51 その令嬢を、安く見ないでください(シノン視点)
「ありがとうございます、エミール様。お気遣い、とても嬉しく思います」
シノンは、ナナリーの顔で穏やかに微笑んだ。王子として何百回と浮かべてきた、角の立たない微笑みだった。
「ですが、私には、勉強が不要になる日は、来ないと思います」
エミールが目を瞬かせた。
視界の端で、ジョルジュがゆっくりと腰を下ろし、紅茶のカップを持ち上げるのが見えた。
「私、ずっと勉強が嫌いでした。成績も、母が気にしている通り、下から数えた方が早いくらいです。でも、最近、分からなかったことが分かるようになる喜びを、知ったんです」
シノンは、膝の上で重ねた手に、少しだけ力を込めた。
王子の書斎で、ナナリーが初めて古代語を一語読んだ時のことを思い出していた。三日間、意味を読み取れずにいたページを前に、机を三十分拭き、額を天板へくっつけ、クロに菓子を求められ。それでも最後には、文字の中の魔力の流れを、自分の目で捉えた。
蜂蜜、と読めた瞬間、ナナリーは顔を上げた。借りている王子の顔いっぱいに、隠しようもない喜びが広がっていた。
確かに、彼女は挙動不審だ。我が国の伯爵令嬢として名乗るには、どうかと思う部分も数えきれないほどある。だが、あの時の笑顔には、どんな肖像画にも収められないような生き生きとした輝きがあった。
「まだ、ほんの少ししか分かりません。三語読めただけで、大騒ぎしたくらいです。でも、分からないことが分かった時は、自然に笑えるんです。だから、勉強をやめて笑っていてほしいと言われても、たぶん、うまく笑えないと思います」
「それは」
エミールが、言葉を探すように口を開いた。シノンは、穏やかな声のまま続けた。
「エミール様が、私を可愛いと言ってくださるのは、本当に嬉しいです。でも、今日エミール様が会おうと思ってくださったのは、釣書に書かれた私だと思います。母が磨き上げて、一番いいところだけを並べた私です。本当の私は、もっと朝に弱くて、もっとよく食べて、もっとたくさん分からないことを抱えています」
視界の端で、ジョルジュがまた腰を浮かせかけた。言い過ぎだと止めるつもりなのか、それとも、自分からも何か言おうとしたのか。
「その全部を見ていただいた上でなければ、私はエミール様のお気持ちに、正直にお応えすることができません」
シノンが口にした言葉が届いたのか、ジョルジュは再び腰を下ろし、紅茶を一口飲んだ。給仕の娘が、空になりかけたカップへ、さりげなく三杯目を注いでいく。
「ですから、このお話は、ここまでにしていただけないでしょうか」
店内のざわめきが、一瞬、遠くなったような気がした。
エミールは、しばらく黙ってシノンを見つめていた。怒り出すだろうか。それとも、面子を潰されたと、母親のもとへ訴えに行くだろうか。シノンはどちらにも対応できるよう、背筋を伸ばして待った。
ところが、エミールは肩の力を抜き、長く息を吐いた。
「実は、ほっとしました」
「え?」
「申し訳ありません。ナナリー嬢がとても素敵な方だということは、本当です。でも、僕には、その、約束をしたい人がいまして」
エミールは、照れたように栗色の髪をかいた。
「幼い頃から一緒に育った、男爵家の娘です。ずっと結婚の約束をしたかったのですが、彼女のご両親が、殿下のご婚約が決まるまでは、娘の縁談を進めないとおっしゃって。万が一、殿下のお目に留まったらと。それで、待ちくたびれた僕の母が、先に別の縁談をと、このお話を」
シノンは、ナナリーの顔に微笑みを貼りつけたまま固まった。
旧天文台を隠れ蓑にするシルヴァンが見せた、木箱いっぱいの手紙を思い出す。
『殿下の婚約者が決まるまでは、娘の縁談を進めないと言っている。どうか、殿下に早く恋をさせてほしい』
あの手紙の差出人の一人が、目の前にいるのかもしれなかった。少なくとも、その手紙を書いてもおかしくない青年が、いま自分へ頭を下げている。
「それは、大変でしたね」
心の中で深く頭を下げながら、シノンはそれだけ口にした。
「殿下のご婚約も、きっと、もうすぐ決まると思います。その時は、どうか、その方とお幸せに」
「ありがとうございます。ナナリー嬢も、どうか勉強を続けてください。分からないことが分かった時のお顔、きっと、とても素敵なのでしょうね」
エミールは、最後に微笑んだ。先ほどまでの気取った調子はなく、シノンには心からそう言っているように聞こえた。
その言葉を、鉢植えの陰まで届けてやりたかった。
*
母親たちへの説明は、驚くほど円満に済んだ。
シノンとエミールは、互いにとてもよい方だったと褒め合い、けれど、もう少し自分の今後について考える時間がほしいと申し出た。子爵夫人は残念そうに肩を落としたものの、無理に話を進めようとはしなかった。
