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49 勉強嫌いにも、事情があります

「勉強が嫌いだからです」


 ナナリーは、教本についたクロの爪跡から目を上げずに答えた。


「それは聞いた。でも、嫌いなものから、ここまで丁寧に逃げる人は珍しい。机を三十分も拭くのは、嫌いというより、怖がっているように見える」


 ナナリーは、羽ペンをくるりと指の上で回した。答えずに済むなら、そうしたかった。けれど、自分の顔をしたシノンが、真っすぐにこちらを見ている。自分の目なのに、逸らすのが妙に難しかった。


「君は勉強が嫌いだと言う。けれど、魔術学院の試験に受かって生徒になったはずだ」


「それは、運が良かったのと、初等科で入学するのが一番簡単だから」


「いや。初等科の入学試験は、七歳の子どもには難しすぎるくらいの課題が出るし、基礎的な理解力や適性もきちんと見ている。運だけで合格できるものじゃない」


「でも、入ってからは全然駄目でしたよ。殿下はずっと首席だったから、分からないと思いますけど」


「首席だったことと、君が勉強嫌いになった話を理解できないことは別だろう」


 もっともな返答だった。ナナリーは羽ペンを机に置き、初等科の頃に一度学んだはずの、古代語の教本へ視線を落とした。ページの片隅で、フクロウの挿絵が静かに羽を休めている。


 入学したばかりの頃、教本に並ぶ美しい文字をなぞりながら、これから始まる学びへの小さな期待に胸を躍らせた記憶が、苦い感覚とともに蘇った。


「……最初は、追いつこうとしたんです」


 ぽつりと漏らした声は、静かな部屋の中に小さく響いた。


「でも、二つ上の兄のジョルジュは、いつも五位以内でした。上の兄のヴィクトールも、学院では上位でした。両親は、比べたりしません。私が下から数えた方が早くても、叱りはするけど、兄みたいになれとは一度も言わない。でも、私が自分で比べちゃうんです」


 窓の外で、庭の木の葉がさらさらと揺れていた。午後の光が少し傾き、机の上の影が長くなっている。


「今まで何度か、本気で頑張ったことがあるんです。試験の前の一週間、毎晩遅くまで起きて、教本を全部写して。お兄様や家族みんなに『すごいね』って、今度こそ褒めてもらおうと思って」


「結果は」


「真ん中より、ちょっと下でした」


 シノンは、何も言わなかった。


「お兄様は、悪くなかったって言ってくれました。でも私は、あれだけ頑張って、真ん中より下なんだって思って。それから、頑張るのが怖くなったんです。それに、頑張らなかったら、成績が悪くても、『だって、頑張らなかったから』って言えるって、気付いちゃったから……」


 口に出してみると、思っていたよりずっと情けない理由だった。ナナリーは、言ってしまったことを少し後悔しながら、膝の上で指を握り込んだ。


「だから、先に逃げる癖がついたんです。どうせ兄にも、殿下にも敵わないから。最初から勝負しなければ、負けたことにならないので」


 沈黙が落ちた。


 シノンは、しばらく初等科の教本の、フクロウの挿絵を見つめていた。それから、ふっと小さく息を吐いた。


「俺も、一位を取るのは、怖い」


「え」


「一位を取り続けるのが、怖い。一度でも落ちたら、王子のくせにと言われる。だから、毎晩遅くまで起きて、勉強をしている。君が何度かして諦めたという、本気で勉強をすることを、毎日」


 ナナリーは、目を瞬かせた。試験の掲示板の前で、運がよかったと笑っていた王子。生まれつき何でもできる人なのだと思っていた。その人が毎晩遅くまで起きて、教本を写している姿が、うまく想像できなかった。


「でも、殿下は、それで一位なんですよね」


「それで一位なのは、やり方を知っているからだ。君は、やり方を知らないまま、一番大きな山に一人で登ろうとして、途中で落ちた。それだけのことだ」


 シノンは、初等科の教本を閉じ、紙を一枚、ナナリーの前へ置いた。


「だから山を小さくする。今日は、全部覚えなくていい。原本の最初の一行の、最初の一語だけ読めればそれで良しとしよう」


「一語だけ、ですか」


「一語だけだ。それと、もう一つ」


 シノンは、閉じていた原本を開き、最初の一行の、最初の一語を指で示した。


「文字を、形で覚えようとするな。君は、魔力の流れが見えるだろう」


「流れ、ですか」


「博物館で、鑑定士が三人がかりで見落とした偽物を、君は流れだけで見抜いた。ヤンの文字には、ヤンの魔力が残っている。文字の一つ一つの中に、流れがあるはずだ。形を覚えるんじゃなく、流れを見てくれ。上から下へ流れているのか、下から上へ流れているのか、渦を巻いているのか、波打っているのか」


 ナナリーは、半信半疑で、原本の最初の一語に顔を近づけた。


 古い文字が、三つ並んでいる。丸いもの、尖ったもの、鉤のように曲がったもの。形だけを見ていた時は、ただの虫のような線にしか見えなかった。けれど、目を凝らし、息をゆっくり吐いて、ヤンの絵を見た時と同じように眺めてみる。


 すると、見えた。


 一つ目の文字の中で、魔力が下から上へふわりと立ち上っていた。湯気のように柔らかく、温かく。二つ目の文字では、その流れが横へ広がり、三つ目の文字でとろりと下へ垂れていく。


