75 お誘いは、受けて立ちます
腕の中のシノンを見下ろすと、昨日までぼんやり考えていたことが、急に現実の重さを伴って迫ってきた。
王子が最初に誰と踊るかは、ただ一曲の相手を選ぶだけの話ではない。まして今年は、シノンがいよいよ婚約者を決めると期待されている。
今さら、ただの学友ですと言っても通らないだろう。そもそも以前は、学友と呼べるほど親しく話したことさえなかった。それが今では、ルルーナが広めてくれたおかげで、学院中から特別な関係だと思われている。
『殿下、本当に私でいいんですか?』
尋ねると、シノンが少し眉を寄せた。
『君こそ、俺と踊っていいのか?』
『え?』
『俺は王子だ。君が思っている以上に、周りは騒ぐぞ』
『それは、もちろん分かっていますけど』
『今までのように、気軽に出かけたり、二人で話したりするのも難しくなるかもしれない。それでもいいのか?』
ナナリーは返事に詰まった。
その場で婚約が決まるわけではない。けれど、王子の最初の相手に選ばれれば、伯爵家にも問い合わせが殺到するだろう。母は喜んだ勢いのまま結婚式の準備を始めるかもしれないし、父はハンカチを握りしめ、ジョルジュは胃薬を探して屋敷中を歩き回ることになる。
家族の反応を想像しただけでも、気が遠くなった。
それに、もし本当にシノンの隣に立つことになったら、自分はどうなるのだろう。王妃の行儀見習いという肩書きはあっても、未来の妃としての勉強などしていない。学院の成績だって、ようやく上向かせようと努力を始めたところだった。
『怖いです』
正直に伝えると、シノンはわずかに目を細めた。
『ああ』
『きっと、いろいろ言われますよね。私なんかが、どうして殿下とって』
『そんな言葉のために、君が自分で選ぶのをやめる必要はない』
『でも、気にはなります』
『そうだな。だから、君が嫌なら、無理に踊らなくていい。俺の立場のために引き受けることはないんだ』
ナナリーは、彼を見つめた。
当日も君がリードすることになる、と言ったけれど、彼はそれを当然の役目として押しつけるつもりではないらしい。噴水の前でナナリーが訴えたことを、今、こうして確かめてくれている。
つないだ手へ目を落とすと、大きな手が小さな手を包んでいた。どちらが自分の手かということよりも、いま誰と手をつないでいるかのほうがずっと大切に思えた。
もし、この誘いを断ったらどうなるのだろう。
元に戻ったシノンが、別の令嬢へ手を差し出す。その人は嬉しそうに微笑み、彼と広間の中央へ進んでいく。ナナリーはいつものように、壁際の魔石灯を数えながらそれを見ている。
その光景を思い浮かべた途端、胸がきゅっと縮んだ。
怖いことは、たくさんある。王子の婚約者にふさわしいという自信もない。けれど、それを理由に、彼の隣をほかの誰かへ譲りたいわけではなかった。
ナナリーは、つないだ手に少し力を込めた。
『私、まだ覚悟なんてできていません』
『ああ』
『殿下と踊ったあと、どうなるのかも、全部は分かっていないです』
『そうだろうな』
ナナリーは足の拍子を確かめ、それから彼の目を見た。
『でも、殿下がほかの方と踊るのは嫌です』
言葉にした途端、頬が熱くなった。自分にはまだ覚悟がないのに、彼が別の相手を選ぶのは嫌だなんて、都合がよすぎるだろうか。
シノンは少し目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
『それなら、俺も同じだ』
『同じ?』
『君がほかの男と踊るのは、嫌だ』
ナナリーの足が、また一拍遅れた。今度はシノンも避けきれず、二人の靴先がこつんとぶつかる。
「殿下!」
マダム・ロシェの声が飛んだ。
