68 まさかの、三角関係
噂は、ナナリーが思っていたよりずっと早く、学院に届いていた。
翌朝、学院の廊下は、いつもより騒がしかった。その騒がしさの中心にいたのは、栗色の巻き毛を丁寧に撫でつけた、背の低い男子生徒だった。周りに数人の友人を集め、胸を張って、よく通る声で話している。
「そうなんだよ。ドラクロワ伯爵家から、ぜひにと言われてね。まあ、断る理由もないし。今度の休日にお屋敷へ招かれていて、来月には、正式に婚約することになると思う」
ナナリーは、王子の顔のまま、廊下の真ん中で足を止めた。
ぜひにと言われた、の向きが逆だった。母の手紙には、先方から申し出があったと書いてあった。それに、断りの手紙はもう出している。母の返事は、一度だけ会いなさい、というもので、婚約しろとは一言も書いていなかった。それなのにアルマンの話の中では、休日の挨拶がすでに来月の婚約へつながっている。
お母様……。
ここにはいない母へ、ナナリーは心の中で深くため息をついた。
王妃の行儀見習いという肩書がついた途端、舞い込む縁談に、母は浮かれている。冷静に考えれば、肩書だけに飛びついてくる相手がどういう人か、分かりそうなものなのに。今まで浮いた話一つなかった娘の縁談に、焦りも手伝って、舞い上がってしまっているのだろう。
母の気持ちを考えると、責めるべきではないのかもしれない。けれど、自分の知らないところで勝手に噂を作られ、誇張して語られるのは、あまりにも理不尽だった。
「ナナリー嬢は、最近、王妃様の行儀見習いになっただろう。あれで、ずいぶん箔がついた。伯爵家の令嬢としては、まあ、僕の妻にふさわしいところまで来たんじゃないかな」
ふさわしいところまで、来た。
ナナリーは、王子の拳を、制服の袖の中で握りしめた。自分は、この人の妻にふさわしくなるために、王妃の行儀見習いになったわけではない。そもそも、行儀見習いをしているのは自分ではなく、自分の身体を借りたシノンで、その行儀のよさは、全部、シノンの王城仕込みのものだ。
アルマンが褒めているのは、自分ではない。自分の中に入っている、シノンだった。
だったら、その中身の王子と結婚すればいいのに。ナナリーは、支離滅裂な方向へ怒りを飛ばしてからさすがにそれは困ると思い直した。
「ちょっと、聞いた!?」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。振り返るまでもなかった。ルルーナが両手を胸の前で組み、目をきらきらと輝かせて、こちらへ駆け寄ってくる。
「殿下、聞きました!? アルマン様が、ナナリーと婚約するんですって!」
「まだ、決まっては」
「でも、殿下とナナリーは、建国祭の最初の一曲で決まりだって、みんな言ってますのに!」
ルルーナはナナリーの顔と、廊下の向こうのアルマンを交互に見た。それから口元に手を当て、校舎の端にまで聞こえそうな声で叫んだ。
「まさかの、三角関係!?」
廊下が、どよめいた。
ドラクロワ嬢を巡る、殿下とデュボワ伯爵家の三男の争い。そんな尾ひれのついた話が、一瞬にして周囲の生徒たちの間に広がっていく。学院中の令嬢たちが、あからさまに目を輝かせていた。廊下の向こうでは、アルマンが王子と自分の名前が並べて語られたことに気づき、誇らしげに胸を張っている。
ナナリーは、王子の身体のまま、頭を抱えそうになるのを必死で耐えた。
そもそも、噂になっているのは自分の縁談のはずだ。それなのに、いつの間にかシノンとアルマンが、ナナリー・ドラクロワを取り合っていることになっている。しかも肝心のナナリー本人は王子の身体にいて、二人に取り合われているはずの伯爵令嬢の中身は、その王子本人なのだ。
事情を知っているナナリーでさえ、一体誰が誰を取り合っているのか、分からなくなってきた。
その時、廊下の向こうから、うぐいす色の髪色をした令嬢が歩いてきた。
シノンだった。ジェニーと並んで、教室へ向かう途中だったらしい。廊下の騒ぎに気づき、足を止める。アルマンがその姿を見つけて、満面の笑みで手を上げた。
「やあ、ナナリー嬢。おはよう。休日は、楽しみにしているよ。来月には、僕たち」
シノンはナナリーの顔に、完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。
けれど、ナナリーには分かった。それは、白百合亭でエミールに向けた微笑みとも、ロザリーの宣戦布告を受け止めた微笑みとも違っていた。表面は柔らかいのに、その奥が冬の湖のように凍りついている。
「おはようございます、デュボワ様」
シノンはそれだけ言って、一度も足を止めずにアルマンの前を静かに通り過ぎた。
アルマンは上げた手を下ろす場所を見失ったまま、その場に固まっている。
シノンはそのまま廊下を歩き、ナナリーの前で足を止めた。周りの視線が一斉に二人へ集まる。ルルーナが息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
シノンは、令嬢の微笑みを浮かべたまま、ナナリーの袖口へ、そっと指先を添えた。
『週末、君も来てくれ。王子として、同席してほしい』
頭の中に響いた声は、ナナリーが今まで聞いた中で一番低く、一番静かだった。
『私も、ですか?』
『母上も、殿下が同席なされば話が落ち着くでしょうとおっしゃっていた。それに』
頭の中の声が、ほんのわずかに途切れた。
『君がそこにいれば、俺が君の顔で何を言うか、君自身が見ていられる』
ナナリーは、自分の顔を見下ろした。
金色の瞳が、まっすぐにこちらを見上げている。その目は、謁見の間で、国の大事を決める時の王子の目に見えた。
必要以上に笑わない、という約束は、どうやら守られそうだった。




