71 その言葉は、私のものです
ドラクロワ家の小さな庭へ出たのは、夕方近くになってからだった。
母が育てている薔薇の生垣と、小さな噴水がある。子どもの頃、兄たちと泥だらけになって遊んだ庭だ。夕暮れの光が葉を橙色に染め、噴水の水音が、応接室で聞いた言葉の余韻を少しずつ薄めてくれていた。
屋敷の中では、今も母が、娘の心に決めた相手は誰なのかとジョルジュを問い詰めているはずだった。あとを任せてきた兄には申し訳ないが、今のナナリーには、自分のことで精いっぱいだった。兄の胃が無事であることを祈るしかない。
ナナリーは、噴水の縁に腰を下ろしたシノンの前で足を止めた。
「殿下」
彼が顔を上げた。そこにいつもの落ち着いた表情はなく、ナナリーを見るなり、すぐに口を開いた。
「すまない」
先に謝られて、用意していた言葉を忘れかけた。応接室を出てからずっと、何と伝えようか考えていたのに、その最初の一言を言う前に謝られてしまった。
「何がですか?」
「君の縁談なのに、相談したこと以外まで口にした。最後は、少し感情的になった」
「少し?」
聞き返すと、シノンは気まずそうに目を伏せた。
「かなり、だな」
素直に認められても、胸のつかえは取れなかった。ナナリーは腰に手を当て、目の前の彼を見下ろした。
「心に決めた方がいる、って何ですか」
「それは」
「昨日の夜、一緒に考えた言葉の中には、ありませんでした」
声が少し震えた。ナナリーは息を整え、彼が返事をする前に続けた。
「最初の言葉は、完璧でした。私が言いたかったことを、全部ちゃんと伝えてくれました。アルマン様が聞いてくださらなかったのは、殿下のせいじゃありません。でも、最後のあれは」
言葉を選ぼうとすると、応接室で自分の声からこぼれた一言が、また耳の奥に蘇った。
「どうして勝手に言うんですか。私に、心に決めた人がいるなんて」
シノンが自分のために怒ってくれたことは、分かっているつもりだった。ロザリーのときも、エミールのときも、彼はナナリーが軽んじられることに腹を立ててくれた。それが嬉しかった。今日も、アルマンの言葉を聞いた彼の顔を見て、自分の気持ちを分かってくれていると思った。
けれど、分かってくれていることと、代わりに決めていいことは違う。
ナナリーが伝えたかったのは、今は婚約を受けられないという返事だった。別の誰かを選んでいると、母や父に知らせることではない。
「私の将来を、勝手に決めないでください。私の心まで、勝手に決めないで」
最後の言葉がかすれた。
心に決めた人なら、本当はいる。今まさに目の前で、自分の顔をして座っている。けれど、それを最初に伝えるのは、自分でいたかった。うなずくのはお前だとクロに言われたあの夜から、いつか自分の口で言おうと決めていたのだ。
それなのに、先に口にしたのは、自分の声を借りたシノンだった。しかもその言葉は、ナナリーの気持ちを伝えるためではなく、アルマンを退けるための返事として使われた。
彼は、ナナリーが誰を好きなのかを知らない。それなのに、ナナリーとして、心に決めた人がいると言った。そのことが、怒りと一緒に胸を締めつけた。
「見ていてくれって言ったのは、殿下じゃないですか」
少し声を落とした。
「君がそこにいれば、俺が君の顔で何を言うか、君自身が見ていられるって。私、ちゃんと見ていました。殿下が、約束を破るところを」
シノンは何も言い返さなかった。唇を噛み、噴水の石の縁に手をついている。小さな指先が、白くなるほど押しつけられていた。
その顔を見ていると、泣きそうになった。傷ついたような表情を、自分の言葉が作っている。だからといって、言わなかったことにはしたくなかった。
彼を困らせるのが怖くて笑ってごまかしたことも、言いたいことを飲み込んだこともある。これまでなら、ここで自分も謝って、話を終わらせていたかもしれない。けれど今日は、ちゃんと聞いてほしかった。大事なことだからだ。
「俺は、ただ」
ようやく、シノンが口を開いた。
聞き慣れた自分の声なのに、ひどくかすれていた。ナナリーは返事をせず、その続きを待った。
「俺は、ただ」
二度目も、そこで途切れた。
シノンはナナリーを見上げたまま、口を閉じてしまった。夕暮れの風が薔薇の生垣を揺らし、噴水の水面に細かな波を立てる。屋敷の中から、母の声が聞こえたが、何を言っているのかまでは分からなかった。
ナナリーは、彼から目を逸らさなかった。自分の言いたかったことは伝えた。今度は、彼が何を言おうとしているのかを聞きたかった。
けれど、続きを促す言葉を探しているあいだも、二人のあいだには、ただ水音ばかりが流れていた。




