80 特に母上には、が筒抜けでした
母に名前を呼ばれたジョルジュは、壁際でいっそう背筋を伸ばした。魔術師団の制服を着ているというのに、ナナリーには、悪戯が見つかって説教を待っていた子どもの頃の兄と重なって見える。
「あなた、全部知っていたのね」
「はい」
「最初から?」
「正しくは、二日目からです」
「それで、家族には黙っていた」
「殿下と、妹の名誉を守るために」
「そう」
母がにっこりと微笑んだ。ナナリーが知る限り、あの笑顔を向けられて、無事に話を終えた家族は一人もいない。
「でも、どうして私たちには相談してくれなかったの? お父様だって、きっと力になれたでしょうに」
「申し訳ありません。事情が事情でしたので、知る者は最小限にとどめるべきだと判断しました」
「家族よりも、秘密を守ることを優先したのね」
「そのようなつもりでは」
「ナナリー」
突然名前を呼ばれ、ナナリーはびくりと肩を揺らした。
「あなたは、お兄様から何と説明されたの?」
「ええと、入れ替わりのことは誰にも話さないように、と」
「誰にも?」
「はい。特にお母様には、絶対に知られないようにって」
そこまで答えてから、ナナリーは口を閉じた。母の笑顔が、ほんの少し深くなる。
「特に、私には?」
「あ」
慌てて口元を押さえたものの、もう遅い。壁際では、ジョルジュがゆっくりと目を閉じていた。今の一言で兄の胃にどれほどの負担をかけたのか、想像するとこちらまで胃が痛くなってきた。
「ジョルジュ。どうして私だけ、特別に秘密にされなくてはならなかったのかしら?」
「母上、それには理由が」
「ええ。ぜひ聞かせてちょうだい」
ジョルジュがナナリーを見た。余計なことを口にしたな、とその目が訴えている。
ナナリーは申し訳なく思いながらも、そっと視線を逸らした。母に尋ねられたことには正直に答えるよう、幼い頃から教えられてきた。その教えを守った結果についてまで、責任を取れと言われても困る。
ジョルジュは何度か口を開きかけ、ようやく言葉を絞り出した。
「それは、その。母上は、少々、情報の伝達が速く」
「私が噂好きだと?」
「いえ、情報通だと」
「同じことよ」
母は扇子で兄の手帳を指した。ジョルジュは自分の手元を見下ろし、観念したように差し出す。母はページをめくり、あるところで手を止めた。
「妹の行動指示一覧。咳払い一回、おかわり。咳払い二回、文句を言え」
母は手帳から顔を上げ、シノンをまじまじと見つめた。それから、呆れたようにジョルジュへ視線を戻す。
「殿下に、食卓で咳払いの合図まで教えていたの?」
「必要な措置でした」
ジョルジュは、あくまで真面目に答えた。
その手帳には、ナナリーらしく振る舞うための注意が、ほかにもいくつも書かれているはずだ。妹を守るためとはいえ、よくもこれほど弱点を集めたものである。
ふと、苺タルトのことを思い出した。夜中に皿を割ったのは兄なのに、叱られたのは自分だ。あとで口止めの焼き菓子を渡されたけれど、あの件には、まだ納得していない。
今なら真相を明かせると思い、口を開きかけた。けれど、壁際の兄を見て思いとどまる。
この一か月、ジョルジュは仕事の合間に何度も王城へ来て、二人を元に戻す方法を探してくれた。原本の行方を調べ、周囲に怪しまれないための口実を考え、失敗しそうな時には助けてくれた。師団で処分されるかもしれなかったのに、ずっと秘密を守ってくれていたのだ。
苺タルトの仕返しなら、今日でなくてもいい。
「お母様」
呼びかけると、母がこちらを向いた。
「お兄様を、あまり叱らないであげてください」
「ナナリー?」
「私たちが元に戻れたのは、お兄様のおかげでもあるんです。一人だったら、何から調べればいいのかも分からなかったと思います」
ジョルジュが顔を上げる。ナナリーは兄へ向き直り、膝の上で手を揃えた。
「お兄様、この一か月、本当にありがとうございました。たくさん迷惑をかけて、ごめんなさい」
