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52 奇妙な宣戦布告

 数秒前までは、シノンのおかげで自分の縁談がうまく流れたことを喜んでいた。それなのに、今、ナナリーはマフラーの端を握ったまま凍りついている。


 白百合亭の店先に立つロザリーは、淡いバラ色のドレスの裾を午後の風に揺らし、閉じた扇子の先をこちらへ向けている。その目は、斜めにずれた帽子と、額に押し上げられた色眼鏡と、地面を引きずるマフラーを、順番にゆっくりと確かめていた。


 変装は、やはり意味がなかったらしい。


 背中を、冷たい汗が一筋伝った。ここで「人違いです」と言えたら、どれほど楽だろう。けれど、帽子の下からこぼれているのは、王都で一番有名な金髪で、色眼鏡を外した顔は、王国で一番有名な顔だった。人違いだと言い張れるだけの材料が、この身体には一つも残っていない。


 隣で、シノンが、ナナリーの顔に令嬢の微笑みを戻すのが見えた。ナナリーも、慌てて背筋を伸ばし、帽子を正しい位置へ戻す。口角を上げ、目尻を少しだけ下げる。鏡の前で何度も練習した、学院で見かけたシノンを真似た王子の微笑みだった。


「やあ、ロザリー嬢。奇遇だね」


「本当に。殿下が、そのようなお姿で、こちらにいらっしゃるなんて」


 ロザリーの視線が、マフラーの上で止まった。


「そちらの襟巻き、今の季節には、少々暑くはございませんの?」


「少し、喉の調子が悪くて」


「まあ。落雷の影響かしら。それとも、お忍びかしら」


 お忍びという言葉を口にしたとき、ロザリーの目がきらりと光った。ナナリーの頬の筋肉が、笑顔を作り始めてまだ一分も経っていないというのに、早くも小さく抗議の声を上げる。


「ドラクロワ伯爵令嬢と、ご一緒に?」


「偶然、です」


 シノンが、ナナリーの顔で穏やかに答えた。


「母と、別のお約束で白百合亭に参りましたら、殿下がちょうど、兄と」


「兄?」


 ロザリーが、ようやくシノンの斜め後ろに立つジョルジュへ目を向けた。ジョルジュは、胃のあたりに手を当てたまま、一歩前へ進み出た。白百合亭では一言も口を挟めなかった兄が、ようやく巡ってきた出番に、魔術師団で鍛えた背筋をぴんと伸ばす。


「魔術師団の、ジョルジュ・ドラクロワと申します。本日は、殿下の警護として」


「あら。ご苦労さま」


 ジョルジュの言葉を遮ったロザリーは、ニコリとよそ行きの笑いを向け、ナナリーの方へ向き直った。


 ジョルジュは、口を開けたまま固まった。学院の令嬢たちの間では、ジョルジュは「見目麗しい理想のお兄様」として、それなりに名を知られているはずだった。ルルーナなどは、ナナリーに会うたびに兄への伝言を頼んでくる。けれどロザリーの目には、シノン以外の男性は、背景の生垣と大差ないらしい。


 兄は、静かに胃を押さえ直した。五杯の紅茶に加えて、何か別のものまで胃に溜まったようだった。


「せっかくですもの、殿下」


 ロザリーが、ナナリーの腕へするりと自分の腕を絡めた。ふわりと、花の香りが漂ってくる。


 ナナリーは、反射的に息を止めた。


 ジョルジュの鑑定でロザリーの香水は規定内の、普通の香水だと分かっている。息を止める理由など、何一つない。それなのに、王子の見舞いの日に味わった酸欠の記憶が、身体の方にはしっかりと刻み込まれていたらしい。


