60 恋とは、何だ(シノン視点)
学院の裏庭には、もう誰も使っていない古い温室がある。
ガラスの屋根の半分は蔦に覆われ、中に残された南方の植物が、鉢からはみ出すほど葉を伸ばしていた。その脇には、塗装の剥げかけた木のベンチが一つだけ置かれている。昼間でも人通りは少なく、放課後ともなれば、聞こえてくるのは遠くの運動場のかけ声と、蔦の葉が風に擦れる音くらいだった。
シノンはベンチの端に腰を下ろし、ナナリーの小さな手でこめかみを揉んでいた。
食堂で女子生徒たちからナナリーを選ぶのかと、期待した目を向けられた彼女は、王子の顔で答えた。
『最初の一曲は、まだ誰とも約束していないよ。決めたら、一番に本人へ伝える』
食堂は一瞬だけ静まり返り、それから本人とは誰なのかで、天井が揺れるほどざわめいた。その「本人」が、あの時、カップの取っ手を握りしめていた自分のことなのかどうか、シノンにはまだ分からない。
そこまで考えて、シノンは眉を寄せた。
そもそも、最初の一曲の相手を選ぶのは自分だ。ナナリーが王子として答えたからといって、自分が返事を待つ側になるわけではない。
身体を借りているうちに、考え方まで令嬢の立場に慣れてしまったのだろうか。王子として誰を誘うか考えるより先に、伯爵令嬢として誘われるかどうかを気にしている。入れ替わったのは身体だけのはずなのに、役割の区別まで怪しくなってきた。
それも全部、食堂で起きた騒ぎが休講明けの授業が始まっても収まらなかったせいだ。廊下を歩けば視線が刺さり、教室に入れば囁き声が止み、席に着けば後ろの令嬢から、建国祭のドレスは何色にするのかと三度も尋ねられた。
まだ決まっていないと答えれば、「殿下は何色がお好きかしら」と相談まで始まる。その殿下本人が答えているのに、誰も気づかない。何度も王子の好みを聞かれるうち、シノンまで、自分が何色を着れば喜ばれるのか考えかけていた。
重症だと思い、こめかみを揉む指へ少し力を込めた。元に戻るまで、王子としての自分が無事に残っているか、心配になってきた。
ルルーナの一言は、たった一時間で学院の隅々まで行き渡っている。王子として噂には慣れているつもりだったが、伯爵令嬢として自分との恋を取り沙汰されるのは、まったく別の疲れ方をする。
「迎えの馬車は、まだか」
ベンチの反対の端で、ギュスターが腕を組んだまま尋ねた。
「あと半刻ほどだ。君は?」
「ジェニー嬢が補習を受けている。終わるまで待つ」
それだけ言うと、彼は温室の向こうに見える校舎へ目を向けた。いくつも並ぶ窓の中から、迷うことなく一つを見つめている。ジェニーがどの教室にいるかまで確かめてあるのだろう。
時折、裏庭の小道を女子生徒が通りかかった。ベンチの二人に気づくと、一瞬だけ足を止め、それから何事もなかったように歩いていく。
「ギュスター様と、ナナリー?」
「ジェニーを待ってるんでしょう。ギュスター様だもの」
漏れ聞こえた会話に、シノンは小さく息を吐いた。食堂ではあれほど騒がれた伯爵令嬢が、今は別の男の隣に座っている。それなのに、誰も疑問を抱かない。ジェニーしか目に入っていないという彼の評判は、学院では城壁のような堅固さを誇っているらしかった。
しばらく二人とも黙り、蔦の葉がさらさらと鳴った。シノンは膝の上で手を重ねたまま、昼休みから頭に居座っている問いを、もう一度考えた。授業中も、廊下でも、令嬢たちにドレスの色を聞かれている間も、その問いだけは出ていってくれなかった。
「ギュスター」
「何だ」
「恋とは、何だ」
ギュスターがむせた。口に何も入っていないのに喉を詰まらせたような音を立て、腕を組んだまま上半身を折り曲げる。咳が収まってから顔を上げた彼は、黒髪の下の鋭い目を、珍しく大きく開いていた。
「殿下」
周囲に人がいないことを確かめ、彼は声を落とした。
「今、何と?」
「恋とは何だ、と聞いた。君は初等科の頃からジェニー嬢を想っている。その道においては、俺より十年先輩だ」
「先輩と言われても困る」
「困らなくていい。定義を教えてくれ」
シノンは真剣だった。分からないことがあれば調べ、知らない言葉があれば意味を確かめる。王子として、学院の首席として、ずっとそうしてきた。恋という言葉を知ってはいても、自分の中で何をもってそう判断するのかは分からない。それなら、長く経験している人間に聞くのが、最も確実な方法のはずだった。
ギュスターは温室のガラス屋根をしばらく見上げ、それから深く息を吐いた。
「定義は知らない」
「知らないのか」
「知っていたら、十年も言えずにいないだろ」
説得力のある答えだった。とはいえ、ここで諦めては、何のために恥を忍んで尋ねたのか分からない。
「では、症状から考えよう」
シノンは膝の上で指を一本立てた。ナナリーの、小さく細い指だった。
