77 婚、の続きが気になります
ナナリーは、背中に添えた手で次の回転を導いた。
『最初は、私の評判を勝手に作り替えないでって思っていたんです。姿勢もいいし、返事も完璧だし。お父様とお母様まで嬉しそうで、戻ったあと、私がどれだけ頑張ればいいのよって』
『すまない。それは、戻ってからも手伝う』
『そこは、お願いします』
ナナリーは頷き、彼の動きに合わせて掌をわずかにずらした。その下には、自分がよく知っているはずの身体がある。けれど、その小ささも、回転に合わせて動く肩も、今は彼のものとして覚えていた。
『でも、今は少し寂しいです。殿下をこうして見下ろすのも、今日までなんだなって』
『見下ろせなくなるのが、残念なのか?』
『それもあります。元に戻ったら、また殿下のお顔を見上げることになるので。今より、少し遠くなりますから』
冗談めかしたつもりだったのに、最後の言葉には本当の寂しさがにじんだ。シノンがこちらを見上げ、つないだ手に力を込めた。
『君の身体には、ずいぶん世話になった』
『階段では息が切れるし、あまり食べられないし、靴も痛かったでしょう?』
『ああ。髪の支度にも時間がかかるし、コルセットも苦しい。だが、君の家で、この手を母君に握ってもらったことは忘れない』
彼の視線が一度、二人の手へ下りた。
『今まで知らなかったことを、たくさん知った。元に戻りたいのは変わらないが、この身体で過ごした時間を、早く終わってしまえとは思えなくなっている』
胸がじんわりと熱くなった。慣れない王子の生活に自分が疲れていた間、彼もまた、ナナリーとしての日々を過ごしていた。階段での息苦しさも、母の手の温かさも、ナナリーの身体を通して知ってくれた。
王子として接していた頃には、きっと話す機会さえなかったことばかりだ。けれど今のシノンは、ナナリーがどんな毎日を送り、どんな人たちに囲まれて育ってきたのかを知っている。自分の大切なものを、彼も大切に思ってくれているのだと感じられて、それが嬉しかった。
『私もです。殿下のお身体を返したくないわけじゃないんですけど』
『胃袋は惜しいんだろう』
『とても』
即答すると、彼の口元が緩んだ。ナナリーも笑い、それからつないだ手へ目を落とした。
『でも、一番名残惜しいのは、この変な気分かもしれません。自分の手なのに、殿下の手なんだって、触れるたびに思うんです。それにも、すっかり慣れてしまったから』
『俺も、君が俺の顔で笑うのを見慣れた』
シノンはゆっくりと言葉を続けた。
『自分があんなふうに笑っているところは、見たことがなかった。戻ったあと、鏡を見て物足りなくなるかもしれない』
『私の笑い方、真似してくださってもいいですよ』
『鏡の前で練習するのか』
『私だって、殿下の笑い方を練習しようと思っていましたから』
彼が小さく肩を揺らした。その動きが右手へ伝わってきて、ナナリーはもう少しこのまま踊っていたくなった。
けれど、楽団の旋律は終わりへ向かっている。何度も練習した曲だから、残りがどれほど短いか分かってしまう。
『ちゃんと、お返ししますね』
ナナリーは彼の目を見た。
『殿下のお身体も、生活も』
『俺も、君に返す』
返事とともに、彼が手を握り直してくれた。
『そのあとで、もう一度、手を取ろう。今度は、互いに自分の身体で』
練習の時、ほんの一瞬だけ戻った自分の小さな指先を、大きな手が包んだ感覚が蘇った。この身体で過ごした時間を惜しみながら、戻ったあとのことを楽しみにしてもいいのだ。
『はい。今度は、殿下がリードしてください』
『任せてくれ』
最後の回転に入った。ナナリーは彼の背に添えた手の位置を確かめ、練習どおりに導いた。若草色のドレスの裾が大きく開き、光を受けて揺れる。最後の音が高い天井へ伸びていき、二人は向かい合って止まった。
