66 うなずくのは、お前だ
窓の留め具を外すと、夜風と一緒に黒い影が寝室へ滑り込んできた。
クロは、いつもなら真っ先に菓子の在りかを探す書き物机には目もくれず、寝台の足元の飾り柱へ降り立った。窓から差し込む月明かりが、黒い羽の縁を銀色に照らしている。琥珀色の目が、まっすぐにナナリーへ向けられていた。
「座れ」
「ここ、殿下の寝室なんだけど」
「知っている。座れ」
寝室の持ち主より偉そうな声だった。ナナリーは寝台の端へ腰を下ろした。長い脚が床まで届き、足の裏へひんやりした感触が伝わる。掛け布団の中へ戻りたいところだったが、クロの様子を見る限り、眠れないなら菓子でも食べようという話ではなさそうだった。
彼はしばらく黙っていた。羽を膨らませるでもなく、嘴を鳴らすでもなく、ただこちらを見ている。菓子をねだらないクロは、こんなに静かな生き物だったのだと、初めて知った。
「今日の練習、見ていた」
「うん。下手くそって言われた」
「最初はな。二度目は悪くなかった」
ナナリーは少し驚いて顔を上げた。褒められたのだろうか。いつものように、すぐ後から余計な一言がついてくるかと思ったが、クロの声にはからかう調子がなかった。
「だから、言っておく」
クロは翼を一度広げ、すぐに畳んだ。
「元に戻れば、仮契約は終わる。試験前に出した申請も、その時に閉じる。お前の願いを、契約で叶えようとする仕組みも終わりだ」
月が雲に遮られたのか、寝台に落ちていた光が少し陰った。
「それで、いいのか」
ナナリーは、すぐには答えられなかった。
頼りになって、近くにいて、自分を補ってくれて、できれば見た目がいい。試験前の現実逃避で並べた条件だった。申請は一か月も残り、その間ずっと、術はシノンを指し示していた。そしてあの夜、候補として確定した。
元に戻れば、そのつながりも終わる。自分と彼を結びつけていた仕組みが、もうなくなるのだ。
「願いを手放すって、殿下と一緒にいたいって願うのも、やめなきゃいけないってこと?」
声が、自分でも驚くほど小さくなった。
「違う」
クロはすぐに答えた。
「術を閉じるだけだ。お前の頭の中まで、術は勝手に掃除しない。願うのは、お前の勝手だ」
「じゃあ、元に戻っても、殿下のことを好きでいていいんだよね」
言ってから、ナナリーは少し顔を熱くした。カラスに恋の許可を求める日が来るとは思わなかったが、今はその返事が欲しかった。
「ああ。だが、覚えておけ」
クロは首を傾けず、まっすぐこちらを見ていた。
「術があいつを候補に決めたのは、お前が自分で選んで本人にそう伝えたからじゃない。一か月指していた先に、薬に煽られた気持ちが、お前の代わりにうなずいたからだ。その後も、仮契約はあいつを候補としてつなぎ留めていた。お前が睨んでいた間も、紅茶をこぼしていた間もな」
ナナリーは膝の上で手を握った。
「術を閉じたら、そのつながりはなくなる。そこから先、あいつとどうしたいかは、もう術には決められない。お前の代わりに指さすことも、うなずくこともできないんだ」
あの夜、好きだと口走ったのは薬に惑わされたからだった。彼が候補になったのも術のせいで、毎日一緒にいられるのも、入れ替わってしまったからだ。
もちろん、その間に自分で決めたこともある。勉強を続けようと思ったのも、市場へまた一緒に来たいと願ったのも、薬や術に言わされたわけではない。けれど、彼にその気持ちを伝えるところだけは、まだ避けていた。
ジェニーには話せた。クロにも、今、好きだと言えた。それなのに、肝心の相手の前では、別の人の名前に隠したり、素敵な方を選ぶだろうと笑ったりしている。
「うなずくのは、お前だ」
クロが静かに言った。
「元に戻った後で、あいつを求めるのも、求めないのも。言うのも、言わないのも、お前が決める。俺は調停官だ。術の間を取り持つのが仕事で、人間の恋の間まで取り持つ役目はないからな」
ナナリーはしばらく、その琥珀色の目を見つめていた。今夜のクロは、いつものように簡単な逃げ道をくれそうになかった。
「それでも私、ちゃんと手放すって書くよ」
