50 笑っていてくだされば、十分です(シノン視点)
王都の大通りから一本入った石畳の通りに、白百合亭という茶館がある。
白い漆喰の壁に、蔦の絡まる窓枠。店内には丸いテーブルがゆったりと並び、天井から吊るされた魔石灯が、午後の柔らかな光と溶け合って、店全体をほんのりと蜂蜜色に染めていた。焼きたての菓子と紅茶の香りが漂い、あちこちのテーブルから、ひそやかな笑い声がこぼれてくる。貴族の家同士が、角の立たない顔合わせをするには、うってつけの店だった。
シノンは、窓際の席に腰を下ろし、膝の上で両手を重ねていた。
マリアナが今朝から張り切って選んだ淡い水色のドレスは、袖口に小さなレースがあしらわれ、動くたびにふわりと揺れる。髪は侍女が一時間かけて編み込み、仕上げに真珠の髪飾りが添えられた。靴は、シノンが強く頼み込んで、踵の低いものにしてもらっている。
王城へ移ってからは、令嬢の身支度にもずいぶん慣れたつもりでいた。だが、縁談の顔合わせのための身支度は、学院へ通う日のそれとは、根本的に気合の入り方が違った。
「こちらが、クレマン子爵家のエミール様よ」
マリアナが、向かいの席の青年を手のひらで示した。
「エミール・クレマンと申します。本日は、お目にかかれて光栄です」
青年は立ち上がり、礼儀正しく一礼した。年はナナリーより三つほど上。栗色の髪をきちんと整え、穏やかそうな目元をしている。物腰は柔らかく、声にも嫌味がない。少なくとも、第一印象で減点するところは見当たらなかった。
「ナナリー・ドラクロワと申します。こちらこそ、お会いできて嬉しいですわ」
シノンは、マリアナに十年言われ続けたお辞儀の、王城仕込みの改良版を披露した。エミールの母である子爵夫人が「まあ、お綺麗なお辞儀」と目を細め、マリアナが誇らしげに胸を張る。母親同士は、それからしばらく、互いの子の美点を交互に並べ合った。
騎士学校に通っていたというエミールは、実直な性格で知られ、乗馬が得意で、動物に優しいらしい。ナナリーの方はといえば、近頃は王妃のもとで行儀見習いをしていて、礼儀作法がとてもよくなったらしい。
どちらの説明にも、嘘はないのだろう。ただ、マリアナの説明からは、帽子箱に隠された、本人いわく非常食の菓子のことも、朝の寝起きの悪さも、すっぽりと抜け落ちていた。
「では、私たちはあちらでお茶をいただいていますから。あとは若いお二人で、ゆっくりお話しなさって」
母親二人は、満足そうに頷き合い、店の奥の席へ移っていった。縁談の顔合わせでは、決まってこの台詞が出るらしい。これまで夜会でこの種の場面を、遠巻きに何度も見てきた。
まさか自分が、令嬢の側として言われる日が来るとは夢にも思わなかったが。
母親たちの背中を見送り、紅茶のカップに手を伸ばしかけたところで、店の一角に目を留めた。
壁際に、背の高い鉢植えが置かれている。大きな葉を幾重にも広げた南方の植物で、その陰に、小さなテーブルが一つ隠れていた。そこに、二人の男が座っている。
一人は、仕事着ではない落ち着いた色の上着を着たジョルジュだった。もう一人は、つばの広い帽子を目深にかぶり、色のついた眼鏡をかけ、首元を厚手のマフラーで覆っている。季節外れのマフラーだった。変装のつもりなのだろう。ナナリーがそう言い張って、王城を出る前に何度も鏡の前で確かめていたのを、シノンは知っている。
だが、帽子のつばの下からこぼれる金色の髪は、魔石灯の光を受けて、店内の誰の髪よりも輝いていた。色眼鏡でも隠しきれない端正な鼻筋と、マフラーの上から覗く完璧な顎の線が、鉢植えの葉の隙間から、これでもかとばかりに主張している。
近くを通りかかった給仕の娘が、盆を持ったまま足を止めた。隣の席の令嬢二人が、扇子の陰で何事か囁き合っている。ひそひそと漏れ聞こえてくる言葉の中に、「シノン殿下に似ていらっしゃらない?」という一文が、はっきりと混じっていた。
似ているどころではない。本人の身体である。
鉢植えの葉が、かすかに揺れた。こちらの様子を覗こうと、ナナリーが身を乗り出したらしい。ジョルジュが、さりげなくその肩を押し戻している。
シノンは、自分の身体が鉢植えの陰で不審者のように蠢いている光景から、そっと目を逸らした。少なくとも今は、向かいの青年に失礼のないように、顔合わせに集中しなければならない。
「ナナリー嬢は、噂以上に可愛らしい方ですね」
エミールが、少し照れたように切り出した。
「釣書の肖像画も素敵でしたが、実際にお会いすると、ずっと明るい印象で。その水色のドレスも、真珠の髪飾りも、本当によくお似合いです」
「ありがとうございます」
「最近は、王妃殿下のもとで行儀見習いをされているそうで。所作がお美しいのも、納得です」
エミールの褒め言葉は、どれも丁寧で嘘がなかった。ドレスを褒め、髪飾りを褒め、お辞儀を褒め、微笑み方を褒める。シノンはその一つ一つに礼を返しながら、胸の奥で奇妙な既視感を覚えていた。
自分も、夜会で同じことをしてきた。
初めて踊る令嬢には、ドレスの色を褒めた。髪飾りに目を留め、素敵ですねと言った。お辞儀が美しければ、それも褒めた。相手のことを何も知らない時、人が褒められるのは、目に見えるものだけなのだ。
親が決めた縁談であれば、なおさらだった。事前に渡されるのは、釣書と、人づての評判くらいだ。そして、どこの家の親も、自分の子の欠点を、わざわざ相手に伝えたりはしない。朝が弱いことも、部屋中に菓子を隠していることも、初等科の表のフクロウの絵しか覚えていないことも、釣書には一行も書かれない。伝わるのは、磨き上げられた美点ばかりだ。そんな話から、相手の本質など分かるはずがない。
だから、エミールが外見ばかり褒めるのは、責められることではなかった。彼は、自分が知り得るものの中で精一杯の誠意を示している。
「学院では、魔術を学んでいらっしゃるとか」
エミールが、話題を変えた。
「ええ。魔術学院に通っております」
「お母様は、成績のことを少し気にしていらっしゃるようでしたが」
エミールは、そこで労わるように微笑んだ。
「でも、どうかお気になさらないでください。結婚したら、魔術も勉強も必要ありませんから。屋敷のことは使用人が、領地のことは僕が引き受けます。あなたは可愛らしいし、笑顔で社交に励んで、我が家のために円滑な交友関係を築いていただければと。それ以上、僕は何も求めておりません」
鉢植えの陰で、がたん、と椅子の鳴る音がした。
視界の端でジョルジュが勢いよく腰を浮かせかけているのが見えた。彼の顔は、もう保護者のそれでも、魔術師団の団員のそれでもなく、妹を侮辱されたと感じた兄のそれだった。
エミールに、他意はないのだろう。むしろ、学業が苦手な令嬢を気遣い、結婚後は苦労をさせないと約束している。家のことも領地のことも自分が引き受けるという言葉には、夫としての責任感さえ感じられる。しかし、その親切には、一つだけ大きな問題があった。
彼はナナリーが何を望んでいるのか、一度も尋ねていない。




