↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
63/84

63 戻れたら、何をしましょう

 それから、ナナリーは市場を制覇していった。


 揚げたての芋の薄切りを一袋。香草と一緒に焼いた鶏の串焼きを二本。干し果物を練り込んだ素朴な焼き菓子を三つ。砂糖をまぶした揚げパンを一つ。林檎の果汁を搾ったものを一杯。途中で別の串焼き屋にも寄ったが、王子の胃袋まだ余裕があると言わんばかりに次を待っていた。


 近衛の両腕には、ナナリーが「後で食べる」と言って買った紙袋が、いつの間にか五つも抱えられている。それでも彼は真剣な顔のまま、一歩も遅れずについてきた。


「殿下の胃袋は、私がお守りいたします」


 何をどう守るつもりなのかは、聞かないことにした。少なくとも今のところ、胃袋に向かう食べ物を止めるつもりはなさそうだったからだ。


 一方、シノンは、鶏の串焼きを一本食べ終えたところで、ベンチに座り込んでいた。


「もう入らない」


「まだ一本ですよ」


「その前に栗とパンも食べた。これで限界なんだ」


 彼は外套の上から、ナナリーの小さなお腹をそっと押さえていた。ナナリーは、以前の自分なら、栗とパンと串焼き一本くらいでは満腹にならなかったはずだと思った。


 そういえば、入れ替わったばかりの頃、朝食でパンをお代わりしただけで、侍女たちに驚かれたことがあった。普段のシノンは、あまり量を食べないらしい。あのときは慌てて、落雷の影響で食欲が増したのだと言い訳したのだった。


 つまり現在シノンが満腹なのは、ナナリーの身体に収められている胃袋の問題ではなく、中に入っている人の問題だと言える。


「殿下って、あまり召し上がらないんですよね。こんなにたくさん入る胃袋なのに」


 ナナリーは四本目の串焼きを頬張りながら、隣へ腰を下ろした。


「むしろ君は、どうしてそんなに食べられるんだ」


 シノンが、手元の串を見て尋ねた。


「元に戻ったら、こんなに食べられないからです。今がチャンスだと思って」


「チャンス」


「自分の身体だと、食べたい気持ちと胃袋が合ってないから、すぐにお腹がいっぱいになっちゃうんです。でも、殿下のお身体なら、あれもこれも食べられる。こんなこと、一生に一度しかないと思うんですよね」


 最後の一切れを口に入れると、香草の香りと肉の旨味が広がった。どの屋台で買った串焼きも、それぞれに美味しい。食べ比べができる胃袋というのは、実に素晴らしいものだ。


「俺の身体が太ったら、どうする」


「え」


「騎士団長に絞られるのは、元に戻った後の俺だ」


 ナナリーは空になった串を持ったまま固まった。それから、王子のまだ余裕のあるお腹を見下ろす。


 シノンはいつも姿勢がよく、学院の制服でも礼服でも、すらりとした体つきを保っていた。生まれつきそうなのだと思っていたが、放課後の鍛錬を代わりに受けてみて、維持するための苦労も知ったはずだった。その苦労を、串焼きの香りですっかり忘れていた。


 近衛の腕に収まっている五つの紙袋が、急に言い訳の難しい証拠品に見えてきた。自分の身体ではないからと、少々調子に乗りすぎたかもしれない。


「殿下って、体形にも気を遣っていらっしゃるんですね」


「当然だろう。身体を鍛えるのも、公務のうちだ」


「なるほど。この素敵な体つきは、日頃の努力の成果だったんですね」


 何気なく口にすると、シノンが妙な顔をした。


「君は、俺の身体をそういう目で見ていたのか?」


「そういう目?」


 問い返してから、自分の発言がどう聞こえたのかに気づいた。ナナリーは慌てて弁解しようとしたが、なぜか言葉が出てこない。手に持った串を意味もなく持ち替えていると、シノンがますます面白そうな顔になった。


