65 元に戻るのは、いいことです
「では、次は本番に近い練習を」
シルヴァンが机の上へ、見覚えのある水晶の器を置いた。透明な液体に術式を施すと、金色とうぐいす色の二筋の光が浮かび上がる。その光は、旧天文台で見た時よりも、さらに複雑に絡み合っていた。
ナナリーは思わず息を呑んだ。三週間で、ここまで絡み合ってしまったらしい。
部屋を間違えて住み始めただけのつもりが、家具を置き、荷物を増やし、すっかり自分の部屋にしてしまう。
以前、自分で口にしたそのたとえが、目の前の光に重なった。
自分が王子の生活に慣れていく間にも、魔力のつながりは変わっていたのだ。どうやら書き物机の引き出しへ菓子を隠せるようになったことを、成長だと喜んでいる場合ではなかったらしい。
「全部をほどくのは、本番の夜に。今日は、この細い一本だけでございます」
シルヴァンが、絡み合いの端にある、ほとんど見えないほど細い一筋を示した。
「ほんの少し緩めてみましょう。お嬢さん、殿下、手を」
シノンがナナリーの手を取った。王子の大きな手のひらへ、見慣れた小さな手が重なる。ナナリーとしては、術の練習だと分かっていても、指先を意識せずにはいられない。けれど、今はジョルジュもシルヴァンも、二人の手に注目している。
小さく首を振り、器へ視線を戻す。意識を集中させ、さっきと同じ意味の言葉を、少し短くして空中に描く。
指先から淡い金色の光が伸び、ナナリーの動きに合わせて古代語の文字が浮かび上がった。慣れない文字はどうしても丸みを帯びてしまうが、今回は途中で途切れることなく、最後の一画まで書き終えることができた。
文字が完成すると、光の粒がその輪郭を離れ、二つの器をつなぐ魔力の糸へ吸い込まれていく。
「そのまま、糸の端を意識してください。引っ張るのではなく、結び目を緩めるつもりで」
シルヴァンの声に従い、ナナリーは絡み合った光の一筋へ意識を向けた。すると、細い一筋の光が、ふわりと揺れた。その瞬間、指先に不思議な感覚が走った。
大きな手で小さな手を握っていたはずなのに、今は、自分の指が温かな手のひらに包まれている。指の長さも、触れ合う位置も違う。少し冷えていた自分の小さな手を、王子の手が覆っていた。
ほんの一瞬、ナナリーは自分の身体の感覚を取り戻していた。
市場では、自分が彼の手を引いた。今は、その反対側にいる。こうして握られたら、シノンの手はこんなに大きく、温かいのだ。
そう思った次の瞬間、細い一筋は元の位置へ戻り、感覚も王子の手のひらへ戻ってきた。ナナリーは反射的に手を離した。離してから、練習の最中だったことを思い出し、慌ててシルヴァンの顔を見つめた。
「今のは?」
「お嬢さんご自身の感覚が、ほんの一瞬、お戻りになったのでございます」
シルヴァンが満足そうに頷いた。
「術は正しく働いております。この調子なら、建国祭の夜、お嬢さんの手でお二人を元に戻せます」
ナナリーは器の中を見つめた。光はまだ絡み合っている。身体も借りたままだ。それでも今、自分の指先を確かに感じた。
ジョルジュが椅子の背へもたれ、長く息を吐いた。目元を押さえてから顔を上げると、ようやく肩の力が抜けたように見える。妹の不始末に巻き込まれてから、兄がこれほどほっとした顔をするのを、ナナリーは初めて見た気がした。
お茶を運んできたエルネットも、銀の盆を片手に支え、そっと目元へ指を添えていた。その様子を見て胸が温かくなったところで、窓枠のクロが羽を広げる。
「よし。祝いだ。菓子を出せ」
「お祝いの前から、ずっと言ってたじゃない」
「祝いの菓子は別腹だ」
