78 東屋で、もう一度
庭の小道は、夜露でしっとりと濡れていた。
大広間の喧騒が遠ざかるにつれ、二人の足音と、どこかで鳴く虫の声が耳に届くようになる。両脇のバラの生垣は月明かりに白く浮かび、甘い香りを夜気へ溶かしている。ナナリーはシノンの歩幅に合わせながら、前にこの道を通った夜のことを思い出していた。
あの時は、媚薬のせいで告白が止まらず、靴をなくしたまま逃げていた。今夜は両方ともちゃんと履いているし、口から出る言葉も自分で選べる。それだけでも、ずいぶん成長した気がする。もっとも、言いたいことを選べるからといって、すぐに言えるとは限らないのだが。
やがて、東屋が見えてきた。白い柱に囲まれた屋根の下で、魔石灯が庭の暗がりを照らしている。その傍らに立つ二つの人影のうち、一人がこちらを向いた。
「遅い」
開口一番、ジョルジュが言う。魔術師団の制服の襟元をきっちり留め、手帳を胸に抱えているが、その指先はかすかに震えていた。
「お兄様、怒ってる?」
「怒っていない。心配していただけだ。月の高さを三回測り直した」
「さすが、お兄様」
「褒めるな。胃が痛くなる」
隣で、シルヴァンが優雅に一礼する。夜露を吸った黒いマントの裾が、重たげに揺れた。
「お待ちしておりました、お嬢さん、殿下。月はちょうどよい位置に。今宵は事故の夜と同じ満ち欠けでございまして、そもそも月と古代魔術の関係については、ヤン・ミュラーの時代から議論が――」
「三行で」
ジョルジュに遮られても、シルヴァンは少しも気にした様子がない。指を三本立て、簡潔に言い直す。
「術式を唱える。光がほどける。お二人が戻る」
「よし」
説明が短くなると、ずいぶん簡単そうに聞こえる。その三行を実行するために、ナナリーは何週間も教本と向き合ってきたのだ。帳面を机に伏せて逃げ出したくなった夜まで思い出し、自然と背筋が伸びた。
屋根の上で、こつ、と小さな音がする。見上げると、クロが棟木に止まり、琥珀色の目でこちらを見下ろしていた。いつもなら菓子の催促から始まるのに、今夜は何も言わない。羽をきっちりと畳み、静かにこちらを見ている。
東屋の床には、魔術陣が描かれていた。ジョルジュとシルヴァンが何時間もかけて引いた線が、月明かりを受けて銀色に光っている。その一本一本を、ナナリーは目で追う。以前、自分の部屋の床に描いた時とは違い、今は、どこから魔力を流し、どの経路を閉じるのかが分かる。
中央の小さな卓には、召喚書の原本とナナリーの帳面が並んでいる。それを確かめてから、二人は陣の中央で向かい合った。
「手を」
シルヴァンに促され、ナナリーはシノンと手をつなぐ。王子の大きな手のひらが、見慣れた小さな手を包んだ。
こちら側から感じるこの温かさも、今夜で最後だ。彼を見下ろすと、頭の中に声が届く。
『怖いか』
『少し。殿下は?』
『少し』
『同じですね』
『ああ』
短い返事に、少し気持ちが落ち着いた。彼も怖いのだと分かることが、今は心強い。
卓の上の帳面へ目を向けると、丸い字で書いた術式と、最後の払いに咲いた小さな花が見える。何度も確かめた言葉を頭の中でたどり、ナナリーは息を吸い込んだ。
シノンとつないだ手はそのままに、空いているほうの手を胸の高さまで上げる。人差し指に魔力を集め、覚えたとおりに古代語の最初の一画を空中へ描く。
指先から伸びた金色の光が、文字の形を残していった。ゆっくりと最後の一画まで書き終えると、足元の魔術陣が淡く輝き始める。