「いや、褒めてもらえたのは嬉しいよ」


「そういう意味で褒めたんじゃありません! 純粋な尊敬です。とにかく、今日食べた分は明日、騎士団長に少し多めに稽古をつけていただいて、帳尻を合わせますので、ご安心を」


「そうしてくれ」


 シノンはベンチの背にもたれ、ふっと笑った。まだお腹を押さえているのに、目元は少し緩んでいる。その笑い方を見て、ナナリーも肩の力を抜いた。


 ただし、明日の自分が今日の約束を聞いたら、同じように笑ってくれるかどうかは分からなかった。


 *


 夕暮れが近づくと、市場の屋台は一つ、また一つと明かりを灯し始めた。橙色の光が幌の下に広がり、昼間とは違う温かさで、行き交う人々の顔を照らしている。


 ナナリーとシノンは市場を離れ、川沿いのベンチに並んで座っていた。護衛の近衛は少し離れた場所で、紙袋を抱えたまま周囲を見張っている。食べ物の袋を五つも持っているのに、立ち姿だけは王城の廊下にいる時と変わらなかった。


 川面には夕日が長く伸び、流れに合わせて細かく揺れていた。向こう岸の家々では、煙突から夕食の支度の煙が立ち上っている。市場の呼び込みもここでは少し遠く、時折、荷車が石畳を通る音に紛れた。


 人混みを歩いている間、ナナリーは何度かシノンの手を引いていた。今の彼は、自分より歩幅が小さい。人の波に離されそうになるたび、王子の大きな手で小さな手を掴んで傍へ引き寄せた。


 フードがずれた時に覗いた彼の耳が赤く見えたのは、気のせいだったのだろうか。確かめるように見つめる勇気はなく、ナナリーは前を向いて歩き続けた。


 今も、手のひらに触れた温かさを思い出せる。自分の手を握っていただけだと言い聞かせても、指先の感触までは消えてくれなかった。


「今日は楽しかった」


 シノンが川面を見つめたまま言った。


「自分で買い物をしたのも、歩きながら物を食べたのも初めてだった。釣り銭も、初めてもらったし」


「釣り銭は、まだポケットに?」


「入っている。たぶん、ずっと取っておく」


 ナナリーは驚いて彼を見た。銅貨一枚を、ずっと。王城へ帰れば金貨に埋もれたような生活をしているはずなのに、今日の釣り銭は別らしい。


 それなら、ナナリーも、今日買ったものを何か残しておけばよかった。けれど、手元にあるのは空の串と紙包みで、近衛の持つ袋の中身もいつかは食べてしまうものばかりだった。銅貨のように大切にしまえるものが一つもないことが、少し残念になった。


「なあ」


 シノンが、川面から目を離さずに言った。


「戻れたら、何をしたい?」


 ナナリーは少し考えた。


 元の小さな身体に戻ったら――うぐいす色の髪と金色の瞳と、食べたい気持ちは人一倍あるのに、串焼き数本で満足してしまう胃袋に。


 制約の多いシノンの生活から離れられるのだから、もっと気楽な答えが出ると思っていた。


「試験で、二十位以内に入りたいです」


「前向きだな」


「お父様との約束を、今度こそ守りたいんです。それからジェニーと一緒に、王都で流行っているケーキ屋さんに行って、お茶を飲みながらお話がしたいです。それから」


 言いかけて、言葉を止めた。


 殿下と、また。


 そこまで浮かんだ言葉を、慌てて飲み込んだ。また書斎で古代語を読みたいのか、市場を歩きたいのか、馬車の中で一緒に笑いたいのか。どれもしたかった。何をするかは決められなくても、その未来に彼がいることだけは、自然に思い描いていた。


