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64 カップが、怒っています

 王子の書斎の窓辺には、午後の光と一緒に一羽のカラスが居座っていた。


「腹が減った」


 クロは窓枠の上で羽を膨らませ、呟いた。誰も返事をしないので、今度は少し大きな声になる。


「腹が、減った」


「練習が終わったら、焼き菓子を出すから」


 ナナリーが答えると、クロは満足そうに嘴を鳴らして丸くなった。今日の調停官の仕事は、どうやら見物と、終わった後の菓子らしい。失敗が続けば菓子の時間も遅くなるのだから、少しは応援してくれてもよさそうなものだった。


 大きな書き物机には、二つのティーカップが並べられていた。白い磁器に、小さなイリスの模様が描かれた、王城では見慣れたカップだ。ただ、その二つの間には、ほとんど目に見えないほど細い光の糸が、ゆらゆらと渡されている。


「では、お嬢さん。こちらが、練習用の仮契約でございます」


 机の向こうで、シルヴァンが穏やかに微笑んだ。王妃が手配した特例の許可は、解除への協力に限るという条件のまま、まだ有効だった。


 新聞では闇の魔術師と恐れられ、恋愛占いの本では「恋の魔術師シルヴィ先生」として親しまれている怪盗シルヴァン。その本人が、今は王子の書斎で、ティーカップを使って魔術の講義をしているのだから、何とも不思議な光景だった。


 初めのうちは驚いてばかりいたナナリーも、今ではすっかり見慣れてしまった。シルヴァンの説明は決まって長くなるので、講義が始まる前に椅子へ座っておくことまで、体が自然に覚えている。


「左のカップがお嬢さんの代わり、右のカップが候補者の代わりでございます。先ほど込めていただいた魔力で、ヤンの召喚術と同じ型の、ごく小さな仮契約を結んでおきました。これを、ご自分の言葉で取り消していただきます。申請の時に込めた願いと、釣り合う言葉で。本番の、いわば縮小版でございますね。もっとも、縮小版とはいえ、術式の構造そのものは本番と寸分違わぬものでございまして、言葉の重さが釣り合わなければ、カップは」


「シルヴァン」


 壁際の椅子に座ったジョルジュが、短く遮った。


「説明は、三行で頼む」


「承知いたしました。釣り合わなければ、カップが怒ります」


 三行どころか、一行で済んでしまった。カップが怒るとはどういうことなのか、ナナリーは気になったものの、ここで尋ねれば、せっかく兄が短くまとめてくれた説明がまた長くなりそうなので、聞かずにおくことにした。


 隣では、ナナリーの姿をしたシノンが腕を組み、机の上を見つめている。今日は羽ペンを渡してくれただけで、取り消しの言葉については何も言わなかった。術式の読み方は教えてもらえても、そこへ込める意思は、申請者であるナナリー自身が決めなければならない。


 いつもなら、分からないところを尋ねれば、彼が説明してくれる。今、その助け舟を待ってはいけないのだと思うと、羽ペンが少し重く感じられた。


 この三週間で、古代語はずいぶん読めるようになった。形だけで覚えようとすると今でも混ざってしまうが、文字の中の魔力の流れを追えば、前よりも意味を掴める。原本に残された終了の術式も、半分ほどは読めるようになっていた。


 問題は、その型の中へ入れる、自分の言葉だった。


 ナナリーは左のカップを見つめた。あれが自分の代わりに、右のカップへ何かを願い、仮の契約を結んでいる。今からそれを取り消す。難しく考えすぎなければ、言いたいことは一つのはずだ。


 羽ペンをインク壺へ浸し、古代語を一文字ずつ書いた。書き終えた紙を、二つのカップの間へ置く。


 ――ごめんなさい。なかったことにしてください。


 次の瞬間、カップががたがたと震え始めた。


 机の上で小刻みに跳ね、中の紅茶が波打つ。縁から溢れた茶色い滴が白いクロスへ広がり、光の糸は緩むどころか、ぴんと張り詰めた。きいきいと細い音まで響き、ナナリーは思わず椅子の背へ身を引いた。


「怒ってる! カップが怒ってる!」


「怒っておりますね」


 シルヴァンは、少しも慌てずに頷いた。


「なかったことに、という言葉は、申請の時の願いを、なかったものとして扱おうとしております。けれど、願いは確かにあったのです。あったものを、なかったことにはできません。それは取り消しではなく、否定でございます。この術は、願いそのものを否定する言葉を受け付けませんので、ご注意を」


「そういう大事なことは、先に教えておいていただけると嬉しかったです!」


 ナナリーは慌てて紙を引き寄せた。紙が離れると、カップの震えは少しずつ収まり、やがて紅茶の染みだけを残して静かになった。イリスの紋章が入った高価そうなカップが割れずに済んだことにほっとしながら、ナプキンでこぼれた紅茶を拭き取る。


