82 今度は、自分の名前で
普段なら穏やかな時が流れるドラクロワ伯爵邸も、今日ばかりは、家中が落ち着かなかった。
「奥様! 絨毯の端に、かすかな毛羽立ちが!」
「まあ、大変! 今すぐ替えの絨毯を。いいえ、待ちなさい。殿下がご到着されるまでに、間に合うかしら?」
どんな夜会でも優雅さを崩さない母マリアナが、扇子を忙しく動かし、右へ左へと指示を飛ばしている。その視線は、壁掛け時計と窓の外を何度も往復していた。
一方、父は同じ廊下を、行ったり来たりしていた。
「あなた、うろうろなさらないでちょうだい。目が回りますわ」
「分かってはいるんだがね。足が勝手に動くのだよ。ところでマリアナ、私の襟元は曲がっていないかね? 挨拶は『よくぞお越しくださいました』でよかったかな。それとも『殿下、ドラクロワ家へようこそ』だろうか?」
「さっきから十回目ですわよ、その質問! もうどちらでもお好きになさって!」
落ち着かないのは、両親だけではなかった。
玄関広間では、執事が鏡の前でタイを整え直していた。ナナリーには、さっきとどこが違うのか分からない。給仕たちは、十分に磨かれた銀器を明かりへかざしては、まだ曇りがあるのではないかと確かめている。
厨房へ続く廊下からは、塩と砂糖を間違えたらどうしようと心配する料理長を、見習いが宥める声まで聞こえてきた。あれほど美味しい焼き菓子を毎日作ってくれる人が、今朝は自分の腕を信用できなくなっているらしい。
階段の踊り場からその様子を見下ろして、ナナリーは苦笑した。
「つい先日まで、殿下の中身は私だったのに」
呟いても、忙しい家族の耳には届かなかった。届いたところで、今日の騒ぎが収まるとも思えない。ナナリー自身、身支度を終えてから、何度もリボンに触れてしまっていた。
昼前、ようやく玄関の呼び鈴が鳴った。
ナナリーは階段を下り、両親の後ろに並んだ。使用人が扉を開けると、そこにシノンが立っていた。背後に見えるのは、王家の紋章入りではない、目立たない黒塗りの馬車だった。
彼は濃紺の上着に白い手袋をはめ、小さな花束を抱えていた。白いイリスを束ねているのは、うぐいす色のリボンだ。
その姿を見た瞬間、心臓がばくんと跳ねた。
何度も鏡で見てきた顔だった。けれど、玄関の光の中に立つ彼は、鏡の中の王子とはまるで違って見える。背が高く、肩が広い。その口元が、こちらを見つけた途端に、少しだけ緩んだ。
ナナリーは、花束よりも先に、その微笑みに目を奪われた。
「先日は、お世話になりました」
シノンが、父の前で丁寧に一礼した。
「本日は、王子としてではなく、一人の男として伺いました。ドラクロワ伯爵、伯爵夫人。ナナリー嬢に、交際を申し込ませていただきたいのです」
玄関広間が、静まり返った。
父の手が、胸のポケットへ伸びた。母は扇子で顔の下半分を隠したが、輝く目元までは隠しきれていなかった。ジョルジュが手帳を開き、「本日の予定」の下へ、ようやく一行書き込む。横からちらりと見えた文字は、「交際の申し込み」だった。
父はハンカチを握ったまま、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を横に振った。
「殿下。そのお申し込みは、私ではなく、娘へ直接なさってください」
ナナリーは、父を見た。
「この子は、自分の将来は自分で決めたいと、手紙に書いてきました。先日の縁談でも、殿下が娘として、その希望を伝えてくださった。ならば、親が先に頷くわけにはまいりません」
父の目元は、すでに赤くなっていた。それでも、その声は落ち着いていた。
「娘が頷くなら、私たちは喜んでお迎えします」
シノンが、深く頭を下げた。ナナリーも何か言いたかったが、父の横顔を見ていると、喉が詰まった。今日の返事を、父は自分に任せてくれているのだ。
シノンがこちらへ向き直り、花束を差し出した。
受け取ると、リボンが指に触れた。自分の髪と同じ色だと思っただけで、また顔が熱くなる。
「庭を、少し歩かないか」
ナナリーは花束を抱え、頷いた。
*
噴水の音が、数日前と同じように響いていた。
バラの生垣には、花びらの縁が少し茶色くなった花も混じっている。ナナリーは花束を胸に抱えて、シノンの隣を歩いた。
歩幅が、合わなかった。
一か月、彼の小さな歩幅に合わせて歩いていたのに、今度は自分が急ぐ番だ。二歩目を小走りに踏み出したところで、シノンが速度を緩めた。何も言わずに、ナナリーの歩調に合わせてくれる。
王子の身体にいた頃、自分も同じことをしていた。そのことを思い出すと、胸が温かくなった。彼もまた、ナナリーの一歩がどれくらいなのかを知っている。
噴水の前で、シノンが立ち止まった。
「ナナリー」
彼が、こちらへ向き直る。
「前に、続きは自分の声で言わせてほしいと言った。だから、今――」
「待ってください」
ナナリーは花束を抱えたまま、片手を上げた。
シノンが、瞬きをした。口を開きかけた姿勢のまま止まり、こちらを見る。その戸惑った顔に少し笑いそうになったが、今笑えば、自分の決心まで揺らいでしまいそうだったのでなんとかこらえる。
「先に、言わせてください」
「先に?」
「前にも言いましたよね。殿下が私の姿でアルマン様に『心に決めた人がいる』とおっしゃった時です。あの言葉は、私自身の口から、最初に伝えたかったんです」
