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62 殿下、銅貨をご存じですか?

 王都の東の外れ、川沿いの石畳を三本ほど入った先に、下町の市場が広がっている。


 秋の午後の日差しは柔らかく、軒を連ねる屋台の幌を色とりどりに透かしていた。焼き栗のはぜる音、油の跳ねる音、呼び込みの声、子どもの笑い声。それらが混ざり合って、石畳の上でひとつの大きなざわめきになっている。


 風が吹くたびに、香ばしい匂いと甘い匂いが入れ替わり立ち替わり鼻先をくすぐり、ナナリーの胃袋は、市場の入口に足を踏み入れた瞬間から、ずっと歓声を上げていた。


「顔が、浮かれている」


 隣でフードを目深にかぶったシノンが、ナナリーの声で言った。


「浮かれてません。気分転換に来ているんです。王妃様だって、たまには勉強から離れなさいとおっしゃったでしょう」


「母上がおっしゃったのは、気分転換だ。屋台を全部回れとは、一言も」


「全部回るとは、まだ言ってないし」


「まだ、と言ったじゃないか」


 ナナリーは、聞こえなかったふりをして、自分のフードの端を引き下ろした。


 白百合亭での失敗を踏まえ、今日はつばの広い帽子も、色眼鏡も、季節外れのマフラーもやめた。代わりに王城の衣装係が用意してくれた、くすんだ茶色のフード付きの外套を羽織っている。下町の人々がよく着ている形のもので、金色の髪も、王子の美しい顔も、深いフードの陰にすっぽりと収まった。


 それでも、すれ違う人が時折、二度見をしていく。


「今の人、殿下に似てなかった?」


「まさか。殿下が、こんな所に来るわけないでしょう」


 ナナリーは、心の中で、こういう時くらいは、禁止されている変身の魔術を許してくれてもいいのになと思いながら、漏れ聞こえた「まさか」に深く感謝した。


 二人の少し後ろには、同じように地味な外套を着た若い男が、一定の距離を保ってついてきていた。王妃が護衛としてつけてくれた近衛だ。


 ナナリーは、その顔に見覚えがあった。入れ替わった翌日、王子の部屋へ見舞いに来て、ゆっくり寝てねと言ったら、一睡もせず殿下をお守りしますと誓ってしまった、あの勤務態度が花丸すぎる近衛だった。


「本日も、命に代えましても、殿下をお守りいたします」


 市場へ入る前、彼は外套の下で敬礼しながら、真剣な顔でそう言った。


「今日は、お忍びだから、命に代えなくていいよ。普通に、お守りしてくれれば」


「はっ。普通に、命に代えましても」


 何も伝わっていなかった。


 *


 最初の屋台は、焼き栗だった。


 大きな鉄鍋の中で黒い小石と一緒に栗が転がされ、殻の割れ目からほくほくと湯気が立ち上っている。ナナリーが一袋頼むと、屋台の主人が新聞紙を折った袋に、熱々の栗をざらりと流し込んでくれた。


「殿下、どうぞ」


 ナナリーは、袋をシノンの前に差し出した。シノンは、ナナリーの小さな手で、恐る恐る一粒つまみ上げる。


「熱い」


「殻を、こうやって剥くんです。爪を立てて、割れ目から」


 ナナリーが手本を見せると、シノンはそれを真似て慎重に殻を剥いた。中から出てきた黄金色の実を、しばらく珍しそうに眺めてから、口へ運ぶ。


 ナナリーの顔が、ぱっと明るくなった。


「甘い」


「でしょう? 王城の料理長の栗のお菓子も美味しいけど、焼いただけの栗も、すごく美味しいんです」


「料理として出てくる栗は、もう剥かれているからな。殻がついた栗を、自分で剥いて食べたのは、初めてだ」


 シノンは、二粒目に手を伸ばした。剥くのは、まだ少しぎこちない。けれど、その指先は、王城で古代語の教本をめくる時と同じくらい、真剣だった。


 次の屋台では、シノンが自分で支払いをしてみたいと言い出した。


 王子は自分で物を買ったことがないらしい。必要なものは、頼めば誰かが用意してくれる。代金も、誰かが払ってくれる。シノンは、ナナリーの財布から硬貨を一枚取り出し、蜂蜜パンの屋台の店主へ差し出した。