 けれど、元に戻れば彼は王子で、自分は伯爵令嬢だ。学院でもクラスが違う。今のように毎日会い、明日の予定を相談し、同じ書斎で机を挟む理由はなくなる。


 それでもまた会いたいと、当然のように願ってよいのだろうか。王子の予定がどれほど詰まっているかを知った今は、気軽に誘うのも難しく感じた。


「それから?」


 シノンに促され、ナナリーは膝の上の手へ目を落とした。


「それから、ジェニーと、また市場に来たいです」


 言いかけた言葉へ、親友の名前を重ねた。ジェニーと市場を訪れたいのも本心だったが、一番最初に胸の中で思い浮かべていたのは彼女ではない。


「ジェニーと」


「ジェニーと。今日食べられなかったものがあるので」


 ナナリーは顔を上げ、慌てて市場の方を指した。中ほどに、ひときわ長い行列のできていた屋台がある。白髪の老婦人が一人で切り盛りしていて、辿り着いた時には、最後の一切れが売れてしまった後だった。


「林檎と蜂蜜のパイ。あそこのおばあさんのパイ、すごく美味しいって評判なんです。月に一度しか売らないらしくて。次こそは、絶対に食べたいです」


「林檎と蜂蜜のパイ」


 シノンがゆっくり繰り返した。


「蜂蜜ばかりだな、君は」


「殿下が、最初に蜂蜜って読ませたからです」


「それはヤンのせいだ」


 二人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。百年以上も前に手稿を書いた人がいま、ナナリーの食欲の責任まで負わされている。


 笑い声が川のせせらぎに混ざり、ナナリーはもう一度、隣を見た。このまま他愛のない話をしていられたらよいのに。少し前までは、早く元に戻ることばかり考えていたのに、今日は夕日が沈むのさえ惜しかった。


 *


 帰り道、市場の出口に差しかかったところで、シノンが不意に足を止めた。


「少し待っていてくれ」


 彼が向かった先には、林檎と蜂蜜のパイを売っていた老婦人がいた。畳みかけの幌の下で、空になった木箱を片づけている。シノンはその前で足を止め、丁寧に何かを尋ねた。


 老婦人がにこやかに答える。シノンは頷き、外套の内ポケットから小さな手帳を取り出して、何かを書きつけた。


 ナナリーは、少し離れた場所からその様子を見ていた。周囲では店じまいの音が重なり、二人の会話までは聞こえない。


 何を尋ねているのだろう。王子の手帳といえば、公務の予定や魔術の覚え書きで埋まっていそうなものだ。それなのに今は、市場の片隅でパイ屋の老婦人の話を熱心に書き留めている。


 やがて手帳を閉じ、シノンが戻ってきた。


「何を聞いていたんですか?」


「少し、確かめたいことがあっただけだ」


 彼は手帳を内ポケットへしまった。釣り銭を入れたのと同じポケットだった。


 ナナリーはそれ以上尋ねなかった。パイのことだろうとは思ったが、材料かもしれないし、商売のことかもしれない。シノンなら屋台を見ていても、自分とは違う疑問を持つのだろう。次に売る日を聞いてくれたのかもしれないという考えは、期待しすぎないよう、そっと胸の中へ戻しておいた。


 夕暮れの石畳を、二人は並んで歩き出した。後ろからは、五つの紙袋を抱えた近衛がついてくる。少々買いすぎた気もするが、城へ戻ったらエルネットやロランにも分ければいい。そう考えると、もう少し買っておいてもよかったような気がしてきた。


 さすがにそれを口にすれば、シノンに呆れられるだろう。ナナリーは余計なことを言わないように、外套の袖の中で手を握った。


 戻れたら何をしたいか。その答えの続きを、今日は言えなかった。


 けれど次に市場へ来る時、隣にいてほしいのは誰なのか、もう分かっている。ナナリーは歩調を少し緩め、彼と肩が並ぶ位置へ戻った。


 シノンの手帳に何が書かれたかはわからなかったが、自分の中では、次もシノンと一緒に来たいという願いがはっきり形になっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。