81 リボンは、三回却下済みです
ドラクロワ家の朝食の席で、ナナリーはパンを四つ食べた。
緊張すると食べられなくなる人もいるらしいが、今朝のナナリーは逆だった。一つ目は味が分からず、二つ目で少し落ち着き、三つ目を食べながら、今日これから起きることを思い出した。四つ目は、ほとんど勢いだった。
五つ目へ伸ばしかけた手を、向かいのジョルジュが咳払いで止めた。一回。おかわりの合図のはずなのに、今朝はどうやら、やめておけという意味らしい。兄の目が、パンの籠ではなくナナリーのお腹のあたりへ向いていたので、素直に手を引っ込めた。
「ナナリー、口の端にジャムがついているわよ」
母に言われ、慌ててナプキンで拭った。
マリアナは夜明け前から起き出し、屋敷中の花瓶の花を活け直していた。玄関広間のバラは赤から白へ、白から薄紅へと変わり、最後にはまた赤へ戻った。使用人たちは、そのたびに無言で花瓶を運んでいる。最初の赤いバラが一番いいと気づくまでに、屋敷中がずいぶん歩かされたらしい。
父は、ハンカチを二枚用意していた。一枚は胸のポケットに、もう一枚は袖の中に。今日は、泣く予定があるのだろう。
「お父様、まだ何も始まっていないのに」
「始まってからでは、取り出す暇がないかもしれないだろう」
備えは万全だった。母は花を、父は涙の準備をしている。ナナリーだけが、何を言えばいいのか、まだ頭の中で確かめていた。
ジョルジュは、新しい手帳を開いていた。昨日、古いほうを母に没収されたのだ。身を乗り出して覗くと、一行目には几帳面な字で「本日の予定」とあり、その下は白紙のままだった。
兄のペンが止まっているのを見て、ふいにロランを思い出した。
王子の従者である彼は、この一か月、ナナリーが食事をするたびに、熱心に記録を取っていた。朝食のおかわりが二回、昼食のデザートが三品、夕食のあとに厨房へ焼き菓子を頼んだことまで、実に細かく書き留めていた。
今頃は、本物のシノンを前にして、首を傾げているかもしれない。あれほど旺盛だった殿下の食欲が、急に落ち着いてしまったのだから。
殿下、食欲不振。朝食のおかわり、なし。
そんな一文を、深刻な顔で書き込んでいる姿が目に浮かんだ。
事情を知るエルネットなら、うまく説明してくれるだろうか。けれど、あの人が涼しい顔で「殿下もお疲れなのでしょう」とだけ答えたら、ロランはかえって心配を深めてしまいそうだった。
少し、申し訳なくなった。今度王城へ行ったら、ロランにもお礼を言おう。ついでに、この一か月の食事の記録は、できれば誰にも見せずにしまっておいてほしい。特に国王の手に渡れば、今度は何を恋の証拠にされるか分からない。
窓の外は、よく晴れていた。秋の終わりの澄んだ光の中で、庭の噴水がきらきらと輝いている。数日前には、あの縁に座って、自分の顔をしたシノンの言葉を待っていたのだ。
今日は、その続きを聞く日だった。そして今度こそ、自分も答える日だった。
*
朝食を終えて自室へ戻ると、侍女たちが身支度の準備を整えて待っていた。
寝台には三着のドレスが広げられ、化粧台には色とりどりのリボンや髪飾りが並んでいる。見慣れたはずの光景なのに、しばらく王子の部屋で暮らしていたせいか、いつもよりずっと華やかに見えた。
「お嬢様、本日はどちらになさいますか?」
侍女頭が、三着を順番に示した。
一着目は淡い水色で、胸元に小さな真珠、袖には繊細なレースがあしらわれている。二着目は薄紅色で、腰に大きなリボンがついていた。三着目はクリーム色の生地に小花が刺繍され、裾には透明なビーズが散りばめられている。
「どれも可愛い」
ナナリーは見比べながら、思わず頬を緩めた。
王子の身体で過ごした一か月、衣装選びに迷うことはほとんどなかった。上着の色や刺繍は違っても、基本の形は似ている。用意された服に袖を通し、髭を剃ってもらい、髪を整えれば、それで身支度は終わりだった。
