58 かもしれない、では済みません
ロザリーが謹慎を言い渡された翌日の昼休み、学院の王族専用の休憩室には、ナナリーとジェニーの二人だけがいた。
庭に面した窓から、秋の光が柔らかく差し込んでいる。テーブルには、ジェニーが食堂から運んできてくれた昼食が並んでいた。牛肉の煮込みに、焼きたてのパン、小さな器に入った林檎のコンポートもついている。煮込みから立ち上る湯気と、パンの香ばしい匂いに、午前の講義で疲れた頭がほぐれる気がした。
ギュスターは、シノンと一緒に食堂へ向かっていた。たまには二人で話したいというジェニーに、半ば追い出されたのだ。
彼は、中身がナナリーだと分かっていても見慣れた王子とジェニーを二人きりにするのは、あまり嬉しくなかったらしい。最後まで扉の前で何か言いたそうにしていたが、ジェニーが笑顔で扉を閉めると、ようやく足音が遠ざかっていった。
ギュスターの気配が消えてから、ナナリーはロザリーの一件を話し始めた。誰かに聞いてほしかったことが、昨日から胸の中に溜まっていた。
ここぞとばかり、一気に話し終えてふぅと息をつく。
「それで、ロザリー様は建国祭に出られなくなったって、ルルーナが朝から得意げに話していたのね」
「ほんと、ルルーナは情報通だよね。新聞記者が天職かも知れない」
ジェニーは一瞬きょとんとしたあと、声を立てて笑った。
「もう、ナナリーったら。勝手にルルーナの将来を決めないであげて。本人は素敵な男性と結婚して、優雅な奥様になるつもりなんだから」
「でも、あれだけ情報を集めるのが上手なんだもの。絶対に向いてると思うんだけどな」
「本人に言ったら怒るわよ。でもそっか。ロザリー様はシノン殿下の婚約者候補から一抜けさせられちゃったんだ」
「まぁ、そういうことになるのかな」
シノンがもともとロザリーをどう思っていたのか、詳しく聞いたことはない。ただ、これまで二人が顔を合わせたときの様子を思い返しても、シノンが彼女に特別な好意を寄せていたようには見えなかった。誰に対しても穏やかで礼儀正しい人だから、ロザリーにも親切に接していたけれど、それが恋愛感情からくるものかどうかは不明だ。
「ざまあみろとは思わないけど、ナナリーが苦しそうだったところを見た身としては、少しスカッとしちゃったわ」
ジェニーは小さく息を吐き、パンをちぎった。
「でもロザリー様ったら、最後には笑ってたの。殿下に向かって、最初の一曲をお譲りしますって」
「殿下に?」
「正確には、私の顔をした殿下に」
「ややこしいわね」
「そう、ややこしいの」
ナナリーは煮込みの肉をフォークで崩しながら、昨日の応接室を思い出した。あれほど緊張した場にいたのに、今、いちばんはっきり浮かぶのは、ロザリーでも王妃でもなかった。
「でもね、シノン殿下はすごかったの。私の代わりに頭を下げてくれて。媚薬の夜のことを話してくださった時も、私が怖かったことを、ちゃんと分かってくれてて。手がね、白くなるくらい握りしめられてた。私のために怒ってくださってるんだって思ったら、胸が熱くなっちゃって」
「ふうん」
「それに、この前の馬車でも。私の前だと悪態がつけるって、ぽろっとおっしゃって。聞こえなかったふりをしたけど、本当は聞こえてて。あと、書斎で私が蜂蜜って読めた時、殿下が笑ったの。私の顔なのに、全然、私の笑い方じゃなくて。あの顔が、ずっと頭から離れないんだよね。元に戻ったら、再現してみようと思ってるんだけど」
「ナナリー」
ジェニーが、パンをちぎる手を止めた。
「さっきから、殿下の話しかしてないわよ」
ナナリーはフォークを持ったまま固まった。そんなことはないと言いかけ、自分が話した内容を頭の中で並べてみる。応接室の殿下、馬車の殿下、書斎の殿下。ロザリーの話をしていたはずなのに、本人の出番は最初の数秒だけだった。