「病の診断と同じだ。原因が分からなくても、症状が揃えば見当はつく。君がジェニー嬢に対して感じることを、一つずつ挙げてくれ」
「症状」
ギュスターは眉を寄せたものの、病人扱いには反論しなかった。腕を組み直し、少し考えてから口を開く。
「まず、目で追う」
「目で追う」
「気づくと見ている。教室でも廊下でも、どこにいるか探している」
シノンは、自分の場合に当てはめてみた。ナナリーを目で追っているか。追っている。学院の食堂でも、王城の廊下でも、彼女がどこにいるか、何をしているかは気にかけている。
「当てはまる」
「そうなのか? 相手は?」
「ナナリー嬢に決まっているだろう。彼女は俺の身体で何をするか分からない。目を離すと、扉に頭をぶつけ、近衛に一睡もしない誓いを立てさせ、王子の署名に花を咲かせる。見張っていなければ、俺の評判が持たない」
ギュスターは腕を組んだまま黙った。その沈黙が長くなるにつれ、シノンは、挙げた例が少し違ったかもしれないと思い始めた。
「殿下。それは監視です」
立てていた指を、そっと下ろした。
「では、次」
「笑顔が頭から離れない」
今度は、すぐに思い当たった。書斎の机に広げた教本と古い手稿、文字へ顔を近づけるナナリー。蜂蜜、と読めた瞬間、王子の顔いっぱいに広がった、心の底からの笑顔。
あの顔は、今も目を閉じれば浮かんでくる。初めて一語を読めたというだけで、あれほど嬉しそうに笑えるのかと驚いた。もっと難しい術式を解いた時の自分より、よほど誇らしげだった。
「当てはまる。蜂蜜の顔だ」
「蜂蜜の、顔」
「彼女が初めて古代語を読めた時の顔だ。俺の顔なのに、俺がしたことのない笑い方をした。あれが、ずっと頭から離れない」
ギュスターは、先ほどより長く黙った。
「自分の顔が知らない表情をしたから、気になっているだけでは?」
「その可能性も否定できない」
シノンは、再び指を立てかけてやめた。どの症状も、入れ替わりのせいで別の説明がついてしまう。自分の身体を見張っているだけなのか、自分の顔が珍しいだけなのか。それとも、ナナリーという人間を見ているのか。
考えるほど、判断が難しくなった。授業の問題なら、余計な条件は整理して取り除けばよい。だが、この場合は、入れ替わりという条件を取り除くために勉強している最中なのだ。
「三つ目は?」
シノンが尋ねると、ギュスターは少し考えた。
「相手が軽んじられると、腹が立つ」
白百合亭の窓際の席が蘇った。結婚したら、魔術も勉強も必要ありませんから。エミールの悪意のない声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに燃え上がった。
「当てはまる。先日、彼女の縁談の相手が、勉強は不要だと言った。悪い人間ではなかったのに、ひどく腹が立った」
「それは、今、殿下がナナリー嬢の身体にいて、自分が見下されたように感じたからでは?」
「俺も最初はそう思った。だが、自分の縁談を断った時には、あんなふうに腹が立ったことは一度もない」
ギュスターの眉がわずかに動いた。今度はすぐに別の説明を挙げず、シノンの顔を確かめるように見ている。
「四つ目。相手の前でだけ、素の自分が出る」
「当てはまる。彼女の前だと悪態がつける」
馬車の中で、思わず口にしてしまった言葉だった。ナナリーは聞こえなかったふりをしたが、言った自分には、驚くほどはっきり聞こえていた。
彼女の前では、感じよく笑い続けなくてもいい。呆れてため息をつき、言い返されて、つい笑ってしまう。王子としては褒められない態度もあるのに、その時間を、シノンは嫌だと思っていなかった。
「五つ目」
ギュスターはそこで少し言いよどんだ。耳の先が、ほんのり赤くなっている。
「相手が、ちゃんと食べているか気になる」
「当てはまる」
シノンは即答した。
「彼女は俺の身体で、恐ろしい量を食べる。朝はパンを三つか四つ。夕食でもおかわりをする。俺の書き物机の引き出しには、焼き菓子とドロップの缶を隠していた。没収したが、あの調子では、また別の場所に隠しているに違いない。食べすぎていないか、常に気になる」
ギュスターは目を閉じた。
「殿下。それも監視です」
シノンはベンチの背にもたれた。蔦の隙間から差し込む光が、膝の上にまだら模様を落としている。五つ挙げてもらい、二つは監視だった。残りも、確実とは言い切れない。
「難しいな」
「ああ」
「どの症状も、入れ替わりのせいで別の説明がついてしまう」
「殿下の場合は、特に」
二人は揃ってため息をついた。温室の中では、南方の植物の大きな葉がガラスに触れ、こつんと音を立てた。
「一つだけ、確かめる方法がある」
しばらくして、ギュスターが口を開いた。
「その人が、ほかの男と踊ったら、どう思う?」




