61 たぶん、恋だ(シノン視点)
シノンは考えた。建国祭の舞踏会。シャンデリアの下で、ナナリーが誰かの手を取り、ホールの中央へ導かれていく。そこまで想像して、眉を寄せた。
「今、彼女の身体で踊るのは俺だ」
「は?」
「彼女の身体には、俺が入っている。その身体がほかの男と踊るとしたら、踊るのは俺だ。どう思うも何も、俺自身の問題になる」
ギュスターは両手で顔を覆った。それから、指の隙間から絞り出すように言った。
「元に戻った後で、です」
「ああ、そういうことか」
シノンは、もう一度想像し直した。
元に戻った後、ナナリーは、うぐいす色の髪と金色の瞳をした、本来の姿で舞踏会へ来る。黄色か水色か、とにかく母親が張り切って選んだドレスを着て、壁際から料理のテーブルを見つめている。そこへ、別の男が近づいていく。たとえば、栗色の髪の穏やかそうな青年が。
ナナリーが、その手を取る。
曲が始まり、ホールの中央でくるりと回る。料理のことも、シャンデリアの魔石灯の数も忘れて、ほかの男の腕の中で、あの蜂蜜の顔で笑う。
「不愉快だ」
出てきた声は、自分でも驚くほど低かった。ギュスターが、ゆっくりと顔から手を下ろす。
「それだ」
「それ、とは?」
「それが恋だ。たぶん」
たぶん、という言葉が、妙に頼もしく聞こえた。十年かけても定義を知らない男が、それでも言い切ろうとしてくれた答えだった。
シノンは手を見下ろした。指の節が白くなるほど握りしめている。想像の中では、もう自分の身体に戻っていた。それでも、ナナリーの笑顔をほかの男へ譲るのは嫌だった。
「ギュスター。女心というものは、分かるものなのか」
「分かるわけない」
今度の返事には、たぶんがつかなかった。
「ジェニーが怒っているのか喜んでいるのか、十年経っても半分も分からない。笑っていると思ったら怒っていて、怒っていると思ったら照れている。どこで見分ければいいのか、いまだに見当もつかない」
「そうか」
シノンは胸へ手を当てかけてやめ、膝の上で組み直した。
「俺は今、その女性の身体にいる。それなのに分からない」
「殿下」
「少しくらい、彼女のことが分かるかと思っていた。階段で息が切れることや、髪の支度に時間がかかることは分かった。だが、身体は貸してくれても、心は貸してくれないらしい」
ギュスターはしばらく黙り、それから真剣に頷いた。
「心については、本人に聞くしかないでしょう。身体に入れたからといって、考えていることまで分かるなら、俺だって十年も苦労していない」
「君は、ジェニー嬢の身体に入ったわけではないだろう」
「例えです」
シノンは口を閉じた。先ほどから、友人の例えにことごとく難癖をつけている。恋の相談に向いていないのは、答える側より、聞く側なのかもしれなかった。
運動場から、誰かの笑い声が風に乗って届いた。シノンはその声を聞きながら、旧天文台で確かめた召喚術の条件を思い出していた。
頼りになり、近くにいて、自分を補ってくれて、できれば見た目がいい。
ナナリーが試験前に願った条件に、自分は当てはまっていた。術は、一か月もの間、ずっと自分を指し示していたのだという。彼女の書いた条件に、最も合う者として。
媚薬は、彼女の代わりにうなずいただけだ。もちろん、彼女が使い魔のつもりで書いた条件だということは、分かっている。それなのに、頼りになる相手として自分が選ばれていたことを、少し嬉しく感じていた。
本人に言えば、調子に乗らないでくださいと返されそうだったから、誰にも話さず胸の奥へしまっておいた。今なら、その嬉しさにも名前をつけられる気がした。
「これが恋、なのかもな」
ぽつりと漏らすと、ギュスターが真剣な顔で頷いた。
「そうですね、たぶん恋なのかも知れません」
二人は並んだまま、温室のガラス屋根を見上げた。恋の定義は、結局、最後まで分からなかった。分かったのは、症状の二つは監視で、残りのどれかが、たぶん恋だということだった。学院の講義なら、こんな曖昧な結論では答案を提出できない。けれど今は、ギュスターの言う、「たぶん」を否定したくなかった。
「それで、殿下」
「何だ」
「今後、どうするんですか?」
シノンは答えに詰まった。
恋だと分かったところで、何をすればいいのか。王子教育では舞踏会での令嬢の誘い方も、断り方も、角の立たない褒め方も山ほど習った。けれど、好意を寄せられた時の対応は教わっても、自分が誰かを好きになった時、どこから始めればいいのかは知らない。
「君はどうしたんだ。ジェニー嬢に」
「俺は十年、言えていない」
ギュスターは遠い目をして答えた。十年先輩の助言は、そこで途切れた。経験が長いことと、その先へ進む方法を知っていることは、別らしい。
シノンが次の質問を考えていると、ギュスターの方が先に口を開いた。
「元に戻ったら、殿下はどうするんですか?」
シノンは口を開きかけ、そのまま閉じた。
元に戻れば、ナナリーはドラクロワ伯爵家へ帰り、自分は王城で元の生活を取り戻す。王妃の行儀見習いという口実も、ジョルジュが部屋へ通う理由も、彼女と書斎で古代語を読む必要もなくなる。
元に戻るために、毎日勉強している。それが二人の目標だった。けれど、達成した瞬間、今のように会う理由が一つ残らず消えてしまう。
学院で顔を合わせることはできるだろう。挨拶も、話をすることも。だが、彼女は以前、自分から遠ざかるように歩いていた。人だかりの向こうに王子を見つけても、料理のテーブルへ向かう方を選ぶ令嬢だった。
書斎で机を拭き、分からないと額を天板につけ、それでも最後には笑うナナリーが、毎日目の前にいる。それを、いつの間にか当たり前だと思っていた。
夕方の風が蔦を揺らし、ベンチを通り過ぎた。制服の袖から覗く手首が冷え、シノンは組んだ手に少し力を込めた。
「ギュスター。元に戻るのは、いいことだよな」
ギュスターは、すぐには答えなかった。
その時、裏庭の小道の向こうから、二つの人影が近づいてきた。補習を終えたらしいジェニーと、その隣に、金髪の背の高い王子の姿がある。ナナリーだった。こちらを見つけると、大きく手を振って駆けてくる。夕日を背負った顔が、遠目にも楽しそうに笑っているのが分かった。
「二人とも、こんなところで何を話してたの?」
ジェニーが不思議そうに首を傾げた。
「魔術理論だ」
「魔術理論だ」
シノンとギュスターの声が、ぴたりと重なった。
ジェニーは二人を交互に見た。
「そんなに力を込めて言わなくても、分かるけど」
その隣で、ナナリーがにこにこしている。シノンは、彼女の笑顔から目をそらせなかった。さっきまで思い浮かべていた、ほかの男の腕の中で笑う姿とは違う。今、彼女は自分を見つけて、こちらへ来てくれたのだ。
元に戻ればこの笑顔は、うぐいす色の髪と金色の瞳をした本来の彼女の顔へ戻る。それは、間違いなくいいことだった。
なくして困るのは、入れ替わりではない。彼女が自分を見つけて、迷わず駆け寄ってくる理由の方だ。
ナナリーがベンチの前で足を止めた。近くで見る笑顔に、シノンの胸がまた落ち着かなくなる。元に戻るまでに答えを出さなければならない問題が、終了の術式のほかにも一つ増えていた。