「それは、昨日の事件の話をしてたから」
「そうかしら? 今の話を一冊の本にしたら、ロザリー様のことは最初の数ページで終わって、残りは全部、殿下のお話になりそうな勢いだったわ」
「シノン殿下は、事件の主要人物だから仕方ないでしょう? 物語だって、主人公の出番がいちばん多いもの」
「まあ。ナナリーの物語の主人公は、殿下なのね」
「そういう意味じゃないってば!」
言いながら、頼りない返しだと自覚した。主要人物だからという説明が正しいなら、ジョルジュについても同じくらい語れそうなものなのに、兄の話題を出すのをすっかり忘れていたからだ。
ジェニーはパンを皿へ置き、ナナリーをまっすぐ見た。王子の顔に気後れする様子はなく、いつも通り、返事をごまかすことを許してくれそうにない目だった。
「ねえ。媚薬って、もう抜けてるのよね?」
「抜けてるよ。あの夜、殿下が解いてくださったもの。次の日には、もう何ともなかった」
「じゃあ、今、殿下の笑顔が頭から離れないのは、どうして?」
ナナリーは口を開きかけ、そのまま黙った。
媚薬は、とっくに抜けている。あの夜、止めようとしても止まらなかった気持ちは、翌朝には消えていた。王子の顔になってしまった驚きの方がよほど大きく、目の前にいた自分の姿のシノンを、好きだと叫びたくなったわけでもない。
けれど、書斎で蜂蜜と読めた時、彼の笑顔を見て胸がとくんと鳴った。馬車の中で彼が吹き出した時には、つられて笑い、その笑い声をもう少し聞いていたいと思った。昨日、自分のために怒ってくれた時には、胸が熱くなった。
どれも、あの夜よりずっと後のことだ。薬のせいではないのなら、あの音も、熱も、自分の中から生まれたものだった。
「私、もしかしてだけど」
少しかすれた声が出た。窓の外では、庭の木から葉が一枚離れ、光の中をゆっくり落ちていく。ナナリーはそれを目で追いながら、続きを口にした。
「シノン殿下のことが、好きなのかもしれない」
「もしかして、かもしれない。まだごまかすの?」
ジェニーの指摘に、ナナリーは膝の上で手を握った。大きな手のひらがじんわりと汗ばみ、心臓の音が、自分にだけ聞こえるほど近くで鳴っている。
召喚術は、一か月もの間、ずっとシノンを指し示していたのだという。その間、ナナリーの心は一度もうなずかなかった。試験の掲示板の前で、順位を一つ下げる眩しすぎる優等生を、ひたすら睨んでいたのだから。
今も優等生で、教本を開かせるのが上手で、小言もなかなか厳しい。けれど、それだけではなくなっていた。分からないことを一緒に考え、できた時には笑い、困った時には傍にいてくれる。王子の顔より先に、そういう彼のことが浮かぶようになっている。
「そうだよね。殿下のことが好きだから、こうなるんだよね」
言葉にすると、胸の内でばらばらになっていた出来事が、一つにつながった気がした。困る理由を見つけたはずなのに、少しほっとしている自分もいる。ナナリーは顔を上げ、親友を見た。
ジェニーは柔らかく笑った。それから、少し意地悪そうに目を細める。
「でも、ナナリー。今のあなた、その好きな人の顔で言ってるのよ」
ナナリーは窓ガラスへ目を向けた。薄く映っているのは、金色の髪に青い瞳、王国でいちばん有名な美しい顔だ。その顔を赤くして、本人のことが好きだと語っていたことになる。
「ジェニー、その指摘はきついよ。まるで鏡を見ながら、自分に告白してるみたいじゃん」
「ふふ。自分が大好きな、自意識過剰な王子様ってことね」
ナナリーは両手で顔を覆った。恋に気づいた喜びに浸るには、借りている顔があまりにも不都合だった。