 窓枠の上で、クロが片目を開けた。


「下手くそ」


「お菓子の時間が遠ざかったから、私に文句を言いたい。その気持ちは、受け取りました」


 クロはそれきり嘴を閉じたが、ナナリーとしてもそれ以上言い返す言葉がなかった。せっかく書いた取り消しの言葉は、またしても失敗に終わったのだ。


 ナナリーは濡れたナプキンを脇へ置き、紙に書いた言葉をもう一度読み返した。


 なかったことにする。それは、これまで何度も考えてきたことだった。試験の結果も、召喚の失敗も、香水瓶の蓋を開けたことも。


 見ないふりをし、片づければ終わったことになると思いたかった。


 けれど、床を拭いても召喚の経路は残っていた。今紅茶の染みを拭き取ったところで、願ったことまで消えるわけではない。


 ヤンの術は、その違いを曖昧にすることを許してくれない。


「お嬢さん。申請の時、何を願われましたか」


 シルヴァンに尋ねられ、ナナリーは手を止めた。


「頼りになって、近くにいて、自分を補助してくれて、できれば見た目がいい使い魔を」


「その願いは、間違っていましたか」


 少し考えた。試験前の現実逃避で、深く考えずに並べた条件だった。けれど、頼りになって、近くにいて、自分を助けてくれる誰かが欲しいという気持ちまで、間違いだったとは思えない。


 いまも分からないことがあれば、隣にいる彼へ顔を向けたくなる。難しい教本を一人で開くより、一緒に読める方が嬉しい。その気持ちを、なかったことにしたいわけではない。


「間違っては、いなかったと思います」


「では、その願いを否定せずに手放してください。願ったことは、願ったこととして認める。その上で、契約という形では叶えなくてよい、と書くのです」


 ナナリーは羽ペンを握り直した。


 願いは残してもいい。ただ、それを叶えるために相手を縛るのはやめる。頭の中で言い直すと、さっきより少し分かる気がした。


 左のカップへ目を向け、ゆっくり息を吐いた。蜂蜜と読めた時も、ヤンの絵の前で魔力の流れが見えた時も、文字や形を無理に覚えようとしている間は、何も掴めなかった。今も、早く終わらせなければと焦るほど、糸の細さばかりが気になっている。


 肩の力を抜き、もう一度見つめると、光の中にかすかな流れが見えた。左から右へ、細く、けれど途切れずに続いている。あれが、願いを相手へ届ける経路なのだろう。


 断ち切ればよいのではない。張り詰めたものを緩め、それぞれを元の場所へ返す。ナナリーは見えた流れを追いながら、言葉を選んだ。


 今度はゆっくりと、一文字ごとに魔力の通り方を確かめて書く。


 ――あなたを求めた願いは、確かにありました。けれど、その願いを、あなたを縛ることで叶えるのはやめにします。どうか、あなたのままでいてください。


 紙を二つのカップの間へ置いた。ナナリーは反射的にナプキンを握り、次の震えに備えたが、カップは動かなかった。


 光の糸が、ふわりと揺れる。張り詰めていた線がゆっくり緩み、たるみ、二つのカップの真ん中でほどけるように消えていった。


 後に残ったのは、紅茶の染みと、並んだ二つのカップだけだった。ナナリーはすぐには手を動かさず、その間の空間を見つめていた。窓から入る風が紙の端を揺らしても、もう糸が現れることはない。


「おお」


 最初に声を上げたのは、シルヴァンだった。


「見事でございます、お嬢さん。否定ではなく、手放すこと。縛ることではなく、解き放つこと。ヤンの終了の術式の本質を、これほど短い言葉で捉えられるとは。私が三年かけて研究してきたことを、お嬢さんはたった三週間で、それも紅茶を一度こぼしただけで」


「シルヴァン、三行で」


「見事でございます」


 ジョルジュに遮られ、今度も一行に収まった。ナナリーは笑いかけ、それから机の上の紙へ目を落とした。


 丸くてころころとした、相変わらずの自分の字だった。署名の最後に花を咲かせてしまうのと同じ字で書いた古代語が、今、本当に術を解いたのだ。羽ペンを持つ指へ、遅れて震えが伝わってきた。


 隣で、シノンが小さく息を吐いた。


「よくやった」


 顔を向けると、彼が笑っていた。目尻が少し下がった、蜂蜜と読めた時と同じ笑い方だった。その顔を見た途端、成功したのだという実感が胸いっぱいに広がった。


 こんなふうに笑ってもらえるのなら、もっと読めるようになりたい。次は紅茶をこぼさずに、ちゃんと終わらせたい。そう思いながら、ナナリーは紙に書いた最後の言葉を、もう一度目で追った。


 どうか、あなたのままでいてください。


 元に戻れば、彼は本来の顔で笑える。ナナリーも、自分の声で喜べる。それは、ずっと望んできたことだった。


 けれど、その後も彼が隣にいて、こうして笑ってくれるかどうかは、終了の術式には書いていない。


 ナナリーは紙の端をそっと押さえた。仮契約を解く言葉は見つかったのに、元に戻った後も会いたいと伝える言葉は、まだ書けずにいた。

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