ以上は追及せず、ナナリーは紙に向き直った。気づいたことを全部指摘すれば、自分の赤い頬についても尋ねられそうだったからだ。
式は、魔力を三つの経路へ分けるものだった。教本の説明を読み直しても、言葉だけでは流れを掴みにくい。けれど、分からない時に、同じ文章を睨み続けなくてもいいことは、シノンから教わっていた。
式をたどり、頭の中に魔力の流れを描いてみる。一本の流れが三つに分かれ、それぞれの経路へ向かう。どこへ、どれだけ流せば偏らないのか。
東屋でねじれた光をほどいた時も、力が集まりすぎている場所を見つけた。今度は最初から、そこへ力を寄せすぎないようにすればいい。
ナナリーは、ペンを走らせた。
式の続きが、自分の丸い字で紙の上に現れる。最後の払いには、いつもの小さな花が咲いた。
「できました」
シノンが覗き込み、しばらく黙って式を追った。ナナリーも、一緒に紙を見つめる。間違っていたら、どこから直すのだろう。そう考え始めたところで、彼が顔を上げた。
「正解だ」
その言葉と一緒に、彼は笑ってくれた。
ナナリーは、この笑顔を見るのが好きだった。正解を伝えるだけでなく、ナナリーが分かったことまで喜んでくれているように見える。以前より少し勉強が嫌いではなくなったのは、解ける喜びを知ったからだ。けれど、この顔を見られることも、その理由の一つだった。
「では、約束どおり」
鞄へ手を伸ばそうとすると、シノンがそれを止めた。
「非常食は、しまっておけ」
「え? でも、食べてもいいって」
「甘いものは、いい。でも、君の鞄の中のものとは言っていない」
シノンは上着の内ポケットから、小さな紙包みを取り出した。
「何ですか、これ?」
「開けてみるといい」
言われるまま包みを開くと、中には三角にカットされた小ぶりなパイが四つ並んでいた。こんがり焼けた生地の隙間から、艶のある林檎がのぞいている。ふわりと漂ってきた甘い香りに、ナナリーは思わず顔を近づけた。
「もしかして、林檎と蜂蜜のパイですか?」
「ああ」
「市場のおばあさんの?」
「そうだ」
ナナリーはパイとシノンを交互に見た。月に一度しか売らないと聞いていた、あのパイだ。
「でも、どうして殿下が?」
「前に市場へ行ったとき、次の販売日を聞いておいたから」
ナナリーは目を丸くした。あの日、帰り際にシノンが老婦人のところへ戻り、手帳に何かを書きつけていたことを思い出す。
「あのとき、手帳に書いていたのって……」
「販売日と、焼き上がりの時刻だ」
「公務の予定じゃなかったんですか?」
「君が次こそは絶対に食べたいと言っていたからな」
あまりにも当然のように答えるので、ナナリーはしばらく言葉が出なかった。あのとき何気なく口にした願いを、シノンはずっと覚えていてくれたらしい。
「ありがとうございます、殿下。すごく嬉しいです」
「まだ食べていないだろう」
「食べる前から嬉しいんです。嬉しくて泣きそうです」
「泣くな」
シノンが小さく笑った。ナナリーはもう一度パイへ目を落とす。焼き色のついた生地からは、林檎と蜂蜜の甘い香りが漂っていた。
「殿下が、ご自分で買いに?」
「ロランに頼むと、手帳に書かれるからな」
ナナリーは、栗色の髪をきっちり撫でつけた、几帳面な少年従者を思い浮かべた。確かにロランなら、パイを買いに行った日時から代金まで、漏れなく記録してしまいそうだ。
そう考えているうちに、ふと気づいた。
「殿下、もしかして、朝からずっと持っていらしたんですか?」
「ああ。渡す機会がなかった」
ナナリーは包みとシノンを交互に見た。今朝から、これを上着に入れたまま授業を受けていたのだろうか。難しい講義に涼しい顔で答える王子の内ポケットに、ずっと林檎と蜂蜜のパイが入っていたなんて。
