55 念には、念を入れて
「は、はい」
侯爵夫人の声が、わずかに裏返った。
ほんの数秒前まで、娘の隣で神妙にうなだれていた夫人の背中が、今は板でも差し込まれたように真っすぐ伸びている。長椅子の背と身体の間に収めたはずの手提げ袋が、その拍子に、ずるりと座面へ滑り落ちた。刺繍入りの袋の口から、小さな透明の瓶がころりと転がり出る。
テーブルの上に置かれた証拠の瓶と、まったく同じ形だった。
応接室の全員の視線が、二本の瓶の間を往復した。侯爵が娘を見る時と同じ顔で、今度は妻を見ている。ロザリーも目を丸くして母親を見上げていた。
「お母様?」
「ち、違うのよ、ロザリー。これは、その」
侯爵夫人は、転がった瓶を慌てて拾い上げて両手の中に握り込んだ。もう隠す意味はなかったが、手の方がまだ諦めきれていないらしい。
「あの子が、殿下のために香水を選んだと聞いて、わたくしも一緒にお店へ行ったのです。それで、もし夜会の途中で使い切ってしまったら困るでしょう。ですから、念のため予備にもう一本」
「お母様、十倍長持ちするのに?」
ロザリーが、心底不思議そうに首を傾げた。
「念には、念を入れて」
侯爵夫人が、娘とそっくりな真剣さで答えた。
バディスト侯爵が両手で顔を覆った。本日二度目となる今回は、指の隙間から長い長いため息が漏れていた。
ナナリーは、侯爵夫人の手の中にある小瓶を見つめた。
まさか、同じ香水がもう一本あったとは。しかも、娘が困らないようにと用意したものらしい。ロザリーだけでなく、侯爵夫人まで店主の説明を信じていたのだと思うと、ますます香水店の売り方が悪質に感じられた。
何より、あの瓶が夜会で使われずに済んだのは幸運だった。もし二本とも開けられていたら、いったい何人が巻き込まれていたことだろう。
ナナリーは思わずシノンへ目を向けた。彼もまた、侯爵夫人の手元をじっと見つめていた。
娘の恋のために、念には念を入れて、違法な香水の予備まで買っていた母親。その姿に、ナナリーは自分の母を重ねずにはいられなかった。マリアナも、娘の縁談のためならドレスを何着でも仕立て、知り合い全員に手紙を書く。娘のためと信じて走り出したらなかなか止まらないところは、どこの家の母親も同じなのかもしれない。
ジョルジュが静かに進み出て、侯爵夫人の前に手を差し出した。
「お預かりいたします」
侯爵夫人は、しばらく両手の中の瓶を見つめていた。それから、観念したように、そっとジョルジュの手のひらへ乗せた。テーブルの上に、同じ形の瓶が二本並ぶ。午後の光を受けて、二つの瓶は、何事もなかったかのように綺麗に輝いていた。
「ロザリー嬢も、夫人も、違法な濃度だとご存じなかったことは、よく分かりました」
王妃が、膝の上で扇子を軽く揃え、静かに言った。
「ですが、その香水が、どのような被害をもたらしたのか。それは、知っておいていただかなければなりません」
王妃の視線が、シノンへ向いた。
「ドラクロワ嬢。あの夜のことを、お話しいただけるかしら」
ナナリーの背筋が、ぴんと張った。シノンがナナリーの姿で、ナナリーとしてあの夜を語る。けれど、媚薬に苦しんだのは自分で、彼はすぐ傍で助けてくれた側だった。入れ替わりに巻き込まれた上に、今度は被害を訴える役まで引き受けることになった彼が、何をどう話すのか。ナナリーは膝の上で手を重ね、息をひそめた。
シノンは、ゆっくりと顔を上げた。
「あの夜、私は、会場で拾った瓶の蓋を、回廊で開けて、香りを嗅ぎました」
穏やかな声だった。けれど、その底には、普段の小言とは違う、静かな硬さがあった。
「すぐに、胸が苦しくなりました。目の前にいた方を、好きだと思う気持ちが止まらなくなったんです。好きです、と口にしたくないのに、勝手に言葉が出ていく。逃げてほしいのに、傍にいてほしい。自分の気持ちなのに、自分のものではない。それが、一番怖かった」
ナナリーは息を呑んだ。あの夜、胸の内で起きていたことを、シノンが言葉にしている。どうして分かるのだろうと思いかけて、すぐに、雨の東屋で自分が何を叫んだかを思い出した。
