67 会うのは、一度だけです
羽ペンの先が、紙の上で小さく止まった。
王子の書斎の窓から、午後の光が斜めに差し込み、白い便箋を照らしている。ナナリーは、書きかけの一行を見下ろしていた。丸くてころころとした、見慣れた自分の字だった。
王子の手で書いても、字の形は変わらない。魂についてくるものだと入れ替わった頃にエルネットの前で思い知った。試し書きをした署名の最後に花を咲かせてしまい、王子の名前の横で小さな花が満開になっていた、あの朝のことだ。
今日はその癖がありがたかった。母が見れば、一目で娘の字だと分かる。シノンに代わりに書いてもらった手紙ではなく、ナナリー自身が書いた手紙だと、何も説明しなくても伝わるのだ。
お母様へ。
そこまでは、すぐに書けた。問題は、その先だった。
ナナリーは、羽ペンをインク壺へ浸し直した。隣の椅子では、シノンが教本を開いている。こちらの手元を覗き込まないのは、気を遣ってくれているからだろう。もっとも、さっきからページが一枚もめくられていないので、教本の内容が頭に入っているかどうかは怪しかった。
古代語でカップの契約を解いた時、言葉の重さが釣り合わなければ術は怒ると教わった。母への手紙は、怒ってカップを揺らしたりしない。けれど、軽い言葉で書けば、母はきっと、娘がまた照れているだけだと受け取るだろう。
ナナリーは、ゆっくりと書き始めた。
――アルマン様とのお話は、お断りしたいと思います。アルマン様が悪い方だからではありません。私は今、自分の勉強を続けたいと思っています。将来のことも、自分で考えて決めたいのです。
一文ごとに、羽ペンを止めた。王子の長い指で握るペンは、自分の指で握る時より少し遠くにある気がする。それでも紙に残る字は、確かに自分の字だった。
――お母様が、私のためを思ってくださっていることは分かっています。だからこそ、自分の口で、きちんとお伝えしたかったのです。
書き終えて、ナナリーは長く息を吐いた。カップを怒らせずに契約を解いた時と同じくらい、肩が凝っている。署名の最後にうっかり花を描きそうになって、慌てて手を止めた。今日だけは、花は要らない気がした。
「書けたのか」
隣から、シノンが静かに尋ねた。
「はい」
「読んでもいいか」
「だめです。お母様宛てなので」
シノンは少しだけ目を細め、それ以上は何も言わなかった。教本のページを、ようやく一枚めくる。その横顔がなぜか、少し嬉しそうに見えた。
*
母からの返事は、その日のうちに届いた。
エルネットから封筒を受け取ったシノンが、いつものように慎重に封を切り、便箋を広げる。ナナリーは、横から覗き込んだ。母マリアナの弾むような丸い字が、今日は少しだけ控えめに並んでいた。
――あなたの字で、あなたの言葉で、お手紙をくれて嬉しかったわ。お父様も、こっそり三回読み返していらっしゃいました。
ナナリーの胸が、少しだけ温かくなった。
――でもね、ナナリー。一度もお会いせずにお断りしては、先方に失礼よ。せっかくお申し出くださったのですもの。一度だけでいいからお屋敷でご挨拶をなさい。それで、どうしても気が進まなければ、その時にお断りすればいいわ。今度の休日、アルマン様がいらっしゃいます。
温かくなりかけた胸が、そのままの温度で固まった。
「一度だけ」
シノンが、便箋の一行を指で押さえた。
「会うのは、一度だけだ。婚約しろとは、一言も書いていない」
「分かってます。分かってますけど」
ナナリーは、王子の額へ手を当てた。母の言っていることは、間違っていない。貴族の家同士の縁談で、顔も合わせずに断れば相手の家の面子を潰すことになる。伯爵家の夫人として、母は正しい手順を踏もうとしているだけだ。
それでも、せっかく自分の言葉で書いた手紙が、一度だけ会いなさい、で包まれて返ってきたことが、少しだけ悔しかった。
「こうなったら会って、自分の口で断ります」
ナナリーは、顔を上げた。
「手紙で書いたのと同じことを、今度はちゃんと本人の前で言います」
シノンは、しばらくナナリーの顔を見つめていた。
「その姿で断ると、余計ややこしくなる気がするのだが」
「え?」
ナナリーはきょとんとして、それから自分の身体を見下ろした。長い脚に、大きな手。見慣れてしまったせいで、すっかり忘れていた。
「あっ! そうでした! 私、殿下でした!」
「今さら気づいたのか」
「だって、手紙は自分で書いたし、お母様も私の字だって分かってくださったし。すっかり自分でお断りできる気になってました」
シノンは、ナナリーの顔で呆れたように息をついた。
「アルマンが会いに来るのは、ナナリー・ドラクロワだ。俺が応対することになる」
「そうですよね……」
ナナリーは、先ほどまでの勢いを失い、椅子の背にもたれた。せっかく勇気を出して母に手紙を書いたのに、肝心の顔合わせでは自分の口で断ることさえできないらしい。
「殿下。お願いがあるんですけど」
「何だ?」
「アルマン様には、はっきりお断りしてくださいね。遠回しに言っても、きっと伝わらないと思うので」
「分かっている」
「あと、あんまり優しくしないでください。殿下が私の顔で微笑んだら、きっと彼は勘違いすると思うんです」
シノンは少し考えてから、真面目な顔で頷いた。
「では、必要以上には笑わないようにする」
「お願いします。殿下の笑顔って、妙に説得力があるんですから」
「それは褒めているのか?」
「もちろんです。でも、今回ばかりは封印してください」
ナナリーが念を押すと、シノンはとうとう小さく笑った。
その顔を見て、ナナリーは早くも不安になった。今の笑顔をアルマンに向けられたら、断るどころか、結婚式の日取りまで相談されかねない。
シノンは笑みを収め、小さく頷いた。
「分かった。ちゃんと約束は守る」
その一言がナナリーには、少しだけ固く聞こえた。