「もう一杯、わたくしとご一緒に、お茶を召し上がっていただけません?」


「それは、その」


 ナナリーは、腕に絡んだロザリーの手を見下ろした。断れば、ロザリーが傷つく。受ければ、もう一杯の紅茶と、さらに長いロザリーとの時間が待っている。


 鉢植えの陰で、すでに焼き菓子を四つと、ジョルジュが頼んで食べきれなかった蜂蜜のパイまで平らげてしまった。ナナリーの胃袋に比べれば容量の大きい王子の胃袋とはいえ、そろそろ限界を訴え始めていた。


「お気持ちは嬉しいけど、今日は、もうたくさんいただいてしまって」


 息を吐きながら答えると、ロザリーは扇子を口元に当てて、ころころと笑った。


 その拍子に、また花の香りが漂ってきた。以前、王城で嗅いだものとは違う香りだ。ナナリーは、どうしても彼女の香りが気になってしまう。


「そういえば、ロザリー嬢。いい香りだね。以前とは違う香水かな?」


「まあ、殿下! お気づきになりましたの?」


 ロザリーの顔が、ぱっと明るくなった。


「ええ、最近変えましたの。前の香水も気に入っていたのですけれど、いつも購入していたお店が、急に閉まってしまって」


「それは残念だったね。お気に入りのお店だったの?」


「ええ、とても。わたくしの好みに合わせて、香りを調合してくださるお店でしたのよ」


 微笑みを保ったナナリーの頭に、旧天文台でシルヴァンがジョルジュに渡した、一枚の紙が浮かんだ。店の名と、店主の名。横目でジョルジュを見ると、兄の眉がほんのわずかに動いていた。


「殿下は、前の香りと今の香り、どちらがお好みかしら」


 ナナリーは、絡んだ腕の先で指を小さく握りしめた。


 前の香りが好きだと言えば、違法な濃度の媚薬を勧めることになりかねない。今の香りが好きだと言えば、ロザリーは間違いなく、明日から毎日その香りを纏って現れる。どちらも好きではないと言えば、ロザリーが傷つく。


「どちらも、ロザリー嬢によくお似合いだと思うよ」


「まあ。殿下ったら、お上手」


 ロザリーは満足そうに頷いた。ナナリーは、微笑みを保ったまま、そっと息を吸い直した。頬の筋肉が、ぴくりと小さく跳ねた。


「では、殿下のお好きな花は、何かしら。今度、殿下のお部屋へお届けしたいのですけれど」


 ナナリーの脳裏に、深海を思わせる一輪の青バラが蘇った。綺麗だと一言褒めただけで、特定の家の栽培事業を支持する、という話になりかけたあの日の朝。王子の好きな花一つで、どこかの家の事業が傾いたり、持ち上がったりする。


「花は、どれも、それぞれに美しいと思うよ」


「では、一番お好きなものは?」


「一番、は、選べないくらい、どれも」


「殿下ったら、欲張りさんね」


 ロザリーが扇子の陰で笑い、ナナリーも笑い返した。頬の筋肉が、今度ははっきりと、ぴくぴくと痙攣した。


 ロザリーの視線が、不意にナナリーの隣へ移った。胃を押さえるジョルジュの背中をさすっているシノンの、淡い水色のドレスを上から下まで眺めている。まるで検分するように眺め終えると、ロザリーは、自分のバラ色のドレスの裾を、指先でつまんでみせた。


「では、殿下。わたくしのドレスと、ドラクロワ嬢のドレス。どちらがお好み?」


 通りの空気が、一瞬で張り詰めた。


 その質問は、淑女ならば特に、紳士の前でしてはいけないとされる類のものだった。ナナリーの背中に、再び冷たい汗が噴き出す。


 どちらを選んでも地獄だった。バラ色と答えれば、ロザリーを調子に乗らせ、今朝のために張り切ってくれた母と、一時間もかけて髪を整えてくれた侍女に申し訳が立たない。水色と答えれば、王子が伯爵令嬢を贔屓していると噂され、ロザリーの嫉妬の矛先が、間違いなくナナリーの姿になったシノンへ向かう。