「一つ目は、下から上に膨らんで見えます。二つ目は横に広がって、三つ目はとろっと垂れる感じ」


 シノンが、初等科の教本をめくった。一ページ、二ページ、三ページ。指が止まり、それからもう一度別のページを開いて止まる。


「下から上へ膨らんだように流れるのは、花の文字だ。横へ広がるのは、蜂。下へ垂れるのは、蜜」


 ナナリーは、教本の文字と原本の文字を見比べた。形は確かに同じだった。一つ目の文字からは、花が茎を伸ばして咲くように魔力が立ち上り、二つ目は蜂が羽を広げるように左右へ流れている。三つ目の、とろりと下へ垂れる流れも、蜜だと言われれば納得できた。


「花と、蜂と、蜜」


「古代語では、三つ合わせて一つの言葉になる。花から蜂が集めた蜜、つまり」


 シノンが、ゆっくりと顔を上げた。


「蜂蜜だ」


 ナナリーは、原本の最初の一語をもう一度見つめた。伝説の大魔術師の、縁結びの術の、終了の術式へ続く書物の最初の一語。それが蜂蜜だった。


 博物館で見た、焼き菓子の覚え書きを思い出す。粉とバターと、蜂蜜の分量が細かく書かれていた。この人は、本当に甘いもののことばかり考えていたらしい。魔術に長けたジョルジュも甘いものが好きなので、もしかしたら大魔術師になるためには、甘いもの好きであることが必要不可欠なのかもしれない。


 そんな突拍子もない考えが頭をよぎり、ナナリーは思わず口元を緩めた。


「どうした?」


 不思議そうに尋ねてくるシノンの声に、慌てて首を振る。それからもう一度、原本の最初の一語を見つめた。花と、蜂と、蜜。三つが並んで、一つの蜂蜜になる。その形が、頭の中にすんなりと収まった。


「うわ、読めた」


 声に出すと、胸の奥で何かが小さく弾けた。たった一語だ。七歳向けの教本の、三つの文字を組み合わせただけの言葉でしかない。それでも三日間、一文字も意味を明かしてくれなかったページが、初めてこちらへ向かって口を開いてくれた。


「読めました、殿下」


「ああ。読めたな」


 シノンが、笑った。


 ナナリーは、その笑顔から目が離せなくなった。


 うぐいす色の髪に、金色の瞳。十七年間欠かさず毎朝鏡で見てきた、見慣れた丸顔。けれど、今そこに浮かんでいる笑顔は、ナナリーが一度も鏡の中で見たことのないものだった。学院の人だかりの中心で見せる、誰にでも向ける完璧な微笑みとも違う。目尻が少し下がって、口元が少しだけ崩れて、心の底から嬉しそうな、どこか子どもっぽい笑い方だった。


 自分の顔なのに、どう見てもシノンの笑顔に見えてしまう。


 胸の奥が、とくん、と鳴った。焼き菓子を食べた時とも、蜂蜜を読めた時とも違う音だった。ナナリーは、慌てて原本へ目を落とし、二語目の文字に顔を近づけた。二語目を読みたかったわけではない。ただ、今の自分の顔を、正確には王子の顔を、シノンに見られたくなかった。


「次は、二語目にしますか」


「今日は一語だけと言っただろう」


「でも、せっかく調子が出てきたので、もっと勉強したいです」


 自分の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。勉強の続きをしようと、自分から言い出したのは、生まれて初めてかもしれない。シノンも少し驚いたように眉を上げ、それからもう一度、さっきより小さく笑った。


 *


 その日、ナナリーは三語を読んだ。


 蜂蜜、それから、木の実、それから、焼く。原本の最初の一行は、まだ半分も読めていない。けれど、少なくとも伝説の大魔術師がこの書物を、焼き菓子の話から書き始めたらしいことは分かった。


 夕暮れの光が書斎を橙色に染める頃、扉が控えめに叩かれた。エルネットが、銀の盆に一通の封書を載せて入ってくる。


「ナナリー様宛てに、ドラクロワ伯爵家からお手紙が届いております」


 エルネットは、ナナリーの姿のシノンへ封書を差し出した。シノンが封を切り、便箋を広げる。横から覗き込むと、マリアナの弾むような丸い字が、何枚にもわたって並んでいた。


 最初の一枚は、王城での暮らしを気遣う言葉と、帽子箱の非常食をちゃんとした箱に入れたかの確認で埋まっていた。どうやら完璧に隠したはずの非常食の缶は、母に見つかってしまったらしい。そのことを残念に思いながら二枚目に視線を向けると、仕立屋に頼んだドレスの色について書かれていた。そして、シノンが三枚目をめくった時、その手がぴたりと止まった。


「どうしたんですか」


 ナナリーが身を乗り出すと、シノンは無言で、三枚目の便箋をこちらへ向けた。


 ――それから、とても大事なお話です。以前からお約束していたクレマン子爵家のご子息との顔合わせ、どうしてもお断りできなくて。王妃様のもとへ上がる前から決まっていたことですから、先方のお顔を潰すわけにはいかないの。一度だけでいいから、会ってちょうだい。日取りは、来週の休日です。


 ナナリーは便箋の文字を二度読んだ。それから、目の前のシノンを見た。


 どうやら自分の顔をした王子が、自分の縁談の顔合わせに、行くことになったらしい。

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