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57 好きになってもらう方法

 ナナリーは、王子の口を開いたまま、言葉を探した。


 応接室の時計の針が、こち、こち、と二度鳴る間、誰も身じろぎしなかった。いつもはどこにいても聞こえる騎士団員の点呼の声も、空気を読んだのか聞こえてこない。


 ナナリーは、さっきシノンへ向けてしまった視線を、どうにかなかったことにできないかと考えた。けれど、一度見てしまったものは、もう取り消せない。召喚の術と同じだった。


「今は」


 ようやく出た声は、自分で思ったより落ち着いていた。


「今は、自分の気持ちを確かめているところなんだ。だから誰を見ているのか、ロザリー嬢に胸を張って答えられるほど、まだ自分でも分かっていない」


 嘘ではなかった。少なくともナナリーにとっては、少しも嘘ではない。


「ただ、誰かを選ぶ時は、薬や噂や誰かに睨まれたかどうかではなくて、自分で決めたい。それだけは、はっきりしているよ」


 ロザリーは、しばらく黙ってナナリーを見つめていた。それから、その視線がゆっくりと横へ動いた。ナナリーが、答える直前に助けを求めて見た方向へ。王妃の左隣、薄い水色のリボンで髪を結んだ、丸顔の伯爵令嬢の席へ。


 ロザリーの目が、そこで止まった。ナナリーの顔をしたシノンは、完璧な令嬢の微笑みを浮かべていたが、その頬がほんのわずかに赤らんでいた。


「そう」


 ロザリーが、小さく呟いた。


 その声には、もう棘がなかった。涙で濡れた睫毛を伏せ、膝の上の宣伝の紙を、丁寧に四つに折り畳んでいく。折り目に沿って指を滑らせるたびに、紙の角がかさりと鳴った。


「殿下は、ちゃんとご自分で、見ていらっしゃるのね」


 ナナリーは、どう返していいのか分からなかった。ロザリーが何を察したのか、察した中身が正しいのか、そもそも正しいとはどういうことなのか。


 自分の気持ちを確かめているところだと言ったばかりの口で、何を付け足しても、余計な誤解を増やすだけのような気がした。


 ロザリーは、折り畳んだ紙をテーブルの上の二本の瓶の隣へ置き、立ち上がった。薄灰色のドレスの裾を整え、王妃へそれから王子へ、深く頭を下げる。


「ご迷惑をおかけしました。香水のことも、ほかの令嬢の皆様にしてきたことも、申し訳ございませんでした」


 侯爵夫人も慌てて立ち上がり、娘の隣で頭を下げた。


「娘を焚きつけたのは、わたくしです。予備まで買い与え、殿下に選ばれなさいと何度も娘に言いました。この子だけの責任ではございません」


 侯爵は、妻と娘の後ろに立ち、黙って深く腰を折った。両手で顔を覆っていた時よりも、その背中は、ずっと父親らしく見えた。


 王妃は、三人の頭が下がるのを静かに見届けてから、扇子を膝の上に置いた。


「香水店の主人については、法に従って処分いたします。違法な濃度の品を、偽りの説明で売っていたのですもの。それから、ロザリー嬢」


 ロザリーの肩が、小さく震えた。


「建国祭を含め、今季の社交へのご出席は、控えていただきます。その間、ご家庭でもう一度、淑女としての学びをやり直していただけるかしら。人の心を薬で動かそうとしたこと、ほかの令嬢たちを怖がらせてきたこと。その二つについて、ご自分の言葉で考えるための時間です」


「はい」


 ロザリーは、顔を上げずに答えた。


「侯爵夫人にも、同じ時間をお願いしますね。娘のためと思って走り出す気持ちは、私にも分かりますけれど、誰かを傷つけるようなことは許されません」


「は、はい」


 侯爵夫人の声が、また少し裏返った。


 退出の間際、ロザリーは扉の前で足を止めた。振り返った彼女の視線は、王子ではなく、王妃の隣に座る伯爵令嬢へ向けられていた。


「ドラクロワ嬢」


 シノンが、ナナリーの顔で、静かに顔を上げた。


「建国祭の夜の、最初の一曲。お譲りしますわ」


 そう言ってロザリーは、泣いた後の腫れた目でほんの少しだけ微笑んだ。薄灰色のドレスの裾が、扉の向こうへ消えていく。


 ナナリーは、斜め向かいを見た。


 自分の最初の一曲を巡る宣戦布告を自分で受け、今度は、その一曲を自分に譲られたシノンが、ナナリーの顔でなんとも言えない表情を浮かべていた。


 *


 扉が閉まり、侯爵家の足音が廊下の向こうへ遠ざかると、応接室の空気が、ようやく緩んだ。


 ジョルジュが、二本の瓶と帳面を丁寧に布で包み始める。王妃はすっかり冷めた紅茶のカップを取り上げ、一口飲んで、少しだけ眉を寄せた。シノンは、膝の上で重ねていた手をほどき、長く息を吐いている。