「せっかく調子がよくなってまいりましたのに、また足元がお留守でございます!」
「申し訳ありません!」
ナナリーは慌てて姿勢を正した。シノンも口元を引き結んでいたが、頬が赤く染まっている。動揺しているのが自分だけではないと分かると、少し嬉しくて、ますます足元が危なくなりそうだった。
『それで、君の返事は?』
静かな声が、頭の中へ届いた。ナナリーは深く息を吸い、今度は拍子を崩さないようにしながら答えた。
建国祭までに、何もかもを引き受ける覚悟ができるかどうかは分からない。けれど、最初の一曲を誰と踊りたいかは、もう決まっていた。
『お誘いは、受けて立ちます』
シノンの手を握り直し、その目をまっすぐに見つめる。
『建国祭の最初の一曲は、私と踊ってください』
『喜んで』
返事は、驚くほど早かった。胸の奥が温かくなり、ナナリーは自然と笑みをこぼした。
『今日たくさん踏んだので、当日はもう踏みません』
『期待している』
『殿下も、ヒールで踏まないでくださいね』
『努力する』
彼の口元が緩んだ。ナナリーもつられて笑いかけ、その時、広間の奥に並ぶ柱の一本に目が留まった。
何かが、柱の陰からはみ出している。
一周しながら確かめると、それは深紅のマントの裾だった。金の刺繍が入り、床へ長く伸びている。さらに半周したところで、柱の向こうから王冠の端まで覗いた。
『殿下』
『見えている。父上だ』
『隠れているつもりなんでしょうか』
『本人は、そのつもりだろうな』
国王は柱に身を寄せ、こちらを窺っていた。両手を胸の前で握り、口元をすっかりほころばせている。二人が踏み合っていた間も、ずっとそこにいたのだろうか。一体どこから見られていたのか、確かめるのが怖かった。
その時、国王がくしゃみをした。
その音は、高い天井に驚くほどよく響いた。ナナリーの足が止まり、マダム・ロシェが扇子を取り落とす。壁際のエルネットの眉が、今日三度目に上がった。演奏の魔道具だけが何事もなかったように曲を奏で続け、かえって気まずさを増している。
国王は、観念したように柱の陰から出てきた。マントを翻し、威厳を取り戻そうとするように咳払いをする。けれど、緩んだ口元までは引き締められなかったらしい。
「続けよ。私は、通りかかっただけである」
「父上、ここは通り道ではありません」
ナナリーが言うと、国王は聞こえなかったふりをして、満足そうに何度も頷いた。
「実に初々しい。足を踏み合うのも、互いを知るための一歩というものだ。私も若い頃、王妃の足を三度踏んだ」
三度で済んだのなら、自分たちよりよほど上手だったのだろう。ナナリーがそんなことを考えている間に、国王はシノンのほうへにこやかに向き直った。
「ドラクロワ嬢。舞踏会の夜を、楽しみにしておるぞ。開幕の一曲が終わったら、私から皆に大事な発表をするつもりだからな」
つないでいたシノンの手が、ぴたりと動かなくなった。
『殿下。大事な発表って』
『嫌な予感しかしない』
国王は二人の様子など気に留めず、マントの裾を引きずりながら、上機嫌で舞踏室を出ていった。扉が閉まる音が響くと、マダム・ロシェが拾った扇子を握り直す。エルネットは閉じた扉をしばらく見つめ、それから二人へと視線を戻した。
ナナリーは、シャンデリアを見上げた。腕は二十四本で、黄色い魔石灯は三つ。何度数えても変わらないのに、当日の予定には知らない発表が一つ増えていた。
最初の一曲が終わったら、二人は人目を盗んで東屋へ向かうはずなのだ。その前に、広間中の注目を浴びることになったら一体どうすればいいのだろう。
ナナリーは、まだ握ったままのシノンの手へ目を戻した。足を踏まずに踊れるようになるだけでは、舞踏会の夜を無事に乗り切れそうになかった。