二人のつないだ手の上に、金色とうぐいす色の光が浮かび上がった。練習の時よりも太く、複雑に絡み合った魔力の糸だ。一か月近く、間違えた部屋に住み続けた結果なのだろう。家具を置き、荷物を増やし、すっかり慣れてしまった部屋から、今夜は出ていかなければならない。
ナナリーは絡み合う光を見つめ、最初の取り消しの言葉を指先で描く。
頼りになる相手を求めた願いは、確かにあった。その願いを認めたうえで、相手を縛るための条件だけを取り消す。空中に浮かんだ古代語が完成すると、金色の光が細い糸となって術式へ流れ込み、絡み合っていた魔力の一筋がするりとほどけた。
続いて、近くにいてほしいという二つ目の願いも、条件から外していく。指を動かすたびに淡い光の文字が生まれ、書き終えると同時に、もう一本の糸が緩んでいった。
三つ目は、補助してほしいという願いだ。練習では何度も書き損じた文字も、今夜は迷わず描ける。最後の一画を払うと、固く絡んでいた光のあいだに、わずかな隙間が生まれた。
そこで、ナナリーは指先を止める。残る四つ目の条件は、見た目がいいことだった。
本人の前でその言葉を術式にするのは、帳面に書くよりずっと恥ずかしい。けれど、もう迷いはない。彼の顔を好きだと思うことも、また会いたいと願うことも、術に任せる必要などないのだから。
シノンの手を一度だけ握り返し、最後の古代語を空中へ描き始める。
四本目の糸がほどけた、その時、ばちっ、と空気が弾けた。
緩みかけた光が、急に片側へ引っ張られる。金色の光がうぐいす色を飲み込むように膨れ上がり、柱がびりびりと震えた。雷鳴に似た低い音とともに、腕へ静電気のような痛みが走る。
「偏っております!」
シルヴァンの声が、初めて短くなった。
「金色の側へ魔力が寄っている。このままでは接続がほどけきらず、片方へ巻き戻ります!」
「どうすればいい!」
陣の外でジョルジュが叫ぶ。足元には手帳が落ちているのに、拾おうともしない。
「申請者が流れを整えるしかありません。わたくしにも、殿下にも、代わりはできません」
屋根の上で、クロが一声鳴いた。
「お前が直せ。誰にも代われん」
ナナリーは、つないだ手を見つめる。光が暴れるたびに手首まで痺れが走り、渦を巻く金色の流れが、自分のほうへ集まってきていた。
失敗したら、もう二度と戻れないのだろうか。不安がよぎる間にも、目は光の動きを追っている。魔力の流れを見ることだけは、昔から得意だ。教本の説明が分からなくても、線の中を魔力がどちらへ流れているかは見分けられる。
渦ができているのは、一か所だけだった。光が三重の輪を描き、同じところを巡っている。ほかはまっすぐ流れているのに、そこだけが、捏ねすぎたパン生地のように固くねじれていた。
その中心には、二人のつないだ手がある。
自分の指へ目を落とし、ナナリーは息を呑んだ。王子の大きな手で、シノンの小さな手を、骨がきしみそうなほど強く握っている。光が暴れ出した瞬間、とっさに力を込め、そのまま離せずにいたのだ。
離れたくない。その気持ちが手を通して術へ流れ込み、魔力を自分の側へ引き寄せている。四つの条件は外したのに、今度はナナリー自身が、つながりを引き留めようとしていた。
ゆっくりと息を吐き、握りしめた指を見つめる。帳面に書いた手放すための言葉は、今も覚えている。けれど、怖さに押されて、その言葉とは反対のことをしているのだ。
手を離す必要はない。握り方を変えればいい。
彼は今、自分の意思でここにいてくれる。離れないように縛りつけなくても、こうして手を重ねてくれている。そのことを確かめるように、ナナリーは指の力を少しずつ緩めた。
引き寄せず、ただ支える。つないだ手の温かさは変わらないのに、渦を巻く光が、少しずつ速さを失っていく。
