74 足を踏むのも、練習のうち
午後の舞踏室は、がらんとしていた。
磨き上げられた床が鏡のように光り、高い天井から下がるシャンデリアは、日差しを受けて小さな虹を散らしている。舞踏会の夜には何百人もの客で埋まる広間に、今いるのはナナリーとシノン、エルネット、それに舞踏教師のマダム・ロシェだけだった。
壁際に据えられた演奏用の魔道具が、出番を待つように、かすかな唸りを立てている。
ナナリーは、つい天井を数えてしまった。シャンデリアの腕は二十四本。そのうち、手前の三本だけ、魔石灯の色がわずかに黄色い。交換の時期が違ったのだろうか。
「殿下、天井ではなく、お相手をご覧くださいませ」
マダム・ロシェの声が、広間に高く響いた。背筋に鉄の棒でも入っているのかと思うほど姿勢のよい婦人で、扇子の先で手のひらを叩くたび、ぱしっと乾いた音がする。
ナナリーは慌てて視線を下ろした。その先には、自分の顔があった。
練習用の靴を履いたシノンは、すでに不機嫌そうだった。低めのヒールを選んでもらったはずなのに、しきりに足元を確かめては、重心を置き直している。履き慣れない靴で一曲踊ったあとの痛みには、覚えがあった。彼の代わりに足を揉んであげたくなったが、その前に、今日は自分が踏まないようにしなければならない。
「では、基本の姿勢から。殿下は右手をお相手の背へ、左手でお相手の右手を」
言われたとおりに手を伸ばした。大きな手のひらを背中へ添えると、衣服越しに、肩甲骨の小さな動きが伝わってくる。シノンの右手が、ナナリーの左手にそっと重なった。
触れた瞬間、頭の中に声が響いた。
『落ち着け。まず、右足から下がるのは俺の方だ。君は左足を前へ出す』
念話だった。触れている間なら、教師に聞かれずに相談できる。踊っている間はずっと手を取り合っているのだから、今の二人にはありがたい仕組みだった。
『左ですね。私の左』
『そうだ。君の左だ。俺の左ではない』
『了解です』
けれど、演奏が始まった途端、ナナリーは右足を後ろへ引いてしまった。何年も令嬢として習ってきた動きが、考えるより先に出たのだ。
ところが、シノンは迷わず左足を前へ出した。
ナナリーが下がれば、彼が進む。次の拍子で身体の向きが変わり、二人は音楽に合わせて、滑らかに動き始めた。
あれ、踊れている。
視界はいつもより高く、相手は自分より小さい。それなのに、足の運びには少しの迷いもなかった。背中に添えた手の位置こそ慣れないが、シノンの動きについていけば、次の一歩が自然に出てくる。
彼もすっかり調子を取り戻したらしく、軽やかにナナリーを導いていた。このままなら、一曲くらい踊り切れそうだ。半周ほど進み、ナナリーの口元が緩んだところで、ぱしっと乾いた音が響いた。
「お待ちくださいませ!」
マダム・ロシェが扇子を閉じた。二人が止まると、教師はナナリーの足元へ目を向ける。
「殿下。なぜ、女性側のステップを踏んでいらっしゃるのですか?」
「え?」
ナナリーは自分の靴を見下ろした。確かに、下がったのは自分だった。しかもその後も、シノンに導かれるまま、すっかり女性側の動きを続けていたのだ。
「そして、ナナリー様。どうして殿下をお導きになっているのでしょう?」
シノンも、足元へ目を落とした。
『しまった』
『殿下、普通に踊れていましたよね』
『ああ。君がいつもどおり動くから、つい』
『私だって、殿下がいつもどおり踊るから、つい』
ナナリーは彼を見た。シノンも、こちらを見上げている。身体は入れ替わっているのに、踊り方だけは以前のままだった。しかも相手がそれに合わせてくれたせいで、間違いに気づく暇もなかったのだ。
「お二人とも、たいへん息の合った踊りでございました」
マダム・ロシェは一度言葉を切り、扇子の先をナナリーへ向けた。