「お前が迷惑をかけるのは、今に始まったことじゃないだろう」
「そこは、素直にお礼を受け取ってくださいよ」
いつもの調子で言い返すと、兄は困ったように眉を下げ、それから少しだけ笑った。
「まあ、無事に戻れてよかったよ」
ナナリーも笑みを返す。こんなふうに自分の顔で兄に言い返せることまで、久しぶりに思えた。
父が立ち上がり、ジョルジュへ歩み寄った。
「よく、妹を守ってくれたね」
兄が驚いたように父を見る。
「隠していたことは、あとで母さんに叱られなさい。でも、家族にも相談できない中で、よく頑張ったな」
「父上」
ジョルジュは何か言いかけて、口を閉じた。父がハンカチを差し出すと、一度は首を振りかけたものの、結局受け取って目元へ当てる。
父が四回目の涙に備えていたハンカチは、先に兄のところで使われることになった。
マリアナも手帳と扇子を置き、ナナリーの前へ来た。椅子に座る娘の手を、両手で包む。
「あの日の手は、殿下だったのね」
「うん」
「なら、改めて」
母の手は温かい。刺繍のしすぎでできた小さなたこが、指に触れた。幼い頃から、何度も握ってきた手だった。
「おかえりなさい、ナナリー」
喉の奥が熱くなった。王子の身体で過ごしている間も、家族の顔は何度も見た。言葉も交わしたし、自分の家にも帰った。けれど、母が自分を娘として見て、この手を握ってくれるのは、本当に久しぶりだ。
「ただいま、お母様」
「お行儀のいい娘も素敵だったけれど」
母は微笑み、テーブルのほうへ目を向けた。
「食いしん坊な娘のほうが、やっぱり落ち着くわね」
「お母様!」
慌てて声を上げると、王妃が楽しそうに笑った。
「まあ、ナナリー。そんなに慌てなくても大丈夫よ」
「ですが、王妃様」
「それより、さっきから何度もお菓子を見ていたでしょう?」
「えっ」
ナナリーは思わず卓上の皿を見た。焼き菓子は、まだ十二個ある。
「お腹が空いているのね。遠慮しなくていいのよ。今朝、料理長が用意してくれたものなの」
「ありがとうございます、王妃様」
どうやら、さりげなく数えていたつもりになっていたのは、自分だけらしい。
「……では遠慮なく、いただきます」
ナナリーは頬を熱くしながら、ようやく焼き菓子へ手を伸ばした。十二個あったものが、十一個になる。ひと口かじると、さくりと崩れ、バターの香りが口いっぱいに広がる。自分の舌で味わっても、王城の菓子はやはり美味しい。
隣から小さな笑い声が聞こえた。シノンを見ると、彼の視線は焼き菓子を食べるナナリーのほうへ向いていた。ナナリーは飲み込んでから、少し眉を寄せる。
「何ですか」
「いや。自分の身体で菓子を食べる君を、ようやく見られたなと思って」
その言い方が嬉しくて、文句を言いそびれた。代わりに、もうひと口食べる。
「無事に戻れて、何よりだったな」
国王がしみじみと頷いた。
「本当に。ジョルジュをはじめ、協力してくださった皆のおかげですわ」
王妃の言葉に、ナナリーも頷く。エルネットや魔術師団の人たちにも助けられた。そして、シルヴァンの研究がなければ、終了の術式を組み直すことも難しかっただろう。
もっとも、原本を盗んだのも彼だ。借りるだけで済ませてくれていたら、探す手間も省けたのではないかと思う。助けてもらった礼と、その件への文句は、別々に伝えるべきなのかもしれない。
「そういえば、あの魔術師はどうするのだ?」
国王が思い出したように尋ねた。
「シルヴァンと申したか。禁書を持ち出したという話だったな」
「ええ。その件については、処遇を決めております」
王妃は扇子を膝に置き、穏やかに続ける。
「召喚書の原本は、王立図書館へ返却。無断で持ち出した罪については、二人を元に戻すために尽力した功績を考慮し、今回は不問といたします。そのうえで、魔術師団の古代魔術研究に、嘱託として加わっていただくことにしました」
「ほう。よい処遇ではないか」
