47 レシピは渡せても、焼くのは私の窯です
「え、作った!?」
ナナリーは、危うく手にした焼き菓子を落としそうになった。
「犯人は、お前だったのか」
ジョルジュの声が、低く部屋に響いた。指先に灯った青白い光が、取り消しの術式の形を描きかけている。許可を取り消せば、この場でシルヴァンを捕らえることができる。兄の顔は、もう保護者のそれではなく、魔術師団の団員のものになっていた。
シルヴァンは、両手をゆっくりとテーブルの上に置き、抵抗する意思がないことを示した。
「最後まで、お聞きください。私が作ったのは、ヤンの処方をもとにした、ごく穏やかな香水でございます。好ましい相手の背中を、ほんの少し押す程度の。規定の濃度を超えるものは、一滴も作っておりません」
「では、なぜ」
ジョルジュが、短く問い詰める。
「私は、その香水を、王都のある香水店に卸しました。店主は、私の香水が評判を呼ぶと、もっと効き目の強いものを売れば、より儲かると考えたようです。私の知らぬ間に、勝手に濃度を上げ、効き目十倍などという宣伝文句をつけて、売り出していた」
シルヴァンは、懐から一枚の紙を取り出し、ジョルジュの方へ差し出した。
「店の名と、店主の名でございます。私が気づいた時には、すでに何本も売られた後でした。お嬢さんが嗅がれたのも、その一本でございましょう。私の作ったものがお嬢さんを苦しめ、殿下を巻き込んだ。その責任からは、逃げるつもりはございません」
ジョルジュは紙を受け取り、しばらく黙って目を落としていた。それから、指先の光を消した。
「これは、預かります。この件の責任は、入れ替わりの解除が済んだ後、改めて問わせていただく」
「承知しております」
ナナリーは、二人のやりとりを見つめながら、別のことが気になっていた。
「でも、どうして香水なんて作ったんですか。ヤンの研究とは、関係ないですよね」
シルヴァンは、少しだけ困ったような顔をした。
「実は私、研究費を稼ぐために、ある本を出版しておりまして」
「本?」
「ええ。恋愛占いの本でございます」
「恋愛占い?」
ナナリーは思わず聞き返した。
魔術師団から追われている怪盗が、恋愛占いの本を書いている。あまりにも意外な組み合わせだった。
シルヴァンは部屋の隅へ歩いていき、本棚から一冊の本を取り出した。淡い桃色の表紙には、金色の文字で『恋する乙女の魔術占い』と書かれている。周囲には小さな花とハートが散りばめられ、いかにも令嬢たちが好みそうな装丁だった。
「これ、あなたが書いたんですか?」
「左様でございます。もちろん、偽名で」
「ちなみに、何というお名前で?」
「恋の魔術師、シルヴィ先生でございます」
ナナリーは、危うく焼き菓子を喉に詰まらせるところだった。
シルヴィ先生。
その名前には、聞き覚えがある。学院でも話題になっていたし、ルルーナが目の前の本を持っていたような気がする。
「シルヴィ先生って、あのシルヴィ先生ですか?」
「ほかにいらっしゃるかは存じませんが、おそらく、そのシルヴィ先生でございます」
シルヴァンは、少し誇らしげに胸を張った。
「恋愛成就のための簡単な占いや、相性を調べる魔術などを紹介しております。おかげさまで、なかなかの売れ行きでして」
「……魔術師団が探している怪盗の収入源が、恋愛占いの本だったとは」
ジョルジュが、額を押さえた。
「出版は代理人を通しておりますので、私の居場所が知られる心配はございません。もちろん、出版社も私の正体は知りません」
「それで、香水と何の関係があるんですか?」
ナナリーが尋ねると、シルヴァンは今度こそ困ったように眉を下げた。
「本の巻末で、読者からの恋愛相談を募集しているのです。ところが、最近は似たような相談ばかり届くようになりまして」
シルヴァンは大きな木箱の蓋を開けた。
中には、色とりどりの封筒がぎっしりと詰まっていた。可愛らしい花柄の便箋もあれば、上等な封蝋で封じられたものもある。
「すべて出版社を通じて届いた相談の手紙でございます」
シルヴァンは、その中から一通を取り出した。
「好きな人がいるのに結婚できない。相手の家が、殿下の婚約者が決まるまでは、娘の縁談を進めないと言っている。どうか、殿下に早く恋をさせてほしい」
もう一通。
「婚約したいのに、相手の親が、万が一娘が殿下に選ばれたらと言って、首を縦に振らない」
さらに一通。
「殿下が早くお相手を決めてくださらないから、私たちは、意中の人にアプローチをかけにくい」
最後の一通には、ナナリーにも聞き覚えがあった。学院の食堂で、ルルーナが言っていたこととそっくりだった。差出人の名前までは見えなかったが、見ない方がいい気がした。
シノンが、ナナリーの顔のまま、見事に固まっていた。
「俺のせいか」
見事に、掠れた声だった。
「殿下のせいではございません。殿下がお相手を選ばれないことは、何も悪くない。ただ、殿下のお相手が決まるまで、順番を待っている方々が、大勢いらっしゃるというだけのことでございます」
慰めになっているのか、なっていないのか、微妙に分からなかった。
「それで、香水を」
ナナリーが続きを促すと、シルヴァンは手紙を箱へ戻しながら頷いた。
「殿下に、少しでも早く恋をしていただければ、と。誰かを好ましく思う気持ちを、ほんの少し後押しする程度の香水を作りました。それを令嬢方がつけて殿下にお会いすれば、殿下のお心も、少しは動くかもしれないと」
