69 その縁談に、王子が来ました
ドラクロワ伯爵家の玄関で、両親が凍りついていた。
週末の昼下がりだった。王妃の行儀見習いとして王城で暮らす娘が、縁談の相手に挨拶するため、一時帰宅する。両親は、そのつもりで待っていたはずだ。
ところが、王家の紋章付きの馬車から最初に降りてきたのは、娘ではなく金髪の青年だった。この国で知らぬ者のいない、王子その人である。
「シ、シノン殿下」
父が裏返った声を出した。母マリアナは扇子を取り落としそうになり、慌てて両手で握り直している。後ろに並んだ使用人たちも、一斉に頭を下げた。
「突然お邪魔して、申し訳ありません」
ナナリーは、王子の顔で精一杯の微笑みを浮かべた。
「母上から、ナナリー嬢を行儀見習いとしてお預かりしているご挨拶に、一度伺うよう言われまして」
嘘ではない。王妃はナナリーにも、「あなたも同席すれば、縁談の話も少しは落ち着くでしょう」と、今回の訪問を勧めてくれた。ただ、そのときの微笑みには、どこか面白がっているような気配もあった。ナナリーとしては、縁談の話が少しでも落ち着くなら、それに越したことはない。王妃の意味ありげな笑みについては深く考えないことにして、こうして屋敷までやって来たのだった。
「ただいま戻りました」
後ろから、ナナリーの姿をしたシノンが降りてきた。両親へ向けて、王城仕込みの完璧なお辞儀をする。さらにその後ろから、ジョルジュが胃のあたりを押さえながら姿を現した。
「まあ、まあ、まあ」
マリアナが王子と娘を交互に見て、頬を染めた。
「殿下がわざわざ。どうぞ、どうぞ中へ。ちょうどアルマン様もお見えになったところですの」
母の口からその名前が飛び出し、ナナリーは思わずシノンと顔を見合わせた。まさか、もう到着しているとは思わなかった。応接室へ入る前にもう一度段取りを確かめておきたかったのに、玄関をくぐったら、そのまま顔合わせが始まってしまいそうだ。
シノンが小さく頷いた。予定どおりにやる、という意味だろう。ナナリーも頷き返しかけて、マリアナが二人をじっと見ていることに気づいた。
「あら、まあ」
母の口元が、ゆっくりとほころんだ。
「お二人とも、ずいぶん息が合っていらっしゃるのね」
「えっ?」
思わず声を上げると、マリアナはますます嬉しそうに微笑んだ。
「何もおっしゃらなくても、お顔を見合わせるだけで通じ合っていらっしゃるみたい」
ナナリーは慌ててシノンから目を逸らした。
「いえ、そのようなことは」
「ふふ。ナナリーも、殿下の前ではすっかりお行儀がよくなって。王妃様にお預けして、本当によかったわ」
どうやら母は、縁談相手が屋敷で待っているというのに、娘と王子が親しげにしていることを、少しも困っていないらしい。むしろその笑顔を見る限り、別の期待を膨らませ始めている。
ナナリーは、助けを求めるようにジョルジュへ目を向けた。兄も母を見ていたが、胃を押さえる手に力がこもるばかりだった。今のところ、助け舟を出す余力はなさそうだ。
「マリアナ、そのくらいにしなさい。殿下、どうぞ我が家へ」
父に促され、ナナリーは背筋を伸ばして玄関をくぐった。
何度も出入りした自分の家なのに、今日は客人として迎えられている。いつもなら気にも留めない玄関広間で、使用人たちが左右に並び、深々と頭を下げてくる。そんなに畏まらなくていいと今すぐ声をかけたかったが、王子にそう言われたところで、彼らの気が楽になるとは限らなかった。
「こちらへ。応接室をご用意しております」
両親の後ろを歩きながら、ナナリーは壁の風景画や、階段脇の大きな花瓶へ目を向けた。どれも子どもの頃から変わらないものばかりだ。廊下に漂う紅茶と焼き菓子の匂いまで懐かしく、思わず肩の力が抜けそうになる。
途中で、顔なじみの侍女と目が合った。声をかけようとした途端、彼女は慌てて頭を下げてしまった。
今の自分は、この家の娘ではなく、王子なのだ。
少し寂しくなって隣を見ると、シノンはナナリーの顔で使用人たちへ微笑んでいた。侍女たちも嬉しそうに顔をほころばせている。自分の家なのに、自分だけが他人扱いされている。分かっていたことではあるけれど、実際に目の当たりにすると、なかなか複雑な気分だった。
けれど、応接室が近づくにつれて、その寂しさよりも緊張のほうが勝ってきた。扉の向こうには、アルマンがいる。自分の縁談を断るために帰ってきたのに、自分の名前で挨拶することさえできないのだ。
父が扉の前で足を止め、控えていた執事に頷いた。
「殿下がお見えになった。お通ししてくれ」
扉が開き、ナナリーはもう一度、王子らしい微笑みを作った。王子が現れたら、アルマンはどんな顔をするだろう。学院であれほど得意げに話していたのだから、少しくらい慌ててくれてもいいと思った。
見慣れた若草色のソファには、栗色の巻き毛の青年が座っていた。学院では黒いローブ姿のアルマンも、今日は袖口に金糸の刺繍が入った上着を着込んでいる。