「ただし、監督役をつけます」
王妃はにっこりと微笑み、扇子の先をジョルジュへ向けた。
「ジョルジュ・ドラクロワ」
兄の顔から、さっきとは別の理由で血の気が引いた。
「恐れながら王妃様。あの者の説明は、とにかく長く」
「だから、あなたが適任なのよ。三行にまとめる係として」
「三行」
ジョルジュは、不可能な魔術を命じられたような顔になった。
ナナリーには、兄の苦労が容易に想像できる。シルヴァンはきっと、新しい勤め先でも古代魔術の歴史から語り始めるのだろう。三行にまとめる前に、まず最後まで聞かなければならない。兄はやはり、当分の間、胃薬を手放せそうになかった。
*
話し合いが終わったのは、昼過ぎだった。
ナナリーはシノンと王城の庭へ出た。昨夜の東屋へ続く小道を少し外れると、バラの生垣の傍に、背の低い石のベンチがある。そこに、一羽のカラスが止まっていた。
「来ると思った」
クロが琥珀色の目でこちらを見上げる。
「契約は終わった。俺の仕事も、これで終わりだ」
分かっていたことなのに、胸がちくりとした。ナナリーはベンチの前にしゃがみ、ポケットから包みを取り出す。応接間から一つだけ、こっそり持ってきた焼き菓子だ。
「お別れのお菓子」
「祝いの菓子と、別れの菓子は、また別腹なんだがな」
文句を言いながらも、クロは菓子をつつき始めた。今朝のうちに二種類用意しておくべきだったのだろうか。ナナリーがそう考えている間に、菓子はすっかりなくなってしまう。
クロは嘴についた屑を落とし、首を傾げた。
「本当に、使い魔はいらんのか。今度はちゃんとした申請書で出せば、相手を探してやらんこともない」
ナナリーは少し考えてから、首を振った。
「いらない。頼りになって、近くにいて、助けてくれて、見た目もいい相手なら、もう自分で見つけたから」
隣で、シノンが咳払いをした。一回。おかわりの合図ではないはずだ。
ナナリーは顔を上げかけて、やめた。今の言葉を取り消すつもりはないけれど、彼の顔を見ながらもう一度言うには、まだ少し勇気が足りない。
「ふん」
クロが羽を広げる。
「楽しませてもらった」
初めて会った夜の、あの言葉によく似ていた。けれど今は、これから起きることを面白がっている声ではない。ナナリーが何か言うより先に、黒い翼が昼の光の中へ舞い上がった。
高く昇るにつれて、その輪郭が薄れていく。ナナリーは立ち上がり、空を見上げ続けた。やがて姿が青空に溶け、一枚の黒い羽根だけが、くるくると回りながら落ちてくる。
両手を差し出すと、羽根は掌に収まった。指先に、ほのかな温かさが伝わってくる。
「見えなくなったな」
シノンが空を見上げたまま言った。
「はい」
ナナリーは羽根をそっと握る。寂しい。けれど、菓子を食べてから去っていくところは、最後までクロらしかった。別れの言葉をもっと考えておけばよかった気もするが、長く話していたら、真面目な話は腹が減ると、また催促されたかもしれない。
掌へ目を落とすと、黒い羽根が、自分の小さな指の間にある。クロが取り持った契約は終わった。そのあとで誰を求めるかは、自分で決める。あの夜に教わったことを、今度は忘れずにいようと思う。
「ナナリー」
シノンがこちらへ向き直った。
「明日、ドラクロワ家へ伺う。正式に」
「正式に?」
「ああ。今度は、自分の名前で」
顔を上げると、彼がまっすぐにこちらを見ていた。
昨夜、国王の声に遮られた続きは、まだ聞いていない。ナナリーも、伝えたいことを全部言えたわけではなかった。それでも今度の訪問が、誰かの言葉を借りて縁談を断るためのものではないことは分かる。
掌の羽根が風に揺れた。ナナリーはそれを胸の前で持ち直し、頷いた。
家へ帰ったら、まず母には温かい紅茶を、父には新しいハンカチを、ジョルジュには胃薬を用意しておこう。明日は今度こそ、自分の顔で彼を迎えるのだ。家族にはできるだけ落ち着いて、話を最後まで聞いてもらいたかった。