 ナナリーは、立ち上がった。


「王妃殿下。シノン殿下。それから、お兄様」


 三人が、こちらを見た。


「さっきロザリー嬢は、瓶を勝手に開けたのはドラクロワ嬢の落ち度だとおっしゃっていました。その通りです。媚薬入りの香水瓶を開けたのは私です。殿下は、私の代わりに頭を下げてくださいました」


 膝の前で、両手を握りしめる。王子の大きな手は、自分の手よりずっと握りしめにくかった。


「好奇心に負けて、人の物を勝手に開けました。そのせいで殿下を巻き込んで、ロザリー嬢を泣かせて、お兄様まで紅茶を五杯も飲む羽目になりました」


「紅茶は、関係ないだろう」


 ジョルジュが、布を包む手を止めずに言った。


「申し訳ありませんでした」


 ナナリーは王子の身体で、深く頭を下げた。ジョルジュが咳払いをしかけて、やめた。今は、事情を知っている人しかいないことに気づいたのだろう。


 しばらくして、頭の上から、シノンの声が降ってきた。


「知ってるよ」


 顔を上げると、シノンがナナリーの顔で、少しだけ困ったように笑っていた。


「あの場で頭を下げたのは俺だが、君なら、きっとそう言うと思った。だから、先に言っておいただけだよ」


 ナナリーは、何も言えなくなった。


「ただし」


 シノンが、人差し指を立てた。


「元に戻ったら、ロザリー嬢には君の口から改めて謝ってくれ。俺の口で謝ったことは、俺の謝罪であって、君の謝罪ではない」


「はい」


 ナナリーは、もう一度、深く頷いた。胸の奥で、謝らなければならないことの数が一つ増えた。それなのに、不思議と、さっきよりずっと軽かった。


 その時、王妃が、冷めた紅茶のカップを受け皿へ置いた。陶器が触れ合う、小さく澄んだ音が、応接室に響く。


「シノン」


 穏やかな声だった。


「はい!」


 ナナリーは、反射的に背筋を伸ばして返事をしていた。この何週間か、王城の誰もがナナリーをその名で呼んできた。朝はロランが、昼は家庭教師が、夕方は騎士団長が。呼ばれれば返事をする。身体の方が、すっかりその名前に慣れてしまっていたらしい。


 王妃は、ナナリーの方を見ていなかった。その視線は、ナナリーの顔をした令嬢になった息子へ、まっすぐに向けられていた。


「あなたではありませんよ、ナナリー」


 ナナリーは、伸ばした背筋をそのままに、そっと椅子へ座り直した。耳の先が熱い。王子の耳は、恥ずかしさまで、ずいぶんよく伝えてくれる。


「先ほど、俺、と聞こえましたけれど」


 王妃の声は、少しも荒くなかった。扇子を膝の上に揃えたまま、微笑みさえ浮かべている。それなのに、応接室の温度が、すうっと一段下がった気がした。


「王子が俺だなんて。どこで覚えてきたのかしら」


 ナナリーの顔が、ぴしりと固まった。


「それに、今のあなたは、よそのお嬢さんのお身体をお借りしているのでしょう。ドラクロワ嬢のお顔とお声で、そのような言葉をお使いになるものではありません。元に戻った時、ドラクロワ嬢の口癖が、俺、になっていたら、どうするのです。マリアナ様に、私は何とお詫びすればいいのかしら」


 シノンは、膝の上で手を揃え直した。それからナナリーの声で、小さく言った。


「……失礼しました、母上」


 ナナリーの声で、母上、と呼ぶ王子。その横で、ジョルジュが布を包む手を止め、天井の一点を見つめていた。笑いをこらえる時の兄の癖だった。


 ナナリーは、なぜか自分まで膝の上で両手を揃え、小さくなっていた。叱られているのはシノンだ。それは分かっている。それなのに、王妃の穏やかな声を聞いていると、背中のあたりがむずむずと落ち着かない。まるで、自分が叱られているような気分だった。


 この感じには、覚えがあった。


 ドラクロワ家の居間で、母マリアナがにこやかに紅茶を飲みながら、「膝はもう少し曲げて」と言う時。声は優しいのに、逃げ道はどこにもない。叱っているのではなく、言い聞かせているのだと分かっているのに、なぜか叱られるよりも身が縮む。


 王妃とマリアナは、まるで違う人のはずだった。一人は王国の王妃で、一人は堅実を家風とする伯爵家の夫人だ。住む場所も着るドレスも、背負っているものの重さも何もかも違う。


 けれど、子どもを言い聞かせる時の声の温度だけは、驚くほど同じだった。


 母親という職業に、身分は関係ないらしい。


 ナナリーは妙に深く納得しながら、もう一度、膝の上で手を揃え直した。


 王妃は、息子がうなだれるのを見届けると、ようやく満足したように扇子を開いた。それから二人を交互に見て、扇子の陰で小さく微笑んだ。先ほどの言い聞かせる母親の微笑みとは違う、何かを面白がっているような微笑みだった。何を思っての微笑みなのかは、ナナリーにはまだ分からなかった。

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