76 最初の一曲は、決まっています
建国祭の夜、王城の大広間は、昼間とはまるで別の場所になっていた。
シャンデリアの腕は、相変わらず二十四本だった。けれど今夜は、すべての魔石灯が同じ白金色に輝いている。手前の三本も、いつの間にか交換されたらしい。黄色い灯りがなくなったことに真っ先に気づいたのは、たぶんナナリーだけだろう。誰かに報告したい気もしたが、今夜の王子には、灯りの交換より大切なことがあった。
磨き上げられた床には、色とりどりのドレスの裾が花びらのように広がり、楽団の調弦の音が、ざわめきの合間を縫って流れている。窓の外には、事故の夜と同じ形の月が昇っていた。ナナリーはもう何度目か分からないほど月を確かめ、上着の襟へ指をかけた。
王子の正装は、肩章と飾り紐が多すぎる。身体は大きいのに、今夜は息が浅かった。心臓も、王子らしい落ち着きとは無縁の速さで鳴っている。
昼に食べたパンは五つ。この胃袋とも今日でお別れだと思うと、もう少し食べておきたかったのだが、最後は喉が受けつけなかった。別れを惜しむのにも、緊張は邪魔をするものらしい。
「殿下、お顔が硬うございます」
背後で、エルネットが小声で声をかけてきた。
「笑えていない?」
「笑っておられます。ただ、その笑顔のまま、三回ほど襟を引っ張っておられます」
四回目に伸びかけた手を、ナナリーは慌てて下ろした。
玉座の脇では、国王が上機嫌で杯を掲げていた。隣の王妃は、扇子で口元を隠している。目が合うと、ほんのわずかに片目を閉じてくれた。秘密を知る味方の合図のはずなのに、ナナリーには、面白い芝居の幕開けを待つ観客の顔にも見えた。
広間を見渡すと、令嬢たちの視線がまっすぐこちらへ集まっていた。王子が最初に誰へ手を差し出すのか、皆が待っている。ルルーナは友人たちと身を寄せ合い、すでに何かを囁き合っていた。
ドラクロワ家の両親の姿も見えた。母は扇子を握りしめて前のめりになり、父がその袖を控えめに引いている。父のもう片方の手には、早くもハンカチが用意されていた。
そして、壁際にはシノンがいた。
淡い若草色のドレスを着て、うぐいす色の髪を結い上げている。そこは、ナナリーが夜会のたびに立っていた、柱と窓の間の場所だった。人目を避けながら、灯りを数えるのにちょうどいい一角だ。
同じ顔で同じ場所に立っているのに、受ける印象はまるで違った。自分なら壁に溶け込むように身を潜めていたはずなのに、彼は背筋を伸ばし、まっすぐに顔を上げている。壁の花というより、そこへ一輪だけ丁寧に生けられた花のようだった。
楽団の指揮者がこちらを見て頷いた。開幕の時間だ。
ナナリーは広間の中央へ踏み出した。ざわめきが、波が引くように静まっていく。磨かれた床に、一歩ずつ靴音が響いた。並んで待つ令嬢たちの前を通り過ぎると、その顔に次々と驚きが浮かぶのが、視界の端に映った。
壁際まで歩き、シノンの前で足を止めると、彼がこちらを見上げた。結い上げた髪のせいか、首筋がいつもより細く見える。ドレスの脇に添えた手には、かすかに力が入っていた。緊張しているのは、自分だけではないのかもしれない。
ナナリーは、昼間の練習で何度も確かめた角度で手を差し出した。
「一曲、お相手願えますか」
低い声が、思っていたよりも広間によく響いた。
シノンは一瞬だけ目を伏せ、それから、そっと手を重ねてくれた。
「喜んで」
触れた途端、頭の中に声が届いた。
『足は踏むなよ』
『最初の一言が、それですか』
『大事なことだ』
『殿下こそ、ヒールの踵で踏まないでくださいね』
いつもの調子に、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。広間のどこかで誰かが息を呑み、続いてさざ波のような囁きが広がっていく。ドラクロワ嬢、という名前があちこちから聞こえた。母が扇子を取り落とし、父がハンカチを目元へ運んだのも見えたが、今はそちらを見続けている余裕はなかった。
二人で広間の中央へ進むと、楽団が最初の音を奏でた。
ナナリーは心の中で数え始めた。一、二、三。一で前、二で横、三で揃える。
王子の長い脚が、練習した歩幅どおりに床を踏んだ。シノンがそれに合わせて下がり、二人の足のあいだには、ちゃんと靴一足分の余裕が残った。
『一、二、三』
『声に出ていないな。上出来だ』
『今日は口を閉じて数えています。顎が疲れそうです』
シノンの口元がわずかに緩んだ。
二人は、ゆっくりと円を描き始めた。回るたび、シャンデリアの光が彼の髪とドレスの上を流れていく。ナナリーは、もうシャンデリアの腕を数えなかった。数えるのは拍子だけで、見つめるのは、すぐそこにある金色の瞳だけでよかった。
客たちは二人のために場所を空け、誰も踊りに加わろうとしない。開幕の一曲は、王子とその相手だけのものだからだ。輪の外へ目を向ければ、こちらを見つめる顔がいくつも並んでいた。
それでも、不思議と足は止まらなかった。視線が怖くないわけではない。ただ、握った手は温かく、間違えそうになれば、彼がすぐに教えてくれる。そのことを知っているだけで、次の一歩が自然に出た。
『ナナリー』
『はい』
『上手くなったな』
『殿下の足を十一回踏んだ成果です』
『十二回だ』
『数えていたんですか』
『君の癖が移った』
吹き出しそうになり、ナナリーは慌てて口元を引き締めた。けれど、彼の目まで笑っているのを見ると、笑みを隠しきれなかった。
この顔で笑うシノンを、もう何度見ただろう。初めは、自分の顔なのに自分とは違うと戸惑うばかりだった。今はその笑い方を見れば、彼が楽しんでいるのだと分かる。いつの間にか、自分の顔を見ているというより、シノンの笑顔を見ているつもりになっていた。
『この顔で笑う殿下も、今日で見納めなんですね』
そう伝えると、彼の笑みが少しだけ静かになった。
『そうだな』
曲は、まだ半分も進んでいなかった。それなのに、残りの拍子を数えるのが、急に惜しくなった。




