70 あなたは、彼女を何も知らない
シノンの落ち着いた声に、マリアナは満足そうに頷いた。娘が縁談の相手へきちんと礼を述べたことを、喜んでいるのだろう。けれどナナリーには、その言葉がこのあと何につながるのか分かっていた。
隣に座るシノンは、膝の上で重ねた手を動かさないまま、アルマンを見つめていた。
「ですが、私は今、勉強を続けたいと思っております。将来のことも、自分で考えて決めたいのです。ですから、婚約のお話はお受けできません」
ナナリーは、膝の上で握っていた手から少しだけ力を抜いた。
完璧だった。母への手紙に書いたのと同じ気持ちが、自分の声でまっすぐに届いている。言葉を選んだのは二人だったが、その中身は、ナナリーが伝えたかったことそのものだ。必要以上に笑ってもいない。これなら、アルマンにも伝わるはずだった。
ところが、彼はふっと鼻で笑った。
「照れなくていいよ」
ナナリーは、緩めた手をもう一度握り直した。
「女の子は最初はそう言うものだって、母上が言っていた。最初に断るのは、慎み深さの表れなんだって。大丈夫、ちゃんと分かっているから」
まったく分かっていない。ここまではっきり断っても照れていることにされるなら、世の令嬢たちは、いったいどんな言葉で縁談を断ればいいのだろう。
マリアナが扇子を口元に当てた。父はカップを持ち上げかけて、口をつけずに受け皿へ戻す。ナナリーは二人のどちらかが口を挟むのを待ったが、言葉は続かなかった。
シノンは微笑みを保っていた。ただ、膝の上で重ねた手の指が、一本ずつ静かに曲がっていく。
「照れているわけではございません」
彼はもう一度、はっきりと言った。
「私は本当に、勉強を続けたいのです。分からないことが分かるようになるのが、今は何より楽しいのです」
「勉強なら、僕が教えてあげるよ」
アルマンは身を乗り出したまま、にこやかに答えた。
「成績のことも気にしなくていい。女学院で学ぶようなことならともかく、どうせ結婚したら、学院の勉強なんて必要なくなるんだから。君は行儀見習いで身につけた作法で、僕の隣で笑っていてくれれば、それで十分だよ」
ナナリーは息を吸いかけて、そのまま止めた。
教えてほしいとは言っていない。勉強を続けたいと言ったのだ。しかも、婚約は受けられないと伝えたばかりなのに、彼はもう結婚したあとの話をしている。
隣を見ると、シノンの顔から微笑みが消えていた。
柔らかく上がっていた口元が元に戻り、アルマンへ向けた目だけが動かない。学院の廊下で彼の前を通り過ぎたときと同じ、冬の湖のような静けさだった。あのときは遠くから眺めていたその冷たさを、今はすぐ隣で感じている。
まずい、とナナリーは思った。媚薬の件のときも、彼はこんな顔をしていた。ロザリーに対してナナリーが苦しんだことを語りながら、膝の上の手に力を込めていたときの顔だ。
ナナリーは慌てて視線を送った。
落ち着いてください、殿下。ここは私の実家で、目の前にいるのは一応、縁談の相手なんです。お父様もお母様も見ています。
そんな長い言葉が、目だけで伝わるはずもなかった。せめて袖を引ければいいのだが、今の自分は王子だ。縁談の席で王子が伯爵令嬢へ手を伸ばしたりしたら、母がどんな期待を膨らませるか分からない。
「あの、ナナリー嬢」
声をかけたところで、シノンも口を開いた。
「デュボワ様」
穏やかな声だった。その穏やかさが、かえって不安をかき立てた。
「私には、もう心に決めた方がおります」
応接室が静まり返った。
アルマンは身を乗り出した姿勢のまま固まり、マリアナは扇子を下ろして口を開けた。父がカップを受け皿へ戻し損ね、かちゃんと硬い音が鳴る。ジョルジュは、額に当てていた手を目元までずり下ろした。
ナナリーは、隣に座る自分の顔を見つめた。
心に決めた方。誰の気持ちを、誰が話しているのだろう。そんな言葉は、前の晩に二人で考えた返事の中には、一つもなかった。
「心に決めた方?」
マリアナが、ようやく声を出した。
「ナナリー、あなたそんな方がいらっしゃるの?」
シノンの顔がさっと青ざめた。その変化を見て、ナナリーの胸が冷えていく。今の一言は、やはり予定にない言葉だったのだ。
アルマンは確かに黙った。同時に、この部屋にいる全員が、次の答えを待つことになってしまった。
「母上」
ジョルジュが、素早く身を乗り出した。
「ナナリーは、その、自分の将来は自分で選びたいと、そう言っているんです」
一瞬、空気が緩みかけた。ところが、マリアナの目が、獲物を見つけた猫のようにきらりと光る。
「選びたい?」
「はい」
「つまり、選びたい相手が、もう決まっているということね」
ジョルジュの口が閉じた。説明を重ねるほど、別の意味に受け取られていく。ナナリーも何か言わなければと思ったが、母の次の問いのほうが早かった。
「どなた? ナナリー、どなたなの?」
母が身を寄せ、父も娘の顔を覗き込んだ。アルマンまで、つられたように身を乗り出している。それから三人の視線が、ゆっくりと、隣に座る金髪の王子へと移っていった。
視線を浴びたナナリーは、背筋を強張らせた。
母の目が輝いている。父は懐からハンカチを取り出しかけ、アルマンは王子と伯爵令嬢を交互に見て、みるみる顔色を変えていった。学院で王子と名前を並べられたときの、あの得意げな顔はもうどこにもない。
このままでは、アルマンとの縁談がシノンとの縁談にすり替わってしまう。誰と結婚するかを自分で決めたいという話が、肝心の自分を置き去りにしたまま進んでいる。
ナナリーは、膝の上で握っていた手を開いた。
「デュボワ殿。ドラクロワ伯爵、それから伯爵夫人」
低い声で呼びかけると、全員がはっとしたように背筋を伸ばした。
「ナナリー嬢の将来は、ご本人が決めることだと、僕は思います」
先ほどから胸の中に溜まっていた言葉を、今度は途中で止めずに続けた。
「誰と、どう生きたいか。それは、ナナリー嬢がご自分の言葉で伝え、選ぶべきことです。周りが先に決めてしまうものではありません。彼女は今、婚約のお話は受けられないと、はっきりおっしゃいました。まずは、その返事を聞いて差し上げてください」
アルマンが口を開きかけたが、ナナリーは母へと視線を移した。
「ご自分で将来を考えたいというお気持ちは、お母上への手紙でも、すでに伝えていらっしゃるはずです」
マリアナが扇子を閉じた。少し目を伏せ、今度は何も言わなかった。あの手紙を思い出してくれたのだろうか。その沈黙に、ナナリーは少しだけ息をついた。
アルマンはしばらく固まっていたが、やがて顔を赤くして、ぎこちなく立ち上がった。
「そ、そうですか。いや、僕も、まだ正式に決めたわけでは。今日のところは、これで」
来月の婚約まで決めていたはずの男は、驚くほど素早く帰り支度を始めた。マリアナが慌てて見送りに立ち、父もハンカチを握りしめたまま後を追う。
扉が閉まると、応接室にはナナリーとシノン、そしてジョルジュだけが残された。紅茶の香りも、庭から差し込む光も、さっきと何も変わらない。それなのに、ナナリーは焼き菓子へ手を伸ばす気になれなかった。
隣を見ると、シノンは膝の上で手を握りしめていた。指の節が白くなるほど、力が入っている。その手を見ても、今はそっと握ってあげようとは思えなかった。




