54 香水のつもりでは、済みません
王妃の応接室は、王城の東翼に位置し、大きな窓から柔らかな陽光が差し込む、明るい部屋だった。
壁には淡い若草色の絹が張られ、窓辺の長いカーテンが午後の光を柔らかく濾している。暖炉の上には白いイリスが活けられ、磨き上げられた丸テーブルには、紅茶のカップが六つ並んでいた。
ナナリーが席についてから、誰もカップへ手を伸ばしていない。やがて湯気も消え、部屋には時計の針が進む微かな音だけが残った。
ナナリーは王妃の右隣で、王子らしく背筋を伸ばして座っていた。膝の上に重ねた手のひらが、じっとりと湿っている。応接室の空気は、学院の試験会場よりも重かった。試験なら分からないところを空欄にして提出することもできるが、今日は何も答えずに帰れる気がしない。
向かいの長椅子には、バディスト侯爵と侯爵夫人、そして、その間にロザリーが座っている。今日の彼女は、いつもの華やかなバラ色ではなく、控えめな薄灰色のドレスを着ていた。髪飾りも扇子もなく、膝の上で両手を固く握りしめたまま、テーブルの一点を見つめている。
王妃の左隣には、ナナリーの姿をしたシノンが座っていた。今日は行儀見習いとしてではなく、媚薬を嗅いで苦しんだ被害者として、この場に呼ばれている。
そう考えるたびに、ナナリーの胃の辺りが、きゅっと縮んだ。
実際に媚薬を嗅いで苦しんだのは、自分だ。それなのに、被害者の席には、自分の身体を借りたシノンが座り、自分は王子に与えられた席から彼を見ている。しかも、瓶の蓋を勝手に開けたのもナナリーだった。被害を受けたことは確かだが、自分の軽率さまでなかったことにはできない。王子の顔で、被害者を気遣うように座っているのが、何とも落ち着かなかった。
「では、ジョルジュ」
王妃ソフィアが静かに促した。
部屋の隅に控えていたジョルジュが、魔術師団の制服の襟を正して進み出た。テーブルの上へ、小さな透明の香水瓶、古びた帳面、魔術師団の印が押された鑑定書を、順番に置いていく。
「こちらが、王城で開かれた夜会の際に、ドラクロワ伯爵令嬢が拾った香水瓶です。中身を鑑定したところ、規定の濃度をはるかに超えた媚薬であることが判明しました。そして、こちらが、先日摘発した香水店の販売記録です」
ジョルジュは帳面を開き、一行を指で示した。
「夜会の前日、この品を購入した客の中に、バディスト侯爵家、ロザリー嬢のお名前がございます」
バディスト侯爵の顔から、みるみる血の気が引いた。恰幅のよい身体を硬くし、娘の横顔を見つめている。侯爵夫人も口元へ手を当てたまま、動かなかった。
ロザリーがゆっくりと顔を上げた。その視線は、テーブルの小さな瓶へ吸い寄せられている。
「それは、わたくしの香水ですわ」
かすれた声だった。
「なくしたと思っていましたの。夜会でつけようとして取り出したのですが、なかなか勇気が出なくて。手の中で握りしめたまま会場を歩いていたら、どなたかとぶつかって。気がついたら、持っていなかったのです」
ナナリーは、あの夜を思い出した。
ローストビーフのことばかり考えて歩いていた時、急に向きを変えた人と肩がぶつかった。顔を上げると、ピンクゴールドの髪が見えた。あの時、ロザリーが焦ったような顔をしていたのは、瓶をなくしたことに気づいたからだったのかもしれない。
落とした人も、拾った人も、同じ部屋にいる。ただし、拾った本人は、王子の顔で黙って座っている。説明したくてもできない状況がもどかしい。
「ロザリー嬢」
王妃が穏やかに尋ねた。
「その香水がどのようなものか、ご存じでしたか」
「好印象を与える香水だと、伺っておりました」
ロザリーは、握りしめていた手を開いた。その中には、何度も折り畳まれ、角の擦り切れた小さな紙があった。香水と一緒に渡された、宣伝の紙らしい。
「お店のご主人が、わたくしのために特別に調合してくださったものです。ここに、効能も書いてありますわ」
彼女は紙を広げ、真剣な顔で一字一句、丁寧に読み上げ始めた。
「一滴で、紳士の視線を独り占め。効き目十倍。あなたの恋の、はじまりに」
誰も返事をしなかった。
バディスト侯爵が両手で顔を覆い、侯爵夫人は口元に当てていた手をゆっくり額へ移した。ジョルジュの小さな咳払いが聞こえる。王妃は手元の扇子を静かに閉じると、ロザリーへ穏やかな眼差しを向けた。
「ずいぶん大げさな宣伝文句ね。けれど、これを読んだだけで、危険な薬が使われていると気づくのは難しいでしょうね」
その言葉に、ロザリーの強張っていた肩が、わずかに下がった。
シノンはナナリーの顔で、完璧な令嬢の微笑みを保っていた。ただ、その微笑みは、石膏で固めたように動かなかった。
「ロザリー」
顔から手を離した侯爵が、絞り出すように言った。
「お前はそれを読んで、何もおかしいと思わなかったのか」
「何がですの、お父様」
ロザリーは首を傾げた。父親がなぜそんなことを尋ねるのか、本当に分かっていないように見える。
「効き目十倍だなんて、怪しいと疑わなかったのか」
「十倍というのは、香りが十倍長持ちするという意味ですよと、お店のご主人がおっしゃっていましたもの。普通の香水は半日で消えてしまいますけれど、これなら夜会の最後まで香りが続きますでしょう?」
ロザリーは、紙へ視線を落とした。
「殿下と最後の一曲を踊る時にも、ちゃんと香っていてほしかったのです」
侯爵の肩が落ちた。長椅子へ座っているのに、その身体がさらに沈み込んだように見えた。
ナナリーは、膝の上で重ねた手をそっと握り直した。
夜会の最後まで、好きな人にいい香りだと思ってもらいたい。ロザリーが望んでいたのは、ただそれだけだったのだろう。少しでも自分を魅力的に見せたくて、店主の言葉を信じてしまった気持ちは、ナナリーにも分かる気がした。
そもそも、自分だって表紙の格好よさに惹かれて、ろくに中身も確かめずに召喚書を買ったのだ。買った瞬間、まさかこんな騒動につながるとは、夢にも思っていなかった。
ナナリーは、俯いたロザリーを見つめた。好きな人に振り向いてほしいという願いを、商売のために利用した香水店の主人が、今さらながら腹立たしかった。
その時、視界の端で、侯爵夫人の手が動いた。
膝の上に置いていた刺繍入りの小さな手提げ袋を、そっと腰の脇へ移している。袋は、長椅子の背と身体の間へ収まった。その口から一瞬、見覚えのある形の小さな瓶の蓋が覗いた気がした。
ナナリーは視線を戻した。
同じ店の商品とは限らない。香水瓶など、似た形のものはいくらでもある。今日はもう、これ以上の情報を受け止める余裕がなかった。
ところが、王妃の扇子が、ゆっくりと閉じられた。
「侯爵夫人」
穏やかな呼びかけに、ナナリーは背筋を伸ばした。
どうやら、見なかったことにするかどうかを決められるのは、自分ではないらしかった。