ナナリーは笑いながら、引き出しの奥から焼き菓子を取り出した。シノンに没収されてから、新しく隠した場所だった。
菓子をクロの前へ置くと、シノンが引き出しへ目を向け、片眉を上げた。ナナリーは素早く閉めたが、見られた後では、あまり意味がない。けれど彼は、何も言わずに器へ視線を戻してくれた。今日の成功で、焼き菓子一つ分くらいは見逃してもらえたらしい。
シルヴァンは、早くも建国祭の夜の段取りを説明し始めていた。ジョルジュが「三行で」と言いかけ、口を閉じる。今度ばかりは省略してもらわない方がよいと、ナナリーも思った。
エルネットが新しい紅茶を注ぎ、クロが菓子をつつく。兄の相槌にも、先ほどまでの張り詰めた響きはなかった。ナナリーも皆と一緒に笑い、もう一度、自分の手を見下ろした。
九日後には、この大きな手とも別れる。
そう思った途端、胸の奥へ冷たい隙間風のようなものが吹き込んできた。
元に戻るのは、いいことだ。自分の小さな身体に、うぐいす色の髪と金色の瞳に、串焼き一本でお腹いっぱいになる胃袋に戻る。シノンも王子の身体へ戻り、帝王学と剣術を自分で受けられるようになる。
そうしたら、この書斎で二人並んで古代語を読む必要はなくなる。
王妃の行儀見習いという口実も、ジョルジュが王城へ通う理由も、シルヴァンが長い説明をしに来る理由も、すべて役目を終える。学院ではクラスが違う。ナナリーはまた、人だかりの外側から王子の姿を見つける一人の伯爵令嬢に戻るのだ。
元に戻るのは、いいことだと、もう一度心の中で繰り返した。けれど、シルヴァンの説明を聞きながら、明日はどの言葉を読もうかと彼に尋ねる時間までなくなると思うと、素直に喜びきれなかった。
シノンを見ると、彼も微笑んでいた。ただ、時折その笑みが止まり、窓の外へ目を向ける。何か考えているように見えた。
彼も、同じことを考えているのだろうか。
期待しかけて、ナナリーは器へ視線を戻した。シノンはようやく、慣れない令嬢の生活から解放されるのだ。ヒールに苦しみ、階段で息を切らし、ルルーナに追い回され、ロザリーに宣戦布告される毎日を、名残惜しく思う理由などない。
少なくとも、自分が寂しいからというだけで、彼もそうだと決めつけてはいけなかった。
*
夕方、シルヴァンとジョルジュが帰り、エルネットもカップを片づけに下がった。書斎にはナナリーとシノンが残り、窓枠では、焼き菓子を食べ終えたクロがうとうとしている。
窓の外は夕焼けに染まっていた。王都の屋根の向こうには、建国祭の飾りつけが始まった大通りが見える。色とりどりの旗が、夕暮れの風にはためいていた。
「あと九日だな」
シノンが窓の外を見ながら静かに言った。
「はい」
「九日後には、元に戻る」
「はい。元に戻るのは、いいことです」
自分に言い聞かせるように答えた。彼はしばらく黙り、旗を見つめたまま口を開いた。
「戻ったら、婚約者の件にも、けりをつけないとな」
ナナリーは、膝の上で指を止めた。
婚約者の件。建国祭の夜、シノンが最初の一曲を踊った相手は、有力な婚約者候補として受け止められる。王妃はそう言っていた。ルルーナの食堂での宣言も、ロザリーの言葉も、その一曲へつながっている。エミールたちの縁談が進まないのも、シルヴァンのもとへ苦情の手紙が集まるのも、王子のお相手が決まっていないからだった。
けりをつけるというのは、誰かを選ぶということなのだろう。
王子がどこかの令嬢の手を取り、シャンデリアの下へ導いていく。その相手が誰なのか、ナナリーには分からない。けれど、成績を下から数えた方が早く、引き出しへ菓子を隠し、今日も紅茶をこぼした自分が、そこへ立つ姿はうまく想像できなかった。
