56 香水では、隠せない気持ち
「ロザリー嬢」
低い声で呼びかけると、彼女の肩がびくりと震えた。
「香水の中身について、ご存じなかったことは分かった。でも、もう一つ、確かめておきたいことがあるんだ」
ロザリーが、おずおずと顔を上げる。ナナリーは、その目を見てから続けた。
「前の夜会で、僕と踊った令嬢を後で呼び出して、身分をわきまえろと叱ったと聞いた」
ロザリーの顔が強張った。
「それから白百合亭の前で、ドラクロワ嬢に、ずいぶん冷たい声で話していたね。僕には、聞こえていないと思っていたかもしれないけれど」
耳の奥に、あの夕暮れの通りで聞いた声が蘇った。
『建国祭の夜、殿下の最初の一曲は、わたくしがいただきます』
ナナリーの姿をしたシノンは、完璧な微笑みでその言葉を受け止めていた。自分を取り合う宣戦布告を、自分に向けて受ける。考え直してみても、王子教育で練習する機会はなさそうな状況だった。
あの時、ナナリーは彼が気の毒だと思った。今思い返すと、それだけではなかった。彼が何を望んでいるのかも確かめず、すでに手に入るもののように話されていたことが、胸に引っかかっている。
「僕と話してくれる令嬢が、ほかの誰かを怖がって近づけなくなるのは嫌だ。誰と話すか、誰と踊るかは、僕が決めたい。それに、相手の令嬢にも、選ぶ自由があってほしい。誰かに睨まれるのが怖いから、という理由で、僕から遠ざかる人がいるのは、悲しいことだと思う」
言い終えてから、自分の声が少し震えていたことに気づいた。
ナナリー自身、ロザリーに睨まれるのが怖くて、夜会では王子のいる方角を避けて歩いてきた。料理のテーブルへ移る時まで、王子の動線を見計らっていたくらいだ。それは何もナナリーだけに限ったことではない。魔術学院の女子は、王子の学友だというだけで目の敵にされる。余計な面倒を避けるためには、それが一番だと、多くの女子がそう思っている。
けれど、避けて歩く自分たちだけでなく、避けられるシノンも、そのたびに誰かと話す機会を失っていたのだ。いつも微笑んでいるから、気にしていないとは限らない。白百合亭の前で、彼が自分の顔で笑っていたことを思い出すと、今度はその微笑みが痛ましく感じられた。
斜め向かいを見ると、シノンがこちらを見ていた。少し目を見開き、言いかけた言葉を飲み込むように唇を閉じている。ナナリーは、自分の発言を頭の中で確かめた。王子らしくないことを言っただろうか。けれど、彼の表情には、いつもの「余計なことを言うな」という呆れも、咎める厳しさも見当たらなかった。
今の言葉は、ナナリー自身が睨まれたくないから言ったのではない。シノンに向けられた、あの勝手な宣言が嫌だったからだ。彼にも、そう伝わっているだろうか。
先ほどナナリーが苦しんだことを語る彼の手に、力がこもっていた。いま自分の手にも、同じように力が入っている。彼の怒りを見て胸が熱くなった理由が、少しだけ分かった気がした。
自分のことなら、失敗したのだから仕方がないと、飲み込もうとした言葉もある。けれど、シノンがどう扱われても仕方がないとは、思えなかった。彼も、あの夜のナナリーについて、そう思ってくれていたのかもしれない。
テーブル越しに目が合ったまま、ナナリーは少しだけ笑いそうになった。自分の顔をした彼をかばい、その彼からは、王子の顔をした自分をかばってもらっている。誰のために何を言っているのか、ほかの人へ説明するには、まず紙と筆が必要そうだった。
応接室には、長い沈黙が落ちた。窓の外で小鳥が一声鳴き、カーテン越しの光が、冷めた紅茶の表面を淡く照らしている。先ほどから一度も使われていないティースプーンが、ひどく場違いに明るく見えた。
やがて、ロザリーの肩が小さく震え始めた。
「わたくしは」
かすれた声とともに、膝の上の手の甲へ、一粒の雫が落ちた。
「ただ殿下に、一度でいいから、わたくしを見ていただきたかったのです」
侯爵夫人が、ためらうように娘の肩へ手を置いた。その手が、かすかに震えている。侯爵はうつむいていた顔を上げたが、何も言わず、娘が続けるのを待っていた。
「殿下は、いつも、誰にでも同じお顔で微笑まれる。わたくしにも、ほかの令嬢方にも、同じお顔で。わたくしは、それがずっと苦しかった。だから、ほかの令嬢方が殿下に近づかなければ、殿下はわたくしだけを見てくださるかもしれないと思って。香水をつければ、殿下のお心が少しでもわたくしの方へ向くかもしれないと思って」
ナナリーは、すぐには何も言えなかった。誰にでも同じ顔で微笑む王子。それはつい先日、馬車の中でシノン自身が口にしていたことだった。好きな花一つ、本当のことを言えば、誰かの得になり、誰かの損になる。だから、誰にでも同じ顔で笑っている。
その笑顔を保つためにシノンが苦労していることを、今のナナリーは知っている。けれど、向けられる側にも、苦しさはあったらしい。
だからといって、ほかの令嬢を怖がらせてよいことにはならない。それでも、ロザリーの涙と、その肩に置かれた母親の震える手を見ていると、ただ怖い人だと思って避けていた頃のようには、簡単に割り切れなかった。
ロザリーは、涙に濡れた目で、王子の姿をしたナナリーをまっすぐ見つめた。
「殿下。一つだけ、お聞かせください」
声は震えていたが、その目には、薄灰色のドレスに似合わない強い光が残っていた。
「わたくしでないのなら、殿下はどなたを見ていらっしゃるの?」
ナナリーは息を止めた。王妃は扇子を閉じたまま、静かにこちらを見ている。侯爵夫妻も、ジョルジュも、視線を王子の顔へ向けた。そして、テーブルの斜め向かいからは、その答えを本来持っているはずのシノンまで、ナナリーを見つめていた。
誰を見ているかと聞かれれば、さっきから殿下を見ています、と答えられる。けれど、その返事をしたら、今度はどんな誤解に発展してしまうのだろうか。夕食の席で口にした「好きかも」の後始末さえ、まだ終わっていない。
ナナリーは王子の口を開きかけ、助けを求めるようにシノンを見た。その視線まで答えの一部にされそうだと気づいた時には、もう遅かった。