「正直におっしゃってくださらないと、だめですわ」


 ロザリーは扇子を閉じ、甘く、けれど逃げ道を塞ぐような強い視線でこちらの顔を見つめた。


 ナナリーは、ロザリーのバラ色のドレスと、自分の身体が着ている水色のドレスを、交互に見た。


 シノンが着ている水色のドレスは、今朝、母が張り切って選んだものだった。侍女が一時間かけて髪を編み、真珠の髪飾りまで添えてくれたのだと、シノンが教えてくれた。もちろん、今そのドレスを着ているのは、ナナリーの身体に入ったシノンだ。


 そしてナナリー本人は、シノンの身体で、自分が着るはずだったドレスと、ロザリーのドレスのどちらが似合うかを尋ねられている。どうして自分は、自分のドレスを他人の立場で評価しなければならないのだろう。考えれば考えるほど、頭が混乱してきた。


 シノンがナナリーの顔で、小さく目を伏せていた。どうやら、自分の着ているドレスの品評を、自分の顔をしたナナリーから聞かされる覚悟を決めたらしい。


「水色は、空の色だね」


 ナナリーは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「バラ色は、花の色。花は、空の下で咲くものだから、どちらが上ということではなくて、一緒にあって、初めて綺麗なんだと思う」


 通りが、静かになった。


 ロザリーは、しばらく黙ってナナリーを見つめていた。それから扇子を開き、満足そうに微笑んだ。


「まあ。空の下で咲く花。つまり、わたくしが主役ということね。素敵なお答えですわ、殿下」


 どうやら、そういうことになったらしい。シノンが、ナナリーの顔で、なんとも言えない複雑な表情を浮かべている。ナナリーは二人とも傷つけずに済んだことに、心の中で大きく息を吐いた。同時に、頬の筋肉が、限界を告げるようにぴくぴくと連続で痙攣を始めた。


 笑顔を保ったまま、口の端だけが、意思とは無関係に震えている。ナナリーは慌てて、ずり落ちかけていたマフラーを鼻の上まで引き上げた。季節外れのマフラーが、初めて役に立った瞬間だった。


 ロザリーは、ようやくナナリーの腕から手を離した。それからくるりとシノンの方へ向き直り、ナナリーには聞かせるつもりがないのか、声を落とした。


「ドラクロワ伯爵令嬢。王妃殿下の行儀見習いになったそうですわね。おめでとうございます」


 王子の耳は、思っていたよりずっとよく聞こえた。彼女が発した声は、先ほどまでシノンになったナナリーに向けていた甘い声とは、まるで別人のような冷ややかさだった。


「でも一つだけ、お伝えしておきますわ。建国祭の夜、殿下の最初の一曲は、わたくしがいただきます」


 ナナリーは、マフラーの下で、息を呑む。


 ロザリーが、宣戦布告をしている。王子の最初の一曲を巡って、伯爵令嬢に。


 問題は、その伯爵令嬢の中身が、シノン本人だということだった。シノンは今、自分の最初の一曲を取り合う宣戦布告を、自分に向けて受けている。実に奇妙な状態に置かれたナナリーの顔は、完璧な令嬢の微笑みを保っていた。けれど、ナナリーには分かった。あの目は今、たいへん複雑な色をしている。


「ロザリー様。お言葉ですが、最初の一曲は、殿下がお決めになることですわ」


「ええ。ですから、殿下に決めていただきますの。わたくしを」


 ロザリーは、ぱちんと扇子を閉じ、優雅にナナリーへ一礼した。それから、通りの先に待たせていた侯爵家の馬車へ、バラ色の裾を翻して歩いていった。


 通りに残された三人の間を、夕暮れの風が吹き抜けていった。建国祭まで、あと十日あまり。元に戻れなければ、最初の一曲を踊る相手に手を差し出すのは、ほかでもない自分だ。ナナリーはマフラーを握りしめたまま、遠ざかっていく馬車を見送った。

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