好きですと言い、逃げてくださいと懇願し、膝を抱えて震えていた。その全部を、シノンは見ていたのだ。今まで思い返すたびに恥ずかしくなっていた言葉を、彼はただの恥ずかしい失言として聞き流してはいなかった。
「最後には、息をすることさえ難しくなりました。もし、あの時、助けてくださる方がいなかったら、私は」
声が一度途切れた。膝の上で重ねられた小さな手に、ぎゅっと力がこもり指の節が白くなる。ナナリーは、見慣れた手を見つめた。
彼は怒っているのだと感じた。いま語っているのは、王子の身体を奪われたことでも、使い魔の候補にされたことでもない。ナナリーが、薬のせいで自分の気持ちさえ分からなくなり、息もできずに苦しんだことだ。自分の顔に浮かんだ硬い表情を見ていると、あの夜の苦しさを、彼も軽く扱うつもりはないのだと思えた。
胸の奥が熱くなった。怒っている人を見て少しほっとするなんて、おかしなことだ。けれど、ナナリーが怖かったと思っていることを、彼も怖いことだったと認めてくれている。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「誰かを好きになる気持ちを、薬で無理やり作り出すのは、その人の心を、勝手に書き換えることです。ロザリー様が、それをご存じなかったことは分かります。でも、ご存じなかったからといって、あの夜、苦しんだ人がいたことは消えません」
ロザリーの顔から、血の気が引いていった。膝の上で握っていた宣伝の紙が、かさりと音を立てる。
「でも、それは」
震える声で、彼女が口を開いた。
「ドラクロワ嬢が、人の物を勝手に開けたからではありませんの? 拾った物を、持ち主に届けずに、蓋を開けて嗅ぐなんて。それは、ドラクロワ嬢の落ち度ではなくて?」
ナナリーの喉が、ひくりと鳴った。その指摘は、否定できない。好奇心に負け、優秀な魔術師には探究心が必要だとかいう、どこの本で読んだかも覚えていない教えを言い訳にして、他人の瓶を勝手に開けたのは自分だった。
蓋を開けたのは私です、と言いたかった。シノン殿下は何も悪くない、とも。けれど、今の自分は王子だ。その顔で名乗り出たら、香水瓶の持ち主を確かめる話が、身体の持ち主を確かめる話に変わってしまう。ナナリーは唇を噛み、出かけた言葉を押しとどめた。
「おっしゃる通りです」
シノンが、静かに頭を下げた。
「拾った物を勝手に開けたのは、私の落ち度です。そのことは、心から反省しております」
ナナリーは目を見開いた。彼が、自分の代わりに頭を下げている。王子が、伯爵令嬢の姿で、その令嬢の非を認めているのだ。伏せられたうぐいす色の髪を見つめるうちに、膝の上の手へ力が入った。
元に戻ったら謝ろうと思っていたことが、また一つ増えた。今度の一つは、ただ、謝罪の数に加えて済ませたくない類のものだった。
「ですが、ロザリー様」
顔を上げたシノンは、声を荒らげずに続けた。
「私が開けなければ、被害に遭わずに済んだかもしれません。でも、香水そのものが安全だったことにはなりません。たとえば、ロザリー様ご自身が夜会でおつけになっていたら。その香りを嗅いだ殿方が、ご自分の意思とは関係なく、ロザリー様を好きだと言い始めていたら。それは、ロザリー様が本当に望んでいたことでしょうか」
ロザリーは何も言い返さなかった。唇を噛み、テーブルの上の二本の瓶を見つめている。午後の光を受けた瓶は、相変わらず綺麗だった。あの夜、自分がつい手に取ってしまったのも、この何でもなさそうな見た目のせいだったと思うと、ナナリーはそこから目をそらせなかった。
しばらくして、ナナリーは握りしめていた手を開いた。シノンが、自分の代わりに非を認め、苦しかったことを伝えてくれた。それなら、自分にも言わなければならないことがある。今、この場で王子の顔をしている自分にしか、切り出せないことだった。