あれはあれで、楽だった。時間もかからない。けれど、こうして色も形も違うドレスを前にすると、やはり心が弾む。
「今日は、どれがいいと思う?」
「わたくしは、薄紅色がよろしいかと。お顔が明るく見えますもの」
「でも、こっちのビーズも可愛いのよね。ほら、光に当たるときらきらするの」
クリーム色の裾を持ち上げると、小さなビーズが朝日を受けて輝いた。歩くたびに光るところが、以前から好きだった。
「では、こちらになさいますか?」
「待って。水色も捨てがたいわ」
胸元へ一着ずつ当ててもらい、鏡の中で確かめる。水色には落ち着いた可愛らしさがあり、薄紅色は顔色まで明るく見せてくれた。どれを着てもよさそうだと思えることが、かえって選ぶ邪魔になる。
何度も見比べた末に、クリーム色に決めた。今日のために新調したものではないが、刺繍もビーズも気に入っている。彼に会う時は、自分の好きな服を着ていたかった。
ドレスが決まれば、今度は髪型だ。侍女の一人が櫛を入れ、もう一人が髪を巻いていく。くいっと引かれる感覚に、ナナリーは思わず眉を寄せた。
「いたた。もう少し優しくしてほしいかも」
「申し訳ございません。少しの間だけ、我慢なさってくださいませ」
「王子様の髪は、櫛を通すだけでよかったのに」
「まあ、お嬢様ったら」
侍女は冗談だと思ったらしく、くすくすと笑った。ナナリーはそれ以上説明せず、動かないように座り直した。自分の身体にいた間、シノンも毎朝、これに耐えていたのだ。今なら、髪の支度が長いという彼の小言にも、もう少し親身に頷ける。
髪を半分だけ結い上げ、薄紅色のリボンを添えてもらった。耳元には小さな真珠をつけ、頬へ薄く紅を差す。唇の色が整えられる頃には、鏡の中の顔が、少しずつ華やかになっていた。
元に戻ってから、何度も見た自分の顔だった。けれど今日は、ただ戻ったことを確かめるためではなく、これから彼に見せる顔として眺めている。
「お嬢様、いかがでしょう?」
尋ねられ、ナナリーは顔を左右に動かしてみた。耳元の真珠が揺れ、リボンが髪の色を柔らかく引き立てている。
「うん、可愛い!」
思わず、声が弾んだ。
王子の身体にも、いいところはたくさんあった。遠くまで見渡せるし、大股で歩けばすぐに目的地へ着く。重い扉も片手で開けられた。身支度の簡単さにも、何度も助けられた。
けれど、リボンの色を選び、ドレスに合わせて髪を結い、頬に少しだけ紅を差す。そんなふうに、気に入ったものを一つずつ身につけていく楽しさも、ナナリーにとっては大切なものだった。
コルセットは相変わらず苦手で、靴も歩きにくい。髪を結う間、じっと座っているのも好きではない。それでも今日は、鏡の中でリボンが揺れるたびに、仕上がりをもう一度見たくなった。
「本日は、一段とお綺麗でございますね」
「ありがとう」
笑って答え、また鏡を覗き込んだ。
シノンは、どんな顔をするだろう。
考えた途端、頬が熱くなった。つい先日まで、彼はこの顔で笑い、この髪を結ってもらっていた。けれど今日は違う。自分で選んだドレスと、好きなリボンを身につけて、自分の名前で彼を迎えるのだ。
急に、薄紅色のリボンが可愛らしすぎるような気がしてきた。もう少し落ち着いた色のほうがいいだろうか。化粧台へ目を向けると、別の一本が気になった。
「やっぱり、リボンはこっちのほうがいいかしら」
手を伸ばすと、侍女が笑いながら首を振った。
「そちらは先ほど、却下なさいましたよ」
「そうだった?」
「はい。三回ほど」
ナナリーは、手を止めた。どうやら、今朝の母が花瓶の花を何度も活け直していたことを、笑ってはいられないらしい。
リボンを戻し、鏡の中の自分に小さく頷いた。この服で、この髪型で迎えよう。見た目の準備は、もうできている。
残るのは、彼の前で言う言葉だった。ナナリーは膝の上で手を重ね、鏡の中の顔を見つめたまま、声に出さずに、その最初の一言を確かめた。




