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73 私の願いは、私が決めます

 王城の書斎に戻ったのは、夜の鐘が鳴り終わった頃だった。


 机には、召喚書の原本が広げられている。古い革の表紙は角がすり減り、黄ばんだページには、何度もめくられた跡が残っていた。最後の数ページは、根元から引きちぎられたように失われている。そこにあったはずの終了の術式を、ナナリーは帳面の上で組み直している最中だった。


 魔石灯の下で帳面を開くと、半分まで書いた術式が目に入った。正確に言えば、目に入ったのは、その先で三度も書き直した跡だった。紙の表面はそこだけ毛羽立ち、何度見ても、ほかの部分より白っぽく見える。


 消した回数に応じて賢くなれるなら、今頃は四つ目の条件の式も書き上がっているはずなのに。


「始める前に、何か食べておけ」


 向かいの椅子で、シノンが言った。馬車で眠ったおかげか、帰り道よりは顔色がよくなっている。それでも、膝掛けにくるまった姿はいかにも眠そうで、試験前夜に勉強を諦めかけている、いつもの自分を見ているような気分になった。


「こんな時間ですけど、パンを四つ食べる覚悟はできています」


「頼むから、帳面にパン屑を落とすな」


 エルネットが運んでくれた夜食の籠から、ナナリーは一つ目のパンを取った。王子の胃袋は、今夜も頼もしい。頭も同じくらい頼もしくなってくれればよかったのだが、魔力の量は身体についてきても、知識まではついてこない。伝説の魔術師ヤン・ミュラーの術式を理解するのは、学院の成績を下から数えたほうが早い、ナナリー自身の頭なのだ。


 しかも、申請を取り消せるのは、申請者本人だけだった。シノンは古代語の読み方や術式の仕組みを教えてくれる。けれど、取り消しに込める意思まで、彼に考えてもらうわけにはいかない。だからナナリーは、一行ずつ自分で確かめ、納得した言葉だけを書き進めていた。


「どこで止まっている?」


「ここです」


 ナナリーは、四つの小さな円が並んだ部分を指した。申請の時に願った、使い魔の条件だ。もっとも、シルヴァンの話を聞いた今となっては、ヤンが生涯の伴侶を探すために書いた条件だったと知っている。


 頼りになり、近くにいて、補助してくれて、できれば見た目がいい。


 古い形式の召喚術では、その一つ一つが鎖の輪のように相手へ結びつく。取り消すには、その輪を一つずつ外さなければならない。


「三つまでは、外す式が書けたんです。でも四つ目だけ、何度書いても魔力の流れが戻ってくるの」


 シノンが身を寄せ、帳面を覗き込んだ。四つ目の円の横には、ナナリーの丸い字で条件が書き写してある。


 見た目がいい。


 彼はその文字をしばらく眺め、それから片眉を上げた。


「これか」


「言わないでください」


「まだ何も言っていないだろう」


「顔が言っています。私の顔なのに、私が絶対にしない顔をしています」


 ナナリーはパンを口へ押し込み、それ以上の会話を封じた。申請を書いた夜には、まさかその条件を読み上げられる日が来るとは思っていなかった。しかも、術が拾い上げた当の本人に、こんなに近くで見られるなんて、想定外すぎる。


 パンがなければ、帳面を閉じて逃げ出していたかもしれない。今は、口の中のものを飲み込むまで、席に留まる理由があった。


 窓の外で、こつ、と硬い音がした。


 留め具を外すと、夜風と一緒にクロが入ってきた。琥珀色の目で机の上を見回し、まっすぐ夜食の籠へ向かう。


「菓子はないのか」


「パンならあるけど」


「パンは菓子ではない」


 文句を言いながらも、クロは籠の縁へ止まり、ちぎって渡したパンをつつき始めた。菓子でなくても、食べるものは食べるらしい。ナナリーが椅子へ戻る頃にはすっかり平らげ、今度は帳面のほうへ首を伸ばしていた。


「四つ目で詰まっているな」


「分かるの?」


「調停官だ。申請書の読み方くらい知っている」


 クロは、四つ目の円を嘴で軽く叩いた。


「お前、この条件を外すつもりで書いていないだろう」


 ナナリーは、ペンを持つ手を止めた。


「いいえ、ぜんぜん、余裕で外すつもりだけど」


「術式は、書いた者の意思を拾う。古い形式なら、なおさらだ。三つは契約から外すと決めた。だが四つ目だけは、手放すことをためらっている。だから流れが戻ってくる」


 ナナリーは、帳面へ目を落とした。半分まで書けた式と、三度の書き直し。その全部を、ためらいの跡だと言われたようだった。


 頼りになることも、近くにいることも、助けてくれることも、契約で縛らなくていい。そう思って書いた。けれど、最後の条件まで外そうとすると、彼と自分をつないでいたものが、本当に何も残らなくなる気がした。


 見た目がいい、という言葉そのものを惜しんでいるわけではない。顔だけを理由に彼の傍にいたいと思っているわけでもなかった。それでも、最後の輪を外すことと、好きだと思う気持ちまで手放すことを、心のどこかで重ねてしまっていた気がする。