やがて、固くねじれていた金色の光がするりとほどけ、うぐいす色の光と並んで流れ始めた。二筋の光はもう絡み合わず、それぞれの行き先へ向かって、まっすぐに伸びていく。
『ナナリー』
頭の中で、シノンの声がする。
『大丈夫です』
今度は、自分でもそう思えた。彼の手を包んだまま、ナナリーは最後の一行を唱える。
視界いっぱいに白い光が広がり、東屋の柱も、彼の顔も、何も見えなくなった。
*
最初に感じたのは、重さだった。
ドレスの裾が脚にまとわりつき、コルセットが肋骨を締めつけている。首には、結い上げた髪の重みもある。足元へ目を落とすと、小さなつま先が、ヒールの靴の中に窮屈そうに収まっていた。
視線が低い。床も卓も、見慣れた距離にある。
ゆっくりと顔を上げると、金髪の青年が、青い瞳を見開いてこちらを見下ろしていた。月明かりを背にしたその顔は、鏡の中で何度も見てきたはずなのに、こうして久しぶりに向かい合うと、遠く、高く、眩しい。
手は、まだつながっている。
今度は大きな手が、自分の小さな手を包んでいた。練習の時、ほんの一瞬だけ感じた温かさが、今もそこにある。指を動かしても、瞬きをしても、その感触は消えない。
「戻った」
シノンが呟く。低く、少しかすれた声だ。念話ではなく、目の前の彼の口から聞こえてくる。
「戻りましたね」
ナナリーが答えると、高く、少し上ずった自分の声が出た。その響きまで懐かしくて、もう一度何か言ってみたくなる。
ところが、言葉より先に、お腹が鳴った。
ぐう、という音が静かな東屋によく響き、ナナリーは彼を見上げたまま固まる。何も今この瞬間に、帰ってきたことを主張しなくてもいいのに。身体との再会を喜ぶ間もなく、胃袋から苦情が届いてしまった。
昼にパンを五つ食べたのは、王子の胃袋だ。この小さな胃袋のほうが今日何を食べたかは、シノンに聞くしかない。
「殿下、今日のお昼、何を召し上がりました?」
「スープを半分」
「半分?」
「コルセットが苦しかったから」
ナナリーは、お腹のあたりに戻ってきた締めつけを意識する。苦しいのは、よく分かる。けれど、せめてパンの一つくらいは入れておいてほしかった。
陣の外で、ジョルジュがしゃがみ込んだ。手帳を拾うためかと思えば、そのまま膝に顔を伏せ、肩を震わせている。笑っているのか泣いているのか、ここからではよく分からない。
シルヴァンは陣の線を確かめ、満足そうに頷いた。屋根の上のクロも、羽を小さく揺らす。ナナリーには、ふん、と笑われたように見えた。
シノンが手を握り直す。
「ナナリー。さっきの続きを」
その声に、ナナリーは彼へ視線を戻した。大広間で約束したとおり、二人は今、それぞれの身体で手をつないでいる。ここからは、自分の顔で彼を見て、自分の声で答えられるのだ。
その時、生垣の向こうから、地響きのような声が届いた。
「シノン! シノンはどこだ! 発表の途中であるぞ!」
国王の声に続いて、いくつもの足音が近づいてくる。庭の小道に灯りが揺れ、重いマントが葉を擦る音まで聞こえる。
シノンは空を仰ぎ、長く息を吐いた。
「続きは、すぐに言う」
握った手に、もう一度力がこもる。今度は、引き留めるために強く掴まれたのではない。ナナリーもそっと握り返すと、彼は目を合わせて頷いた。
「その前に、父上を止めてくる」
ナナリーは手を緩める。術を解く時より、ずっと自然に指がほどけた。離れても、彼は続きを話しに戻ってきてくれる。その約束を、今は信じて待つことができる。
ただ、庭に響き渡る国王の声を聞く限り、話の続きを待っている人は、どうやらほかにもいるらしかった。




