59 林檎で顔は、赤くなりません
最上級生が午後に受けるはずだった講義の一つが、教授の都合で休講になった。
次の講義まで時間をつぶそうと、ナナリーはギュスターと食堂へ向かった。昼食の時より人数は少ないものの、食器を動かす音に代わって、おしゃべりと笑い声が高い天井へ響いている。窓際の席に落ち着くと、調理場の人が昼食で余った林檎のコンポートを分けてくれた。
ありがたく受け取ったのに、いつものようには味に集中できない。ジェニーへ気持ちを打ち明けてから、頭の中がふわふわしたまま、なかなか地面へ戻ってこなかった。薄い琥珀色の蜜をまとった林檎は、確かに甘い。けれど、半分くらいしか舌に届いていない気がする。
「顔が赤いぞ」
向かいのギュスターが、短く指摘した。
「林檎のせい」
「林檎は赤いが、顔まで赤くしない」
もっともな指摘を受け、ナナリーは次の一口をすくった。今、王子の名誉を守るために傍にいてくれる人へ、その王子が好きになったと報告する勇気はない。林檎では無理なら、部屋が暑いということにしようかと考えていた時、通路を挟んだ斜め前から、よく通る声が聞こえた。
「ねえ、みんな聞いた? ロザリー様、建国祭に出られないんですって」
ルルーナだった。いつものように女子生徒たちの輪の中心で、身を乗り出している。その輪の端には、ナナリーの姿をしたシノンが、背筋を伸ばして紅茶を飲んでいた。
顔を見つけた途端、胸がまた落ち着かなくなった。好きだと分かっただけで、昨日まで普通に見ていた自分の顔が、こんなに見づらくなるとは思わなかった。
「えっ、どうして?」
「なんでも、怪しい香水で殿下を落とそうとしたらしいの。それが王妃殿下に見つかって、お屋敷で謹慎ですって」
「まあ」
「しかも、殿下にはっきり振られたらしいわ。殿下には、もう心に決めた方がいらっしゃるって」
ナナリーは、林檎を喉に詰まらせかけた。慌てて飲み込み、水へ手を伸ばすと、ギュスターが無言でグラスを寄せてくれる。
話が半分正しくて、半分違う。香水と謹慎は正しい。けれど、心に決めた方がいると言った覚えはない。自分の気持ちを確かめているところだと答えただけだ。それなのに、たった一晩で確かめ終わったことにされ、食堂へ届けられていた。
「それで、その心に決めた方って、誰なの?」
「それがね」
ルルーナは意味ありげに声をひそめた。もっとも、ナナリーの席にも十分に届いている。秘密を話す声にも、聞かせるための技術があるらしかった。
「ロザリー様のお屋敷の侍女の、従姉妹の、友達から聞いたんだけど。ロザリー様、最後にドラクロワ嬢へ、最初の一曲をお譲りしますっておっしゃったんですって」
ナナリーはグラスを置いた。随分遠くから届いた話なのに、その一言だけは、困るくらい正確だった。
女子生徒たちの視線が、一斉に輪の端へ向く。シノンは紅茶のカップを口元へ運びかけた姿勢で止まった。こちらから見ても、次の一口を飲むつもりがなくなったことは分かる。
「そう、我らがナナリーよ!」
ルルーナが、目を輝かせて身を寄せた。
「ねえ、本当なの? 殿下の心に決めた方って、あなたなの?」
シノンはゆっくりとカップを受け皿へ戻した。いつもの令嬢らしい微笑みを浮かべているが、口元にわずかな硬さがある。ナナリーはスプーンを握ったまま、心の中で返事を待った。違うと答えられたら、それはそれで胸に刺さりそうだ。けれど、違わないと言われても、今度は別の意味で困る。
「そういうお話は、殿下がお決めになることですわ」
昨日、ロザリーに言ったのと同じ答えだった。ナナリーは少し息をついたが、ルルーナはさらに嬉しそうな顔になった。
「否定しないのね!」
両手を胸の前で組み、彼女は、周囲の席にもよく聞こえる声で続けた。
「じゃあ、建国祭の最初の一曲は、ナナリーで決まりなのね!」
近くの話し声が途切れた。女子たちの輪を見ていた生徒が、今度はこちらへ顔を向ける。その隣の生徒もつられて振り返り、やがて窓際に座っていた生徒たちまで、ナナリーに注目し始めた。
ナナリーは、スプーンを口に入れたまま動けなくなった。斜め前では、自分の顔をしたシノンが、カップの取っ手に指をかけたまま、こちらを見ている。
ようやく自覚した恋心を胸に抱えているのに、本人へはまだ一言も伝えていない。ジェニーに打ち明けただけで、これほど顔が熱くなったのだ。今、何十人もの前で何を言えばよいのか、考えるだけで頭の中がいっぱいになる。
ナナリーはゆっくりとスプーンを口から抜いた。どうか、このまま林檎を食べているだけの人に戻らせてほしい。けれど、向かいのギュスターがわずかに身を寄せ、低く囁いた。
「殿下。皆、返事を待っている」
その殿下の返事を、自分も聞きたいくらいだった。ナナリーは助けを求めて斜め前を見たが、シノンもまた、まっすぐにこちらを見つめていた。




