72 口にしなければ、分かりません
「俺は、ただ」
三度目に同じ言葉が出たところで、シノンは自分の膝へ目を落とした。
噴水の水が、夕日を受けて細かくきらめいている。バラの生垣の向こうからは、厨房で鍋を洗う音が聞こえてきた。子どもの頃から聞き慣れた、夕方の我が家の音だ。それなのに、ナナリーの心臓は少しも落ち着かず、王子の広い胸の内側で、どくどくと鳴っていた。この身体は、心臓の音まで立派にできているらしい。
「ただ、何ですか」
促すと、シノンは顔を上げた。
「あの男が、君は隣で笑っていればいいと言ったとき、頭に血が上った。君が書斎で何度も言い直した言葉を、照れ隠しで片づけられたのも許せなかった」
「それは、私も腹が立ちました」
「だから、もう何も言わせたくなかった。あの男にも、伯爵夫人にも」
シノンは一度唇を結び、それからナナリーをまっすぐに見た。
「心に決めた方がいる、と言ったのは、俺自身のことだ。君の声で、俺の気持ちを言ってしまった」
噴水の音が、急に遠くなった。
心に決めた人がいるのは、シノンのほうだった。その言葉を口にしたとき、彼は誰を思い浮かべていたのだろう。目の前にある自分の顔は、耳まで真っ赤になっている。
頬の丸みのせいで、熟れた林檎のようだった。自分の顔を外から眺めるだけでも妙な気分なのに、こんな話をしながら赤くなられると、どこを見ればいいのか分からない。それどころか、彼につられてナナリーの顔まで熱くなってきた気がする。
「それって」
「だが、君の声で言えば、君の気持ちになる」
シノンは、もう一度頭を下げた。
「君の縁談を断るために、俺の気持ちを持ち出すべきではなかった。すまない」
勝手に心を決められたわけではなかった。それでも、ナナリーの身体と声で、相談していないことを言ったのには違いない。文句はまだあるはずなのに、今は別のことばかり気になってしまう。
確かめたい。けれど、直接尋ねる勇気は出ず、ナナリーは別の引っかかりを口にした。
「でも、殿下。前に言ってましたよね。元に戻ったら、婚約者の件にけりをつけないといけないって」
「言ったな」
「あれ、誰かを選ぶって意味じゃなかったんですか」
シノンが、きょとんと瞬きをした。
「誰かを、選ぶ?」
「舞踏会で最初に踊った人が婚約者候補になるって聞きましたし、殿下だって、いつまでも相手を決めないわけにはいかないでしょう。だから、戻ったら誰かに決めるんだと思ってました」
あの日の夕食では、パンを二つでやめた。三つ目に手を伸ばす気になれず、ロランが心配そうに手帳へ「殿下、食欲不振」と書き込むのを、ぼんやり眺めていたのだ。
シノンは額に手を当て、深く息を吐いた。
「父上が勧める候補を、全部断るという意味だ。婚約者は自分で選ぶと、はっきり言うつもりだった。そうしないと、戻ったあとも同じことが続くからな」
「全部、断るんですか」
「ああ」
「じゃあ、誰も選ばないと?」
「誰も、とは言っていない」
返事は妙に早かった。けれど、その先は続かず、シノンは噴水の水面へ目を落としてしまった。
ナナリーは彼の横顔を見つめた。心に決めた人がいて、国王の勧める候補は断る。そして、ナナリーがアルマンに軽く扱われたとき、思わずその気持ちを口にしてしまった。
そこまで揃っていても、自分のことだと思うのは、いくら何でも都合がよすぎるだろうか。
期待して、勘違いだったら恥ずかしい。しばらくシノンの顔をまともに見られなくなる。もっとも、今その顔は自分の顔なのだから、鏡を見るたびに思い出すことになりそうで、たいへん困る。
「私、殿下が誰か素敵な人を選ぶんだと思って、ずっと落ち込んでたんですけど」
結局、口から出たのは、この五日間、胸につかえていた不満だった。
「なぜ聞かなかった」
「聞けるわけないじゃないですか! 『どなたを選ぶんですか』なんて、お母様じゃあるまいし」
「聞けば、すぐに答えた」
「聞きたくない答えだったら困るでしょう」
言ってしまってから、ナナリーははっと口を押さえた。聞きたくない答え、という言い方は、それ自体がもう答えのようなものだった。
シノンがゆっくりとこちらを見た。夕日を受けた金色の瞳が、何かを確かめるようにナナリーを見つめている。ナナリーも口を押さえたまま、彼を見返した。もしかしたら、彼も同じように、確かめられずにいたのだろうか。
「口にしなければ、分からないことばかりだな」
「本当に。言葉が何のためにあるのか、今、ものすごく実感しました」