待ちかねたように顔を上げた彼は、父の後ろに立つ王子を見た途端、勢いよく立ち上がった。
「殿下! まさか、このような場所でお目にかかれるとは」
深く頭を下げたあとの顔には、驚きとともに、隠しきれない得意げな笑みが浮かんでいた。
学院では、ナナリーをめぐって王子と恋敵になったつもりでいるアルマンだが、当の王子が目の前に現れても、少しも困っている様子がない。むしろ、王子と同席できたことを喜んでいるように見える。この調子では、今日の訪問まで友人たちへの自慢話にされてしまいそうだった。
父に促されてソファへ腰を下ろすと、マリアナが侍女に紅茶を言いつけ、向かいに座った。ほどなくして、湯気の立つカップと焼き菓子の皿が運ばれてくる。
「殿下、お口に合うか分かりませんけれど、うちの料理長の焼き菓子を」
「ありがとうございます、お母様」
ついうっかり、溢れた言葉にナナリーは凍りつく。
懐かしい焼き菓子に気を取られた、ほんの一瞬のことだった。王子の顔で家へ帰ってきたことを、まさかここで忘れるとは思わなかった。
マリアナがゆっくりと瞬きをする。父はカップを持ち上げかけたまま固まり、ジョルジュは胃を押さえていた手を額へ移した。アルマンに至っては、口を半開きにしている。
「殿下、今、お母様とおっしゃいました?」
最初に口を開いたのは、マリアナだった。その顔には驚きと、なぜか少しばかり嬉しそうな色が浮かんでいる。
「あ、いえ、その……」
ナナリーは必死に言い訳を探した。よりによって、どうしてこんなときに限って、いつもの呼び方が出てしまうのだろう。
「いえ。その、ナナリー嬢がいつもお母様のお話をされるので。つい、その呼び方が移ってしまいまして」
背中に冷たい汗が滲んだ。必死に微笑んでみたが、ここでいくら笑顔を磨いたところで、今の一言が消えるわけではない。
マリアナはしばらくこちらを見つめ、それから、先ほどよりもさらに頬を赤く染めた。
「まあ。ナナリーったら、殿下に私のことをそんなにお話ししているのね」
どうやら、別の方向に受け取ってくれたらしい。ひとまず息をついたが、隣のシノンは目を閉じていた。怒っているのか、呆れているのか、今は確かめたくなかった。
アルマンだけが、腑に落ちない顔で王子とマリアナを見比べている。秘密は守れたようだが、縁談の話を落ち着かせるという目的に、今の言い訳が役立ったかどうかは、はなはだ疑わしかった。
*
一杯目の紅茶がなくなる頃、アルマンがようやく本題を切り出した。
「ナナリー嬢。ぜひ一度、きちんとご挨拶したいと思っていたんだ」
彼は、シノンのほうへ身を乗り出した。
「学院では正直、君のことはあまり目に入っていなかった。成績も、まあ、その。でも、王妃殿下の行儀見習いになったと聞いて驚いたよ。あれでずいぶん箔がついた。伯爵令嬢として、ようやく僕の妻にふさわしいところまで来たんじゃないかな」
ナナリーは、テーブルの下で拳を握った。
成績については、胸を張れる結果を残していない。授業中に居眠りしたこともあるし、試験前日に慌てて教本を開いたあげく、別のことに精を出してしまったこともある。そこは反省しているし、今は少しずつ勉強にも取り組んでいる。
けれど、苦手なことを自覚しているからといって、何を言われても頷かなければならないわけではない。
ナナリーにだって、得意なことはある。魔力の流れを目で追うことも、初めての場所で面白いものを見つけることも、人と話して仲よくなることも。成績が悪いというだけで、それらまで取るに足りないものとして扱われるのは嫌だった。
そもそも、行儀見習いになったから妻にふさわしくなった、という理屈もおかしい。王城へ行く前も今も、ナナリーはナナリーだ。肩書きが増えるのを待ってから、その人と結婚したいと思うものなのだろうか。少なくとも彼が気に入ったのは、ナナリーと過ごした時間ではなさそうだった。
握った手に、さらに力が入る。
本当なら、自分で言い返したかった。母への手紙に書いた希望を、今度は相手の前ではっきりと伝えたい。けれど今の自分が口を挟めば、王子が他人の縁談に割って入ったことになってしまう。そうなれば、話はまた別の方向へ転がっていくだろう。
ナナリーは、隣を見た。
今日はシノンがナナリーとして、前の晩に二人で考えた言葉を伝えることになっている。穏やかに、けれど曖昧にはしない。必要以上には笑わない。それも約束してくれた。
彼は膝の上で手を重ね、アルマンへ顔を向けた。ナナリーが握りしめている拳とは違って、その手は静かだった。けれど、先ほど使用人たちへ向けていた柔らかな笑みとは違い、相手を見据える目は少しも緩んでいない。
「お気持ちは、ありがたく存じます」
落ち着いた言葉が、ナナリーの声で紡がれた。前の晩、書斎で何度も言い直した言葉だった。
ナナリーは握っていた手をほどき、膝の上に置いた。ここから先は、自分が選んだ返事だ。隣の彼がそれを伝えるあいだ、俯かずに聞いていよう。そう決めて、アルマンへ視線を戻した。




