48 フクロウの絵しか、覚えていません
勉強を始める前には、まず机を整えなければならない。
ナナリーは、王子の書斎に置いてある大きな書き物机を、柔らかな布で丁寧に拭いていた。
天板の木目に沿って一往復、角の彫刻の溝に沿ってもう一往復。それが済むと、羽ペンを長い順に並べ直し、インク壺の蓋を磨き、紙の束の角をとんとんと揃えていく。窓から差し込む午後の光が、磨かれた天板の上でつやつやと跳ね返り、机はもはや、誰かが勉強に使うのが申し訳ないほど美しくなっていた。
「いつ始めるんだ」
向かいの椅子から、低い声が飛んできた。ナナリーの姿になったシノンが、腕を組んでこちらを見ている。王妃の行儀見習いとして王城の客室へ移ってから三日、放課後はこうして毎日、王子の書斎で勉強会をすることになっていた。
「今、始める準備をしているところです」
「三十分前から、準備をしていると記憶しているのだが」
「準備が整わないと、気持ちよく始められないので」
「机は、もう十分気持ちよさそうだ」
ナナリーは布を置き、机の上を見回した。確かに、これ以上拭く場所はない。羽ペンも、インク壺も、紙の束も、完璧に整っている。唯一整っていないのは、勉強を始める気持ちだけだった。
試験前になると部屋の掃除をしたくなる、あの不思議な感覚。ジェニーにそう言われたのは、もう随分前のことのような気がする。どうやら、身体が王子になっても、中身の習性は少しも変わらないらしい。
ナナリーは観念して、机の中央へ召喚書の原本を置いた。革の表紙の金箔が、光を受けて淡く脈打っている。表紙を開き、ヤンの「焦るな。まず、焼き菓子を一つ食べよ」の一文に軽く会釈をしてから、次のページへ進んだ。
そして、三日前と同じように、そこで止まった。
びっしりと並んだ古い文字は、今日も一文字たりとも意味を明かしてくれなかった。丸いもの、尖ったもの、鉤のように曲がったもの。並びにも規則があるのかないのか分からない。じっと見つめていると、文字の一つ一つが、紙の上で小さな虫のように蠢き始めるような気さえした。
「まず、最初の一行から読んでみよう」
シノンが、身を乗り出して指先でページを示した。
「この文字は、古代語の基本の形だ。学院の初等科で、最初に習う」
「初等科で」
「七つの時に習う、あの表に載っている。覚えているだろう」
ナナリーは、記憶の奥を探った。七つの頃の教室。大きな表が黒板の横に貼られていて、先生が指し棒で一文字ずつ示していた。その表を、自分は確かに見ていた気がする。ただ、表の内容より、表の右下に描かれていた小さなフクロウの挿絵の方を、よく覚えていた。
「フクロウの絵が、描いてありました」
「表の、中身は」
「中身は、その、フクロウの周りに」
シノンがナナリーの顔で、言葉を失った。
それから、無言で立ち上がり、書斎の本棚へ歩いていった。上の方の棚から一冊の薄い本を引き抜き、戻ってきて、原本の上にそっと重ねる。表紙には、可愛らしい文字で「はじめての古代語」と書かれていた。端には、見覚えのあるフクロウの挿絵まで描かれている。
「初等科の教本だ。俺が子どもの頃に使っていたものが、まだ残っていた」
「懐かしいですね。私も、屋敷のどこかにまだあると思います」
手に取って裏返すと、今よりずっと崩れた字で、シノンの名前が書いてあった。一文字ごとに大きさがばらばらで、最後の一画が勢い余ってはみ出している。完璧な王子にも、こういう字を書く七歳の頃があったのだと思うと、少しだけ親しみが湧いた。
「原本は、いったん閉じる。ここから始めよう」
「……はい」
ナナリーは、手にした七歳向けの教本を見つめた。建国祭までは、あと十九日しかない。その十九日の最初の一歩が、七歳の頃にフクロウの絵ばかり見ていた自分の、やり直しから始まるらしい。
*
一時間後、ナナリーの頭は、焼きすぎたパンのように固くなっていた。
初等科の教本は、確かに分かりやすかった。一ページに文字が一つ、その横に読み方と、使い方の例が一つ。フクロウの挿絵が、ところどころで「よくできました」と励ましてくれる。フクロウに励まされると、不思議とやる気が湧いてくる。そもそも七歳の子どもでも読めるように作られているのだから、十七歳の自分に読めないはずがない。
ところが、五ページ目あたりで、一ページ目の文字が思い出せなくなっていた。そこからさらに五ページ進むと、三ページ目の文字が、二ページ目の文字と混ざり始める。まるで新しい文字を一つ覚えるたびに、古い文字が一つ、頭の後ろからこっそり逃げ出していくようだった。
「この文字は」
シノンが、教本の文字をゆびさした。
「えっと、水、ですか」
「火だ」
「火と水って、正反対じゃないですか」
「形も、正反対だ。ほら、こっちが上向きで、こっちが下向き」
シノンが、紙の上に二つの文字を並べて書いた。並べてみると、確かに上下が逆さまになっている。説明されれば分かる。分かるのに、教本を閉じた途端、どちらが上向きだったのか、また分からなくなる。
ナナリーは、羽ペンを置いて額を机にくっつけた。磨き上げた天板は、ひんやりと冷たくて気持ちがよかった。三十分かけて拭いたのは、どうやらこのためだったらしい。
「ちょっと、休憩しませんか」
「さっき、休憩したばかりじゃないか」
「さっきの休憩は、紅茶を飲む休憩でした。今度は、頭を冷やす休憩です」
「それは、ただ机に額をつけているだけだろう」
その時、窓をこつこつと叩く音がした。顔を上げると、窓枠に黒いカラスが止まっていた。琥珀色の目が、ガラス越しにこちらを見ている。
「窓、開けろ」
クロだった。
ナナリーは、救いの神が現れたような気持ちで立ち上がり、喜んで窓を開けた。クロは隙間から滑り込み、机の端、初等科の教本の真上に遠慮なく着地した。
「腹が減った。何かないか」
「待って。今、出すから」
ナナリーは、書き物机の右の一番下の引き出しへ手を伸ばした。勉強の合間にお腹が空いた時のために、焼き菓子とドロップの缶をしまっておいた場所だ。
引き出しを開けると、中は空っぽだった。
隅の方に、小さな紙切れが一枚だけ残っている。整った字で、短く書かれていた。
――全部出した。
ナナリーは、ゆっくりと振り返った。シノンが、ナナリーの顔で、何事もなかったように紅茶を飲んでいる。
「いつの間に」
「昨日。この前シルヴァンのところで、俺の部屋を君の部屋にするなと言っただろう」
「非常食だったのに」
「勉強から逃げるための非常食だ。だから没収した」
クロが、空の引き出しを覗き込み、つまらなそうに羽を膨らませた。
「何だ。ないのか。じゃ、俺、帰るわ」
来た時と同じ速さで、クロは窓から飛び去っていった。救いの神は、菓子がないと分かった途端に帰ってしまうものらしい。ナナリーは窓を閉め、ため息をついて椅子へ戻った。
教本の上には、クロの爪の跡が、小さく二つ残っていた。七歳のシノンが大切に使っていた教本に、十七歳の自分のせいで傷がついた。
ナナリーがその跡を指でそっとなぞっていると、向かいのシノンが紅茶のカップを置いた。
「どうして勉強から、そんなに逃げたがるんだ」
からかう時の声ではなかった。どちらかといえば、ずっと前から聞きたかったことを、ようやく口にするような声だった。




