53 殿下は、笑ってばかりいません
帰りの馬車に乗り込もうとすると、ジョルジュが「少し、外の風に当たってくる」と言い出して、御者台へ移動した。五杯の紅茶と、ロザリーに生け垣扱いされたことが、兄の胃にはよほど堪えたらしい。
ジョルジュが御者台に落ち着くのを待って、馬車はゆっくりと動き出す。扉を閉めた車内には、ナナリーとシノンの二人だけが残された。
ナナリーは、マフラーをむしり取るように外し、帽子と色眼鏡も座席へ放り出した。それから両手で頬を挟み、思いきり揉みほぐす。
「痛い、痛い、ほっぺたが攣ってる」
ロザリーの前でずっと同じ角度に固めていた頬の筋肉が、ようやく解放されて、じんじんと悲鳴を上げていた。ナナリーは、頬を上下に引っ張り、左右に引き伸ばし、口を大きく開けては閉じた。その度に、窓に映る王子の美しい顔が、見たこともない形に歪んでいく。
「やめてくれ」
向かいの座席で、シノンが、げんなりとした声を出した。
「俺の顔で、その表情をしないでくれ」
「でも、ほぐさないと、明日まで笑顔のまま固まっちゃいそうで」
「だからといって、俺の頬をそこまで引っ張るな。王家の肖像画家が見たら、あまりの惨状に筆を折るぞ」
ナナリーは、頬を揉む手を少しだけ緩めた。それでも筋肉の奥に残った痺れは、なかなか消えてくれなかった。窓の外を、夕暮れの王都がゆっくりと流れていく。石畳を叩く車輪の音が、馬車の床から、かすかな振動となって伝わってきた。
「殿下は、毎日こんなことをしてるんですか」
「こんなこと、とは」
「誰も傷つかない返事を、ずっと考え続けること。好きな花一つ答えられないし、ドレス一着褒めるのにも、隣のドレスのことまで考えなきゃいけない。笑ってるだけで、ほっぺたがこんなに痛くなるなんて、知りませんでした」
シノンは、しばらく黙っていた。窓から差し込む夕暮れの光が、ナナリーの顔をした彼の横顔を、橙色に照らしている。
「空の下で咲く花、という答えは、悪くなかったと思う」
ぽつりと、シノンが言った。
「え」
「俺のドレスを、いや、君のドレスを、俺の顔で品評されるのかと覚悟していた。あの場で、二人とも傷つけずに済ませる答えは、俺でもすぐには思いつかなかったかもしれない」
褒められている、と気づくまでに少しかかった。ナナリーは頬を揉んでいた手を、膝の上に下ろした。
「でも、もう二度とやりたくないです。ほっぺたが限界です」
「俺も、毎回そう思っている」
シノンが、小さく息を吐いた。
「笑顔を崩すわけにはいかない。誰かを傷つける答えを、うっかり口にするわけにもいかない。好きな花一つ、好きな食べ物一つ、本当のことを言えば、それが誰かの得になり、誰かの損になる。だから、ずっと、誰にでも同じ顔で笑っているのが一番いいんだ」
馬車が角を曲がり、窓の外の夕日が、少しだけ傾いた。
ナナリーは、学院の人だかりの中心で笑っていた王子を思い出した。運がよかっただけだよ、と、誰にでも同じ顔で微笑んでいた。あの笑顔の下で、この人は今の自分と同じように、頬の筋肉の悲鳴を聞いていたのだろうか。
「殿下」
「何だ」
「笑いたくない時まで、無理して笑わなくてもいいと思います」
シノンが、ゆっくりとこちらを向いた。自分の顔が少し驚いたように、目を見開いている。
「人前では、無理かもしれないけど。せめて、私の前では。私、殿下が仏頂面でも、悪態ついても、全然気にしないので。というか、最初に会った夜から、俺とかお前とか言ってましたし」
シノンは、しばらく黙ってナナリーを見つめていた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
「確かに、君の前では、最初から笑顔を用意する余裕がなかった」
「媚薬にやられて、好きです、好きですって言ってる令嬢に、笑顔を用意してる余裕はないと思います」
「その話は、するなと言っただろう」
シノンは、げんなりした顔で、座席の背にもたれた。それから、ぼそりと呟く。
「正直に言うとロザリー嬢の宣戦布告は、どんな顔をして聞けばいいのか、さっぱり分からなかったんだ」
「ご自分の最初の一曲を巡って、宣戦布告されてましたもんね。あれは、なかなか奇妙な光景でした」
「あんなもの、王子として受けた教育の、どの項目にもなかった」
「顔、すごく複雑でしたよ」
「君の顔だ」
「私の顔で、すごく複雑な顔をしてました」
シノンが、思わずといった様子で、小さく吹き出した。
それは、学院の人だかりの中心で見せる微笑みとも、書斎で蜂蜜を読めた時に見せた笑顔とも、また違う笑い方だった。こらえきれずに、喉の奥から漏れてしまったような、少し間の抜けた笑い声。ナナリーの顔なのに、ナナリーが一度も出したことのない種類の声だった。
ナナリーも、つられて笑った。頬の筋肉はまだ痛かったが、今度の笑いは少しも痙攣しなかった。
ひとしきり笑ってから、シノンが、窓の外へ目を向けたまま、ぽつりと言った。
「君の前だと、悪態がつけるのはなんでだろうな」
それは、独り言のような小さな声だった。ナナリーに聞かせるつもりがあったのかどうかも、分からないほどの。
ナナリーは、聞こえなかったふりをした。なぜだか、聞こえたと言ってしまったら、今のこの時間が、どこかへ消えてしまいそうな気がした。
その時、馬車の外で、蹄の音が急速に近づいてきた。
御者が手綱を引き、馬車がゆっくりと止まる。窓の外を見ると、魔術師団の制服を着た伝令が、汗をかいた馬の上から身を乗り出し、御者台にいるジョルジュへ何かを差し出していた。厚く綴じられた、古い帳面だった。
短いやりとりの後、伝令は再び馬を走らせて去っていった。間もなく、馬車の扉が開き、ジョルジュが身を屈めて中へ入ってきた。顔からは紅茶五杯の苦しさが、すっかり消えている。代わりに浮かんでいたのは、魔術師団の団員の顔だった。
「香水店の摘発が終わったらしい。店主は捕らえられた。これは、押収した店の販売記録です」
ジョルジュは、帳面を二人の間に開いた。古びた紙の上に、日付と品名と、購入者の名前が細かな字でびっしりと並んでいる。兄の指が記録の一行の上で止まった。日付は、ナナリーが媚薬を嗅いでしまった夜会の前日だった。
「規定を超えた濃度の香水を買った客の中に、この名前があった」
ナナリーとシノンは、身を寄せてその一行を覗き込む。
――ロザリー・バディスト。
夕暮れの光が、帳面の上の名前を淡いバラ色に染めていた。