一拍の静寂のあと、広間が拍手に包まれた。
ナナリーはようやく息を吐いた。一度も足を踏まずに、最後まで踊り切った。足の裏がじんと熱く、背中には汗が滲んでいる。シノンの胸元も小さく上下していた。よく知っている身体だから、一曲踊り終えたあとの息苦しさまで、手に取るように想像できた。
その時、拍手をひときわ大きな声が貫いた。
「やはり、ドラクロワ嬢か!」
国王が玉座から半ば立ち上がり、杯を高く掲げていた。客たちの視線が一斉に玉座へ向かい、それから再び、二人のほうへ戻ってくる。
「私の目に狂いはなかった! 食卓でグリンピースを食べた、あの日から分かっておったのだ!」
王妃が扇子の陰で、そっと国王の袖を引いた。けれど国王は気づく様子もなく、得意げに胸を張っている。
ナナリーは、あの夜、自分がグリンピースを何粒食べたのか思い出しかけて、やめた。
『グリンピースを食べたことが、よほど嬉しかったみたいですね。これから毎日食卓に出されたら、どうしましょう』
『考えたくない』
シノンの指に、わずかに力がこもった。ようやく元の身体に戻れたというのに、これからは苦手なグリンピースを毎日食べることになるかもしれない。せっかくの喜びにそんな心配まで加わったのだから、シノンが顔を引きつらせるのも無理はなかった。
国王は杯を置き、玉座の前へ進み出た。拍手が収まり、広間が再び静まり返る。
「皆の者、聞くがよい。今宵、私から大事な発表が」
ナナリーは窓の外を見た。月が、先ほどより高い位置へ移っている。儀式は、月が最も高くなる前に始めなければならない。東屋では、ジョルジュとシルヴァンが待っているはずだった。
『殿下』
『ああ。父上の話は長い。今抜けないと、間に合わない』
けれど、大勢の目が二人を見ている。国王の発表の最中に主役が姿を消せば、それこそ大騒ぎになる。しかも、その大事な発表が何なのか、聞きたくないようでいて、聞かずに去るのも怖かった。
ナナリーが困り果てて思わず唇を噛んだとき、広間の反対側でがしゃんと派手な音がした。
振り向くとジェニーが、倒れた果実水の杯の前に立っていた。赤い果実水がテーブルクロスを染め、縁から床へと流れ落ちていく。その隣でギュスターが、驚くほど抑揚のない声を上げた。
「大変だ。ジェニー嬢のドレスが」
ジェニーのドレスには、果実水が一滴もかかっていなかった。
それでも近くの客が慌てて場所を空け、使用人たちが駆け寄った。ざわめきが一斉にそちらへ移り、国王の言葉も途切れる。ジェニーがナナリーを見て、一瞬だけ片目を閉じた。
ナナリーはようやく二人の意図を理解した。演技のほうはともかく、助け舟としては十分すぎるほどだった。
『行くぞ』
シノンが手を引いた。小さな手に導かれ、ナナリーは人々の視線が外れた隙に、庭へ続く扉へ向かった。長い脚で先へ出てしまわないよう、彼の歩幅に合わせて歩く。
背後では、国王の声が再び響き始めていた。
「ええい、静まれ! 我が息子シノンと、ドラクロワ伯爵家の娘、ナナリーの、婚――」
扉が閉まり、その続きは聞こえなくなった。
ナナリーは冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。見上げれば、事故の夜と同じ月が白く冴え冴えと輝いている。庭の奥の東屋には、小さな灯りが一つ揺れていた。
手はまだつながっている。先ほど約束したとおり、もう一度、それぞれの身体でこの手を取るために、今から術を終わらせるのだ。
ナナリーは東屋へ向き直った。ただ、閉じた扉の向こうで、国王が「婚」の続きをどう言い終えたのかだけは、気になって仕方がなかった。