 店主の顔が、みるみる青ざめた。


「お、お嬢さん。これは、金貨では」


 シノンが差し出していたのは、王城で渡された財布の中で、一番立派に光っていた一枚だった。蜂蜜パン一つに、金貨を払う令嬢。屋台の主人は、お釣りを出そうとして、自分の小銭箱の中身では到底足りないことに気づき、さらに青ざめていた。


「殿下、それは、パン屋さんが一週間働いても手にすることができない金額です」


 ナナリーが慌てて囁くと、シノンは、ナナリーの顔で、珍しくきょとんとした表情を浮かべた。


「そうなのか」


「そうなんです。銅貨です。茶色い、小さいの」


 後ろから護衛の近衛が、さっと大銅貨を一枚差し出した。屋台の店主は、心底ほっとした顔でそれを受け取り、蜂蜜パンを二つ、紙に包んでくれた。


 お釣りとして小銅貨を一枚渡されると、シノンはそれを手のひらに載せ、しばらくじっと見つめていた。


「これが、釣り銭か」


「釣り銭です」


「初めて受け取った」


 王子の、初めての釣り銭。シノンは、その小さな銅貨を、大切そうに外套のポケットへしまった。ナナリーは、その仕草を見て、なぜだか胸の奥がくすぐったくなった。


 ナナリーがこうした買い物に慣れているのは、伯爵令嬢としては少々変わった育ち方をしたからかもしれない。


 七歳で領地を離れ、王都で暮らすようになってから、両親は領地と王都を行き来しながら、ナナリーたちの面倒を見てくれていた。両親が領地へ戻っている間は、兄たちと屋敷で留守番をすることになる。


 そんな時、兄たちは時々、ナナリーを下町の市場へ連れ出してくれた。もちろん、両親には内緒である。


 初めて市場へ行った日は、並んでいる食べ物の多さに驚いた。焼きたてのパンも、串に刺した肉も、砂糖をまぶした揚げ菓子も、屋敷の食卓では見かけないものばかりだった。兄たちに銅貨の使い方を教わり、自分で買った菓子をその場で頬張った時の嬉しさは、今でもよく覚えている。


 以来、両親が領地へ戻るたび、兄たちと市場へ出かけるのが密かな楽しみになった。もっとも、帰宅後に服についた食べ物の匂いを侍女に見つかり、こっそり出かけたことが露見したことも、一度や二度ではない。


 隣では、シノンが先ほど受け取った釣り銭を、もう一度ポケットから取り出して眺めていた。


 ナナリーにとっては見慣れた小銅貨一枚でも、彼にとっては初めての経験なのだ。


 そんな瞬間に立ち会えたことに、自然と心が弾む。


 蜂蜜パンを紙袋から取り出し、二人で歩きながら頬張った。外はさくっと香ばしく、中はふんわりと柔らかい。噛むと、とろりとした蜂蜜が口の中に広がる。


「歩きながら、食べていると母上の顔がチラつく。これはどうにもならないんだろうな」


 シノンが、ナナリーの声で、しみじみと呟いた。


「王子教育では、歩きながら物を食べるのは、絶対にしてはいけないことの一つだったから」


「今は、伯爵令嬢の身体だから、大丈夫です」


「伯爵令嬢も、普通はしてはいけないと思う」


「私は、よくしてました」


 シノンは、少し呆れたように目を細めた。それから、もう一口、蜂蜜パンをかじった。その鼻の頭に、蜂蜜が小さく一滴、ついていた。


 ナナリーは、思わず吹き出した。


「殿下、鼻に、蜂蜜が」


「どこだ」


「そこじゃなくて、もうちょっと上。あ、そっちじゃない」


 シノンがナナリーの小さな手で、鼻の頭のあちこちをこすっている。どこをこすっても、肝心の一滴にだけは触れない。ナナリーは笑いながら、自分の外套の袖で、その鼻の頭をそっと拭ってやった。


 拭ってから、気づいた。


 拭ったのは、自分の顔だった。けれど、今そこにいるのはシノンだ。ナナリーの顔をしたシノンが、ほんの少し目を見開いて、こちらを見上げている。


「……ありがとう」


 小さな声だった。ナナリーは、慌てて袖を引っ込め、残りの蜂蜜パンを一口で頬張った。顔が熱い。フードがあってよかったと、心の底から思った。

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