「……占いの本だけにしておけばよかったものを」
ジョルジュの呟きに、シルヴァンは返す言葉がない様子で肩を落とした。
「それで、香水を作った結果は?」
シノンが、低い声で尋ねた。
「殿下ではなく、お嬢さんが嗅いでしまわれました」
部屋の中が、静かになった。
シノンに恋をさせるために作られた香水を、なぜかナナリーが嗅いでしまった。そのせいで彼に恋をし、挙げ句の果てに身体まで入れ替わってしまった。そして今は、シノンの姿で、その香水を作った人物の話を聞いている。
ナナリーは、何からどう整理すればいいのか分からなくなり、とりあえず二つ目の焼き菓子に手を伸ばした。今度は、ジョルジュも止めなかった。
「それに、もう一つ、急がなければならない理由がございます」
シルヴァンは手紙の箱の蓋を閉じ、本棚から薄い手稿を取り出した。昨夜、博物館からすり替えられた、本物の手稿だった。表紙の隅には、例の印が押されている。昨夜の偽物と見た目はそっくりなのに、紙の奥からあふれ出す魔力の気配は、比べものにならなかった。
「ヤンの手稿の中に、こういう一文がございます」
彼は、手稿のあるページを開き、厳かな声で読み上げた。
「王家の子が、十八の誕生日までに伴侶を定めねば、この国に災いが訪れるであろう」
ナナリーは、焼き菓子を口に運ぶ途中で止まった。
「私がこの一文を初めて目にしたのは、三年前、この手稿がまだ個人の蔵書だった頃でございます。持ち主に頼み込んで、一度だけ読ませていただきました。殿下は、今年で十八になられる。私はあれ以来、どうにか殿下に早く伴侶を見つけていただかなければと、気が気ではなかったのです」
シルヴァンの紫の瞳は、真剣そのものだった。ナナリーはシノンを見た。シノンも、ナナリーを見ていた。自分の顔が、たいへん複雑な表情を浮かべている。
伝説の大魔術師の予言。怪盗の真剣な眼差し。国の災い。
けれど、ナナリーの頭に浮かんだのは、博物館で見た、焼き菓子の覚え書きの走り書きだった。殿下は木の実入りを好まれる。焼きすぎると拗ねられる。あの几帳面で、どこか可愛げのある文字と、今読み上げられた予言の厳めしい響きが、同じ人の手から生まれたものだとは、どうにも思えなかった。
*
「さて」
シルヴァンは予言の手稿を閉じ、召喚書の原本の、最後のページを開いた。そこには、ナナリーが一度も見たことのない、細かく複雑な術式の図が描かれていた。
「終了の術式は、この原本の最後に記されております。写しでは失われていた部分でございます。ただし、一つ申し上げておかなければならないことがございます」
シルヴァンは、図の中央を指で示した。
「ヤンの終了の術式は、決まった呪文ではございません。いわば、型でございます。どのような言葉で、どのような願いを取り消すのか。それは、申請者ご本人が、ご自分の言葉で組み立てなければならない。申請の時に込めた願いと、同じ重さの言葉で、取り消しを書く。それができて初めて、術は閉じるのです」
「私が、自分で書くんですか」
「左様でございます。殿下が代わりに書かれても、私が代わりに書いても、術は受け付けません。申請をした魂の言葉でなければ」
ナナリーは、原本の最後のページを見下ろした。文字は古く、図は複雑で、何が書いてあるのか、一行も読めない。
「つまり、レシピは渡せるけれど、焼くのは私の窯でしかできない、ということですよね」
「は?」
シルヴァンが、間の抜けた声を出した。
「材料も分量も書いてあるけれど、窯の癖は、その家の人しか分からないものでしょ?」
シルヴァンが、紫の瞳を瞬かせた。シノンが、小さくため息をついて補う。
「術式の型は与えられるが、取り消しの内容は、申請者が自分の願いに合わせて組み立てる必要がある。誰も代わりには書けない、ということだ」
「おおむね正しいです」
シルヴァンが、ナナリーのたとえに向かって、なぜか深々と頭を下げた。
「では、どうぞ」
シルヴァンは、原本と本物の手稿を、両方ともナナリーの前へ押し出した。
「解除が済むまで、お預けいたします。ヤンの著作を、ヤンの術で困っている方にお貸しするのは、本来の使い道でございますので」
ナナリーは、恐る恐る原本を引き寄せた。ずっしりと重い。この重さの中に、元に戻る方法が詰まっている。そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
表紙を開くと、最初のページに、ヤンの字で短い一文が書かれていた。
――これを読む者へ。焦るな。まず、焼き菓子を一つ食べよ。
ナナリーは、思わず笑ってしまった。伝説の大魔術師は、百年前から、読者の空腹を気にかけていたらしい。焼き菓子なら、もう二つ食べている。条件は満たしているはずだった。
気を取り直して、次のページをめくる。
そこには、びっしりと、古い文字が並んでいた。ナナリーの知らない言葉で、知らない文法で、ページの端から端まで一分の隙もなく書き込まれている。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。次のページも、その次のページも、同じだった。
ナナリーは、原本の厚みを、指で確かめた。それから、建国祭までの日数を、頭の中で数える。
シノンが、隣から原本を覗き込み、静かに言った。
「明日から、毎日だ」
ナナリーは、ヤンの言う通り、焦らないために焼き菓子をもう一つ食べることにした。