シノンの耳が、赤くなった。
「あれは、すまなかった」
「もう怒っていません。でも、決めていたんです。最初は、私が言うって」
ナナリーは、息を吸った。
胸の花束から、イリスの青い香りがする。噴水の水音が遠くなり、自分の心臓の音ばかりが近くに聞こえた。朝から考えていた言葉は、彼の顔を見ると、思ったほど綺麗には並んでくれなかった。
それでも、もう誰の声も借りなくていい。
「殿下が、好きです」
自分の声が出た。高く、少し震えていて、格好よくはなかったかもしれない。けれど、胸の中に留めていた言葉を、ようやく本人へ届けることができた。
「頼りになるからでも、近くにいたからでも、助けてくれたからでも、見た目がいいからでもなくて。いえ、見た目もいいんですけど。でも、そういう条件ではなくて」
何を言っているのか、途中で分からなくなりかけた。顔も指先も熱い。それでも、ここでやめたら、また肝心なことを言いそびれてしまう。
「一緒に古代語を読んでくれたところとか、私が正解した時に笑ってくれたところとか、怒った時に、ちゃんと謝ってくれたところとか。そういうの全部が、好きです」
言い終えると、膝から力が抜けそうになった。花束を抱える腕に力を込め、慌てて付け足す。
「もちろん、ヤン・ミュラー様の術はすっかり解けているので、これは私の本音です」
シノンは、しばらく何も言わなかった。
ナナリーは、息をすることまで忘れそうになりながら、その顔を見つめた。やがて、彼がゆっくりと笑った。少し困ったようで、それでいて、嬉しくてたまらないようにも見える。鏡の中で、この笑い方を見たことは一度もなかった。
「先を越されたな」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
彼が、一歩近づいた。
「俺も、君が好きだ」
低い声が、すぐ近くで響いた。念話ではない。耳で聞く、彼自身の声だった。
「パンを四つ食べるところも、魔石灯を数えるところも。勉強が嫌いだと言いながら、最後まで逃げなかったところも。俺の顔で、俺より楽しそうに笑うところも。全部」
視界が、少しぼやけた。瞬きをすると、頬が温かく濡れた。泣くつもりなどなかったのに。父のハンカチを一枚、借りてくればよかった。
シノンは急かさずに待ち、それから尋ねた。
「交際を申し込んでもいいだろうか。王子として無理矢理の命令ではなく、シノンという男の願いとして」
ナナリーは頷きかけて、クロの声を思い出した。
うなずくのは、お前だ。
誰かに決められるのでも、術に選ばれるのでもない。望んでいる相手を、自分で選び、自分で伝える。今、目の前の彼も、その返事を待ってくれている。
ナナリーは、しっかりと頷いた。
「はい。喜んで」
シノンが、そっと手を伸ばした。白い手袋を外し、親指で頬の涙を拭ってくれる。その指先がわずかに震えていて、ナナリーは、緊張しているのが自分だけではないと知った。
「ナナリー」
「はい」
「一度目は、君を助けるためだった」
東屋の夜のことだと、すぐに分かった。媚薬に惑わされ、息をするのも苦しくなった自分へ、魔力を渡してくれた口づけだ。
「今度は、そうじゃない。俺が、そうしたいからだ」
彼が、少し身をかがめた。
ナナリーも花束をそっと下げ、つま先立ちになった。それでも、まだ届かない。シノンが小さく笑い、もう少しかがんでくれる。今度はナナリーも、自分の気持ちで、その距離を縮めた。
目を閉じると、噴水の音が聞こえた。バラとイリスの香りの中で、唇に温かさが触れた。
雷は落ちなかった。光も弾けず、身体も入れ替わらない。ただ、自分の唇に彼が触れ、少しして離れていった。何も起きなかったことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
目を開けると、すぐ近くに青い瞳がある。その中に、自分の顔が小さく映っていた。ナナリーが笑うと、彼も笑った。
その時、屋敷のほうで、何かが倒れる派手な音がした。
振り向くと、二階の窓にずらりと顔が並んでいた。
オペラグラスを構えた母。両手にハンカチを持ち、目元へ交互に当てている父。手帳に猛然と何かを書き込んでいるジョルジュ。さらに、いつの間に来ていたのか、長兄のヴィクトールと義姉、その腕に抱かれた甥までが、こちらを見ている。
母の傍には、傾いた花瓶と、それを慌てて支えるヴィクトールの手が見えた。先ほどの音は、どうやらあれだったらしい。
「お母様!」
ナナリーが叫ぶと、母はオペラグラスを下ろし、悪びれもせずに手を振った。甥も真似をして、小さな手を振っている。
シノンが、額を押さえた。けれど、その口元は笑っていた。
「次の夜会では」
彼がナナリーの手を取った。大きな手のひらが、小さな手を包む。もう、どちらが誰の手なのかを考える必要はなかった。
「約束どおり、俺がリードする。今度こそ、互いに自分の身体で」
「足、踏まないでくださいね」
「善処する」
ナナリーは、その手を握り返した。二階では、ジョルジュがまだ書き続けている。「本日の予定」の下に、一体何行増えたのだろう。
あとで覗いたらきっと「妹、本日、婚約者候補から恋人へ」と書いてあるに違いない。
ただ、その下に口づけの時刻まで記録されていたら、今度はナナリーが、母の代わりに兄の手帳を没収しなければならなかった。