「ねえ、クロ。この四つ目を外さないで残したら、どうなるの?」


 シノンが顔を上げた。クロは目を細め、ナナリーを見た。


「残せば、契約は終わらない。元には戻らない。人間同士の一方的な主従契約は成立しないから、行き場のない魔力が、つながりを固め続ける」


「つまり?」


「こいつとの接続は、残り続ける。お前が手放さなければな」


 ナナリーは、向かいのシノンを見た。


 彼は何も言わなかった。膝掛けの端を握り、ただこちらを見ている。止める言葉も、急かす言葉もなかった。


 夕方、噴水の前で聞いた声が、耳の奥に蘇った。


 元に戻っても、また会いたい。


 彼がそう言ってくれたことを、ナナリーは馬車の中で何度も思い返していた。それなのに、まだ契約がなくなることを怖がっている。


 ただ、シルヴァンは言っていた。今はそれぞれの魂が、本来とは違う身体へ魔力を流している。そのつながりは時間が経つほど強くなり、少しずつ固定されつつあると。放っておけば、いずれ魂を元の身体へ戻すことさえできなくなるかもしれない。


 だからこそ、迷っている時間はない。絶対に契約を解かなければならないのだ。


 それでも、シノンとのつながりがすべて消えてしまうと思うと、寂しかった。けれど、戻っても会いたいと言ってくれた人を、術でつなぎ留めようとするのは違う。それでは、自分で選びたいと母やアルマンに訴えた言葉を、自分自身が守れなくなってしまう。


「いらない」


 ナナリーは、はっきりと言った。


「離れられなくなるのは、いらない。殿下には自分で選んだ場所にいてほしいもの。私も、自分で選んで殿下のところへ行きたいし」


 口に出すと、胸につかえていたものが少し緩んだ。契約がなくなっても、会いたいと思っていい。クロにそう教わったはずなのに、最後の輪を前にして、また忘れかけていた。


「だから、四つ目も外します。素敵なお顔なら、契約がなくても学院で遠巻きに見られますし」


「そこを強調する必要はあるのか」


 シノンの耳が、赤くなった。


「大事なことなので」


 ナナリーはペンを取り直し、四つ目の円の横へ式を書き始めた。三度書き直した場所に、もう一度線を引く。今度は、終わりへ向かう魔力の流れを、途中で引き戻したくならなかった。


 書き終えると、帳面の上の術式が淡く金色に光った。四つの円から細い光の糸がほどけ、一本にまとまって、最後の行へ流れ込んでいく。欠けたページの続きを、ナナリーの丸い字がつないでいた。


 最後の払いが、いつもの癖でくるりと巻かれ、小さな花の形になった。シノンがそれを見て、思わず吹き出す。


「そこにも咲くのか」


「私の字なので」


 言い返しながらも、ナナリーは紙から目を離せなかった。花をつける余裕があったわけではない。最後まで書き切れたところで、ようやく手がいつもの動きを思い出したのだ。


 クロが、ばさりと羽を広げた。


「術式は完成だ。あとは、事故の夜と同じ月の下で、お前が自分の口で唱えるだけだな」


 ナナリーは、長く息を吐いた。ずっとうまく書けなかった最後の行が、今は確かにそこにある。シノンへ顔を向けると、彼も帳面を見ていた。その目元が緩むのを見て、ナナリーもやっと笑えた。


 窓枠へ戻ったクロは、すぐには飛び立たなかった。夜の庭をしばらく眺め、それから、いつもより小さな声で呟いた。


「契約が終われば、俺の仕事も終わりだ」


 ナナリーは顔を上げた。菓子の催促でも、いつもの悪口でもない一言に、何と返せばいいのか分からなかった。


 言葉を探しているうちに、クロは夜の中へ飛んでいってしまった。開いた窓から冷たい風が入り、帳面の端をめくりかける。ナナリーは慌てて紙を押さえ、黒い翼が消えたほうを見つめた。


 術を終わらせることは、クロとこうして話す時間を終わらせることでもある。そのことは、四つの条件のどこにも書かれていなかった。


 *


 気づけば、窓の外が白み始めていた。


 帳面を抱えたまま机に突っ伏していたナナリーは、扉を叩く音で顔を上げた。頬に何か食い込んでいたらしく、ひりひりする。触ってみると、帳面の綴じ紐の形が、くっきりと残っていた。庭のどこかで、早起きの小鳥が鳴き交わしている。


 向かいでは、シノンが膝掛けにくるまったまま眠っていた。令嬢の身体は夜更かしに向いていないと言いながら、結局、最後まで付き合ってくれたのだ。もう少し寝かせておきたかったが、扉の向こうからエルネットの声がした。


「殿下、失礼いたします」


 湯気の立つ紅茶を盆に載せて、エルネットが入ってきた。帳面と、空になった夜食の籠と、二人の寝起きの顔を順に見て、片眉を上げる。


「陛下からのご伝言でございます」


「父上から?」


 低い声が、少しかすれた。ナナリーは背筋を伸ばし、頬の紐の跡から手を離した。


「本日午後、建国祭の舞踏会に向けて、開幕の一曲の練習をなさるようにと。お相手は、ドラクロワ嬢がよろしかろう、とのことでございます」


 エルネットの眉が、もう少し上がった。


 ナナリーは向かいを見た。シノンも目を覚まし、膝掛けを掴んだまま、こちらを見ている。


 開幕の一曲を踊るのは、王子と、その相手の令嬢だ。そして今、王子の身体にいるのはナナリーで、令嬢の身体にいるのはシノンだった。


「殿下」


「何だ」


「私、男性側の踊り方、習ったことがないんですけど」


「俺も、女性側は自信がない」


 エルネットは、二人を見比べた。上がった眉は、今度こそ元へ戻りそうになかった。


 ようやく難しい術式を書き終えた朝に、今度は、どちらも知らない踊りを二人で練習することになった。舞踏会までは、あと三日。ナナリーは完成した帳面をそっと閉じ、頭の中で数え直した。三日のうちに、術式を唱える練習と、踊りの練習と、エルネットの眉を下ろす方法まで覚えなければならないらしい。

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