ナナリーは、王子の顔に笑みを浮かべた。シノンがいつもそうしているように、誰も困らせず、余計なことを悟られない微笑みを作りたかった。
「殿下なら、きっと素敵な方を選ばれますね」
シノンがゆっくりこちらを向いた。その視線を受け止めた途端、上手に笑えているか確かめるのが怖くなった。
彼が何か言いかけて口を開く。ナナリーは、その言葉を聞く前に椅子から立ち上がっていた。
「私、そろそろ、お夕食の前に着替えないと」
「ナナリー」
「お先に失礼します」
返事を待たず、書斎を出た。扉を閉める間際、内側から声がした気がしたが、言葉までは聞き取れなかった。
廊下には、夕食の支度をする使用人たちの足音が響いていた。今は、俯いて歩くことさえ、勝手にはできない体の中にいる。ナナリーは背筋を伸ばし、いつもの王子の歩き方を思い出した。
夕食は、少し疲れたからと言って、自室へ運んでもらった。銀の蓋が外されると、焼きたてのパンが籠いっぱいに盛られていて、香ばしい湯気がふわりと立ちのぼる。王子の身体になってからというもの、この籠が空になるたび、ロランが厨房まで二度は走るのが決まりのようになっていた。
ところが今夜は、二つ目を食べ終えたところで、手が止まった。三つ目を取ろうとしても、こんがりと焼けた皮が、なぜかひどく硬そうに見える。王子の胃袋には、まだいくらでも入る余裕があるはずだった。それなのに、喉の奥がそれ以上を通してくれない。
ナナリーは、籠の中のパンを数えた。残りは七つ。いつもなら、ここからが本番だった。
控えていたロランが、籠とナナリーの顔を何度も見比べた。それから、ひどく真剣な面持ちで、懐から手帳を取り出す。
「殿下、どこかお加減でも」
「ううん、大丈夫。今日は、これで十分」
ロランの鉛筆が、さらさらと紙の上を走った。ちらりと見えた頁には、「殿下、食欲不振」と書かれ、その下に二本線まで引いてある。ナナリーはそれを、ぼんやりと眺めていた。無理にパンを胃に詰め込む元気も、ロランのメモを訂正する気にもなれなかった。
*
その夜、ナナリーは雲のように柔らかな寝台で、天井を見つめていた。
暗殺道具かと疑いたくなるほど寝心地のよい寝台なのに、少しも眠くならない。枕の位置を直し、長い脚を伸ばし、寝返りを打っても、胸の落ち着かなさだけはついてくる。王子の寝具をもってしても、恋の悩みまでは眠らせられないらしかった。
「元に戻るのは、いいことです」
声に出してみると、低い声が静かな寝室に響いた。
父との約束を守り、ジェニーと勉強し、自分の身体で自分の生活へ戻る。それは、ずっと望んできたことだった。彼の身体を借りたままでいたいわけでも、彼に令嬢の生活を続けてほしいわけでもない。
ただ、元に戻った後も会いたい。それを言えなかっただけだ。
市場ではジェニーの名前に隠し、書斎では素敵な方を選ぶだろうと笑った。会いたいと言う代わりに、彼が自分から離れていく話へ、頷いてしまった。
ナナリーは掛け布団を引き上げ、顔の下半分を埋めた。今さら、あの笑顔が上手だったかどうかを気にしても仕方がない。上手だったなら、なおさら困る。寂しくないと思われてしまうのだから。
その時、窓の方で、こつこつと硬いものがガラスを叩いた。
身体を起こすと、窓枠に一羽のカラスが止まっていた。月明かりを受けた琥珀色の目が、じっとこちらを見ている。
「窓、開けろ」
いつもと同じ言葉だった。けれど、菓子を催促する時とは声の調子が違う。ナナリーが寝台を下りる間もクロは羽を膨らませず、こちらから目を離さなかった。
今夜は、何を言いに来たのだろう。ナナリーは窓の留め具へ手をかけた。