ようやく手を下ろし、噴水の縁にシノンと並んで腰を下ろした。王子の長い脚を持て余すナナリーの隣で、シノンの靴先はかろうじて地面に触れていた。こんなに大きさが違うのに、今は二人とも、同じように顔を赤くして黙り込んでいる。
バラの香りが、夕方の湿った風に乗って流れてくる。しばらくして、シノンが口を開いた。
「元に戻って、行儀見習いが終わって、君が家に帰っても。俺はまた、君に会いたい」
ナナリーは、膝の上で指を握った。
「さっき言いかけたことの続きは、自分の声で言わせてほしい。君の声を借りて言うのは、今日で最後にする」
自分の声で。その言葉に、胸の奥が温かくなった。
ナナリーにも、伝えたいことがあった。クロに「うなずくのはお前だ」と言われた夜から、ずっと胸にしまっている言葉だ。今なら言える気がして口を開きかけたものの、ふと、この喉から出るのは王子の低い声なのだと思い出した。
この姿で告白したら、殿下が殿下に告白することになる。
想像した途端、言葉が喉の奥へ引っ込んだ。恋の告白といえば、詩人が美しい言葉を並べ、吟遊詩人が甘い旋律に乗せて歌うようなもののはずだ。それなのに、王子が自分と同じ顔をした相手に愛を告げる光景など、どう考えても詩にも歌にもならない。ジェニーに話したら、三日は笑われるに違いなかった。
「私も、自分の声で答えたいです。だから、それまで待っててください」
「答える、ということは」
「それも、戻ってから言います」
シノンが、ふっと息を漏らした。横を見ると、目尻が少し下がっている。見慣れた自分の顔なのに、そんなふうに笑われると、胸が落ち着かなくなる。その笑い方を見るたび、やはり自分とは違うのだと実感する。
「今日の約束は、破らない」
「当たり前です。今度破ったら、パンを四つ食べるまで許しません」
「それは、君の身体が困るだけだろう」
「その時には、殿下のお身体に戻っているはずですから。四つなら入ります。実証済みです」
大真面目に答えると、シノンが声を立てて笑った。ナナリーもつられて笑い、それから、肩に入っていた力が抜けていることに気づいた。
約束を破られたことまで、なかったことにはしない。けれど、その理由を聞いて、自分の不満も伝えたあとで、こうして並んで笑えるのは嬉しかった。
*
屋敷へ戻ると、応接室の扉の前で、ジョルジュが壁に手をついていた。
「戻ったか」
声がすっかり掠れている。手帳を握る指先は白く、開いたままのページには「母上の質問 二十一回目」と書かれていた。
「お兄様、大丈夫ですか」
言ってから、ナナリーは慌てて言い直した。
「ジョルジュ、大丈夫か」
「殿下、お気遣いなく。母が、少々熱心なだけですので」
扉の向こうから、マリアナの弾んだ声が聞こえてきた。今度は父を相手に話しているらしい。
「だって、あの子のあんな真っ赤な顔、初めて見たもの」
隣でシノンが、ぴたりと足を止めた。見下ろすと、自分の顔はまだ少し赤い。
その時、扉が開き、マリアナが顔を出した。王子と娘が並んでいるのを見るなり、その目が輝く。
「まあ、お二人ご一緒に、お庭へ?」
ジョルジュが、こほん、こほんと二回咳払いをした。文句を言え、の合図だ。
けれど、この状況で何に文句を言えばいいのか、ナナリーには分からなかった。隣のシノンも黙ったままで、母の笑みだけが、ますます深くなっていった。
*
王城へ戻る馬車の中で、シノンはナナリーの肩に頭を預けて眠っていた。一日の緊張が堪えたのだろう。規則正しい寝息に合わせて、うぐいす色の髪が袖の上で小さく揺れている。
窓の外には、月が昇り始めていた。事故の夜と同じ形になるまで、あと四日だ。
ナナリーは彼を起こさないように、膝の上の鞄へそっと手を添えた。中には、終了の術式を書きためている帳面が入っている。今夜も王城へ戻れば、書斎の原本と照らし合わせて、欠けた部分を組み直さなければならない。まだ半分も完成していないのに、月は少しも待ってくれなかった。
自分の声で答えるためには、まず、自分の身体を取り戻さなければならない。それができるのは、申請者であるナナリーだけだ。
肩の重みに目を落とすと、シノンは安心しきった顔で眠っていた。今日の続きを、この人の本来の顔を見上げながら聞きたい。そのためなら、難しい古代語にも、もう少し粘れそうだった。
ナナリーは鞄の中で帳面の角を確かめ、今夜の夜食にはパンを四つ頼もうと決めた。