想像すると、なんだかおかしくて、同時に胸のあたりがくすぐったくなった。
「ジェニー嬢の分もある」
シノンはもう一つの包みを取り出し、ギュスターの前へ置いた。
「私の分まで。殿下、ありがとうございます」
ジェニーは目を輝かせた。
「君に渡しておく。二人で分けるといい」
ギュスターが、包みとジェニーを見比べた。その耳が、みるみる赤くなる。ジェニーは嬉しそうに、彼の袖を引いた。
「ギュスター様、せっかくですから、中庭のベンチでいただきませんか? ここは飲食禁止ですし」
「ああ」
ジェニーはナナリーへ片目を閉じてみせ、手早く荷物をまとめて、ギュスターと図書室を出ていった。去り際、ギュスターがシノンへ小さく会釈したのが見えた。
窓際の長机には、二人だけが残った。
奥の閲覧席も、いつの間にか空になっている。司書は書庫へ入り、西日はさらに傾いて、机の上の包みを茜色に照らしていた。
「ここ、飲食禁止なんですよね」
「そうだな」
「じゃあ、私たちも中庭に」
「一つだけなら、司書も見逃してくれないだろうか」
シノンは切り分けたパイを一つつまみ、ナナリーの口元へ差し出した。
ナナリーが目を丸くしても、彼はそのまま待っている。ナナリーは書庫のほうへ一度視線を送り、それから頬を熱くして、小さく口を開けた。
さくりと軽い生地を噛むと、バターの香ばしさとともに、柔らかく煮込まれた林檎の甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。あとから蜂蜜のまろやかな甘みが追いかけてきて、思わず目を閉じる。課題を解き終えたあとだからなのか、彼が自分のために買ってきてくれたからなのか、評判どおりの美味しさは、想像していた以上だった。
「美味しいです」
「それは、よかった」
目を開けると、彼がすぐ近くでこちらを見ていた。夕日を受けた青い瞳が、柔らかく細められている。
「殿下も召し上がってください。もう一つあります」
「俺は、いい」
「でも、殿下が買ってきてくださったのに」
「なら」
彼が、少し身を寄せた。
「こちらで、もらう」
何を、と尋ねかけた時、彼の視線が唇へ下りた。ナナリーは息を止め、そのまま目を閉じた。
触れたのは、ほんの一瞬だった。離れる時、彼が小さく息を漏らして笑う。
「甘いな」
ナナリーは言葉を探したが、すぐには見つからなかった。顔が熱い。蜂蜜のとろける甘さと、唇に触れた温かさを、別々に考えることもできなくなっている。
「殿下、ここ、図書室です」
「だから、一つだけなんだよ」
彼は何事もなかったように課題を引き寄せ、四問目を指で叩いた。けれど、その耳は、もう西日のせいにはできないほど赤かった。
ナナリーは、紙へ目を落とした。それから、残ったパイを見る。今度は、甘いものが食べたいだけではなかった。
「殿下」
「何だ」
「あと一行、進めたら」
ナナリーは、ペンを握り直した。
「もう一回、ご褒美をもらえますか」
シノンが、ゆっくりとこちらを向いた。少し目を見開き、それから、正解を伝えた時と同じように口元を緩める。
「三行解いたらだな」
「増えています!」
「ご褒美が増えるなら、課題も増える。そういうものだろう?」
ナナリーは、頬を膨らませた。けれどペンを持つ手は、もう四問目へ向かっていた。三行なら、たぶん頑張れる。今度は、途中で鞄を見なくても済みそうだった。
窓の外で、夕暮れの鐘が鳴り始めた。閉館まで、あと少し。ナナリーは魔力の流れをたどり、一行目を書いた。最後の払いに、また小さな花が咲く。
残りは二行。ナナリーは隣のシノンをちらりと見てから、急いで次の行に取りかかった。閉館の鐘が鳴るまでに、どうしても解き終えたかった。
(完)