「ですが、殿下がお導きいただくわけにはまいりません。もう一度、正しい役割でお願いいたします」
褒められたのか叱られたのか、判断に困った。自然に踊れたところを、わざわざ直さなければならないのだ。先ほどより、ずっと難しく感じる。
シノンが口を引き結んだ。つないだ手の握り方が変わり、ナナリーも慌てて姿勢を整えた。
「もう一度、最初から」
二度目は、間違えずに左足を前へ出した。
ただし、歩幅までは考えていなかった。いつものつもりで踏み出した一歩が、王子の長い脚のせいで、予想以上に大きくなる。シノンが右足を引き終えるより先に、ナナリーのつま先が、彼の足の甲へ乗った。
シノンの顔が歪んだ。声が出なかったことが、かえって痛さを物語っていた。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
『大丈夫ではない。君の足は、俺の足の三倍は重いんだぞ』
『三倍は言いすぎです。それに、元はといえば殿下の足だし』
言い返してから、踏んだのは自分だと気づき、ナナリーはそっと足を引いた。身体の持ち主へ責任を押しつけるには、目の前の顔があまりにも痛そうだった。
三度目は、慎重に歩幅を合わせたおかげで、どうにか数歩進めた。
ところが、今度はシノンが間違えた。ナナリーが横へ開いた足を揃えるより先に、彼のヒールが、その上へ下りてきたのだ。
「んぐっ!」
悲鳴を飲み込み、どうにか咳払いに変えた。細いかかとへ体重が集まる分、痛む場所がはっきりしすぎている。ナナリーは背筋を伸ばしたまま、靴の中で指を縮めた。
『すまん。君の靴は、凶器にもなるらしい』
『殿下が今履いているのは、一番足に優しいものです』
『踏まれる方には、優しくないな』
マダム・ロシェが、とうとう扇子を額へ当てた。
「相手の足を踏むのも、練習のうちでございます。ですが、これほど交互に踏み合う方々は、わたくしも初めて拝見いたしました」
壁際で、エルネットの眉がぴくりと上がった。今朝に続き、また眉を上げさせてしまった。ナナリーは視線を合わせないようにしながら、次こそは床だけを踏もうと心に決めた。
*
五回目の挑戦で、ナナリーは一つ気づいた。
左右を頭で考え続けると、かえって足が迷う。けれど、一、二、三と拍を数えていると、教わった順番どおりに足が出るのだ。魔石灯を数えるのと同じように、余計なことを挟まずに数えれば、長い脚も意外と素直に動いてくれた。
『その調子だ。一で前、二で横、三で揃える』
「一、二、三。一、二、三」
『声に出ているぞ』
出ていた。マダム・ロシェはこちらを見ていたが、止めはしなかった。数える声よりも、踏み合わずに進むことのほうを優先してくれたらしい。
ナナリーは、そのまま数え続けた。
広間の端から端へ、ぎこちない円を描く。シノンのドレスの裾が床を撫で、回るたびにふわりと広がった。シャンデリアの小さな虹が、くるりと回るたびに二人の肩の上を滑っていく。
少しずつ足を踏む回数が減り、床の上を動くことにも慣れてきた。すると今度は、別のことが気になり始めた。
近いのだ。
ずっと手を取り合い、背中に触れている。視線を下ろせば、シノンが真剣な目でこちらを見上げていた。念話の声は耳を通らず、頭の内側へ直接届く。足元に集中していた間は気にならなかったのに、少し余裕ができた途端、声にも手の温かさにも、落ち着かなくなった。
『ナナリー』
『はい』
『当日も、君がリードすることになる』
足が一拍遅れた。
そうだった。舞踏会の夜、二人は入れ替わったまま開幕の一曲を踊り、そのあとで会場を抜け出して、東屋へ向かう。元に戻るのはそのあとだ。大勢の客が見つめる中で、王子として手を差し出すのは、ナナリーのほうなのだ。
そして、王子が最初の一曲を誰と踊るのかを、王都中が見ている前で。