マリアナは、娘の口から「勉強を続けたい」という言葉が出た途端、目を潤ませた。帰りの馬車へ乗り込む前には、シノンの手を握りしめ、「あなた、本当に変わったのね」と言った後、「落雷のおかげで」と三回繰り返した。
母親たちの馬車が角を曲がって見えなくなると、白百合亭の裏手の路地から、背の高い人影が駆け寄ってきた。
「殿下!」
ナナリーだった。帽子は斜めにずれ、色眼鏡は額へ押し上げられ、マフラーの端は地面に届いている。王子の顔を隠すための装いは、ほとんど役に立っていなかった。その後ろから、馬車を見送って裏手へ回っていたジョルジュが、少しよろめきながらついてくる。
「やだお兄様、大丈夫?」
「紅茶を、五杯飲んだ」
ジョルジュは胃の辺りを押さえていた。
「殿下が反論するたびに、僕も何か言おうとすると、もう次の言葉が始まっていて。座り直すたびに、給仕がおかわりを注いでくれて。気づいたら、五杯目だった」
「お兄様の分まで、シノン殿下が言ってくださったものね」
「僕にも、一言くらい言わせてほしかったけどな」
恨めしそうな声に、シノンは少し申し訳なくなった。ジョルジュが何度も腰を浮かせていた理由は、やはりそれだったらしい。
ナナリーは兄の訴えに頷きながらも、すぐにシノンの前へ立った。自分の顔が頬を紅潮させ、青い瞳をきらきらと輝かせている。
いつも鏡で見る自分より、生き生きとしているように見えた。
「ありがとうございます、殿下」
「何がだよ」
「ちゃんと失礼のないようにお断りしてくださって」
「そういう約束だったから」
マリアナから縁談の手紙が届いた時、ナナリーは断固として拒否した。自分の身体で勝手に結婚相手を決められては困ると、珍しくシノンに食ってかかったのだ。
もちろん、シノンにもそのつもりはなかった。顔合わせには応じるが、返事は保留にする。最終的にはナナリー本人の意思を尊重する。それが二人で決めた約束だった。
「分からないことが分かった時は自然に笑えるって、すごく嬉しかったです。でも私、殿下に一度もそんなこと言ってないのに。どうして分かったんですか」
ナナリーは嬉しそうに笑ったが、シノンは答えに詰まった。
どうして分かったのか。それは、見ていたからだ。あの日、書斎で、ナナリーが蜂蜜と読めた瞬間の顔を、すぐ向かいの席で見ていたからだ。
けれど、それを口にするのは、なぜか、ひどく気恥ずかしかった。彼女が自分の言葉を待っていると思うと、先ほどまでエミールへ淀みなく話せていた口が、うまく動かない。
「今は君の身体を借りているわけだし、君の時間を勝手に決められるのが、腹立たしかっただけだ」
そう答えると、ナナリーは一瞬きょとんとしたあと、ふわりと笑った。
自分の顔で、ナナリーが笑う。シノンが学院の人だかりの中で何百回と浮かべてきた微笑みとは、まるで違う笑い方だった。相手にどう見られるかを整えるより先に、嬉しさが顔へ出ている。
「それでも、嬉しかったです」
シノンは、ナナリーから目を逸らした。
腹が立った。それは確かだ。エミールが勉強は必要ないと言った瞬間、胸の奥で何かが静かに燃え上がった。ナナリーのことだけでなく、毎晩遅くまで教本を写している自分自身の努力まで、否定されたように感じたせいかもしれない。
けれど、自分の縁談を、自分の口で断ったことは、これまでにも何度かある。その時には、こんなふうに腹が立ったことは一度もなかった。
話してみれば、エミールは悪い人間ではなかった。想いを寄せる相手がいて、ナナリーの断りも受け入れ、最後には彼女の勉強を応援してくれた。それでも、彼がナナリーの生き方を簡単に決めようとした時の苛立ちは、まだ胸の奥に残っている。
自分の気持ちのことなのに、その理由をうまく説明できない。
「殿下?」
「何でもない。帰るぞ」
シノンが踵を返し、茶館の正面の通りへ出ようとした時だった。
淡いバラ色のドレスを纏った令嬢が、白百合亭の入口に入ろうとしている姿が視界に飛び込んできた。艶やかなピンクゴールドの髪が、午後の日差しを受けて輝いている。
その令嬢は店先で足を止め、こちらを見て、ゆっくりと目を見開いた。
「殿下……?」
ロザリーだった。
彼女の視線は、帽子を斜めにかぶり、マフラーを引きずった王子と、その隣に立つ、水色のドレスの令嬢の間を行き来している。
「そちらは、ドラクロワ伯爵令嬢、ですわよね?」
バラ色の扇子が、ぱちんと音を立てて閉じられた。シノンは、隣のナナリーが何か答えるより先に、自分の口元へ微笑みを戻した。先ほどとは違う意味で、言葉を選ぶ必要がありそうだった。