ようやく出た声は少し震えていたが、さっきよりはっきりしていた。
「殿下を縛って、一緒にいてもらうのは嫌だから。術がなくなったら、ちゃんと自分で言いたい。言えるかどうかは、まだ分からないけど」
「分からないのか」
「分からないよ。今日だって、殿下なら素敵な方を選ばれますね、なんて言っちゃったし」
「馬鹿か、お前は」
「さすがに言い過ぎ」
言い返すと、クロは嘴を小さく鳴らした。笑われたような気がしたが、その後で、ようやくいつものように羽を膨らませる。
「話は済んだ。菓子は?」
「この雰囲気で?」
「真面目な話をすると、腹が減るもんだろ」
ナナリーは思わず吹き出した。確かに、その気持ちは分かる。勉強の後も、兄に叱られた後も、何か食べたくなるのだから、恋の話の後に腹が減っても不思議ではなかった。
寝台から立ち上がり、書き物机の新しい隠し場所から焼き菓子を取り出した。シノンにまた見つかったら、クロに食べさせるためだと説明しよう。実際、今夜は本当にそのために使っている。
クロは菓子を受け取ると窓枠へ飛び移り、月明かりの下でつつき始めた。その背中を見ながら、ナナリーは先ほどの言葉をもう一度思い返した。
うなずくのは、自分だ。
建国祭まで、あと九日。術を閉じる言葉は分かっている。その後、何を言いたいのかも、本当はもう分かっていた。
難しいのは、その一言を、彼の前で口にすることだった。ナナリーは机の端へ指を置き、明日、書斎で彼と顔を合わせるところを想像した。古代語なら、分からない時は尋ねればいい。けれど、この返事だけは、教えてもらうわけにはいかなかった。
*
翌日、王子の書斎で教本を広げていると、エルネットが一通の手紙を持ってきた。
封蝋にはドラクロワ伯爵家の印が押されている。宛名は、王妃の行儀見習いとして王城に暮らす、ナナリー・ドラクロワ。つまり、今はシノン宛てだった。
シノンは封筒を受け取り、表と裏を確かめた。その手つきが、教本を開く時より慎重に見える。ナナリーも母からの手紙には覚えがあるので、開ける前からあまり気楽な内容ではなさそうだと思った。
彼が便箋を広げたところで、横から覗き込む。母マリアナの、弾むような丸い字が並んでいた。
――エミール様とのお話は残念でしたけれど、お母様はまだ諦めていませんよ。今度は、あなたの学院のお友達です。デュボワ伯爵家のアルマン様。あなたと同じ学年ですって。先方から、ぜひにとお申し出がありましたの。王妃様の行儀見習いになったと聞いて、ずいぶん感心してくださったそうよ。今度の休日に、一度屋敷へ戻っていらっしゃい。
ナナリーは、便箋の上の名前を二度読んだ。
アルマン・デュボワ。同じ学年の、伯爵家の三男だ。成績は真ん中あたりなのに、なぜか自分が学年で一番だと思っていそうな話し方をする。友達と書かれているが、少なくともナナリーの方には、その認識はなかった。
初等科の頃、彼に食べかけの焼き菓子を取られたことがある。その恨みは忘れていない。
「知っているのか」
シノンが低い声で尋ねた。
「同じ学年です。殿下のクラスではないので、ご存じないかもしれません。あまり、その、得意な人ではないです」
「そうか」
彼は便箋を静かに畳んだ。折り目を押さえる指に、少し力が入ったように見えた。
ナナリーは、その手と手紙を見比べた。昨夜、自分のことは自分で伝えようと思ったばかりなのに、今度は母が、伝えてもいない相手との話を進めている。しかも、その手紙を受け取るのは、自分の身体を借りたシノンだ。
このままでは、また彼がナナリーとして返事をすることになる。
「殿下」
呼びかけると、彼が顔を上げた。ナナリーは便箋へ手を伸ばし、自分の方へ寄せた。
「このお返事は、私が書いてもいいですか」
昨夜の決意を、恋の告白で試す勇気はまだなかった。けれど、望んでいない縁談を断る言葉なら、自分で書かなければならない。
ナナリーは新しい紙を取り、羽ペンを握った。古代語でカップの契約を解くことには成功した。今度は母にも分かる言葉で、自分の希望を伝える番だった。




