45 一か月、ずっと指し示していた
シルヴァンは、テーブルの中央に置いた原本の表紙へ、そっと指先を乗せた。
淡く明滅していた金箔の魔術陣が、その指に応えるように、一度だけ強く光る。まるで、長い眠りから呼び起こされた古い友人が、挨拶を返したようだった。
「お嬢さんが試された術について、調停官殿から、おおよそのご説明はお聞きになっていらっしゃるかと存じます。申請、候補、魔力の接続、そして人間同士では契約が成立せず、つながり先だけが入れ替わったと。ですから、私がお話しするのは、調停官殿がお話しにならなかったこと、いえ、正確には、調停官殿のお立場ではご覧になれなかったことでございます」
「クロのことも、知っているの?」
「調停官殿とは、何度かお会いしております。ヤンの術が起動されるたび、あの方もお忙しくなりますので」
ナナリーの頭に、窓を開けろと命令し、菓子を要求し、二度も帰ると言い出したカラスの姿が浮かんだ。
あのクロが、シルヴァンと何度も顔を合わせているのだとしたら、お互いにさぞ話が噛み合わなかったことだろう。
片方は一言ごとに帰りたがり、もう片方は一言ごとに話が長くなるのだから。
シルヴァンは原本を開き、ページの中ほどに描かれた複雑な図を指で示した。
「まず、この術がなぜ生まれたのか、その理由からお話しいたしましょう。ヤン・ミュラーは、若くして数々の功績を残した優秀な魔術師でございました。しかし、研究に明け暮れるばかりで、私生活では長く独り身だったそうです。そんな彼も、ある時ふと、生涯を共にする相手が欲しいと思うようになった。そこで、自分にとって最もふさわしい伴侶を探し出す術を考案したのです」
「伴侶を、探す術……」
呟きながら、ナナリーの脳裏に、学院の教本で読んだ、婚姻や契約にまつわる魔術の説明がよぎった。教本に載っていたのは、すでに結ばれることが決まった二人の約束を魔力で補強するものか、一時的に互いを守る誓いを交わすものばかりだったはずだ。
成績下位のナナリーでも、それくらいは覚えている。会ったこともない理想の相手を、世界のどこかから手繰り寄せる術など、聞いたことがない。そんなことができるなら、それはもう魔術というより、運命への口出しだ。
「ただし、伴侶を探す術などと公にすれば、周囲から何を言われるか分かりません。国を救った大魔術師が、恋人探しの術を研究していたなどと知れれば、威厳も何もあったものではない。そこで彼は、使い魔を召喚する術に見せかけたのです。頼りになり、いつも傍にいて、自分に足りないものを補ってくれる。できれば見た目も好ましい。そうした条件を与えることで、術者が求める相手を探し出す仕組みに」
ナナリーは、自分が申請した条件を思い出した。頼りになり、近くにいて、自分を補助してくれて、できれば見た目がいい使い魔。
黒猫か、カラスか、フクロウか。格好いい相棒を想像しながら、一つずつ指を折って書き足した条件だった。どうやらあれは、使い魔の条件ではなかったらしい。
「つまり、これは縁結びの術だと」
シノンが、低い声で言った。シルヴァンは頷く。
「ええ。そして、この術によってヤンが出会ったのが、王女ジルレイアだったと伝えられております」
「待ってください」
気づけばナナリーは、手を挙げていた。胸の奥で、嫌な予感が小さく跳ねている。
「その術で、私がシノン殿下を選んだっていうことは、それって、つまり」
言いながら、ちらりとシノンを横目で見る。
「見るな」
即座に一喝された。そんな二人の様子に、シルヴァンはわずかに頬を緩ませ、話を進めた。
「そこが、調停官殿のお話しにならなかったところでございます」
シルヴァンは、原本の図の上に指を滑らせた。
「この術は、二つの段階で動きます。まず、申請者の書いた条件に最も合う方を、術がひそかに探し当てる。ですが、それだけでは候補は決まりません。申請者のお心がその方へ強く向いた時、術はそれを申請者のうなずきとみなし、ようやく候補を確定するのです。調停官殿のもとへ知らせが届くのは、この確定の瞬間だけでございます」
「確定の、瞬間だけ」
「ですから調停官殿には、お嬢さんのお気持ちが殿下を選んだように見えたのでしょう。それも間違いではございません。ただ、その前の段階があった」
シルヴァンの紫の瞳が、ナナリーを見た。
「術は、お嬢さんが申請なさった夜から、一か月もの間、ずっと殿下を指し示しておりました。お嬢さんの条件に最も合う方として。ところが、お嬢さんのお心は、一度もうなずかなかった」
ナナリーの頭の中で、学院の玄関ホールが蘇った。試験結果の掲示板。人だかりの中心で、運がよかったと笑っていた王子。その王子を、不敬にならない程度に睨みつけていた自分。まるで悪魔みたいな人だと、ジェニーに力説していた自分。
術がその間ずっと、あの王子を指し示していたのだとしたら。
「それで、あの夜」
「媚薬が、お嬢さんのお心を、無理やり殿下へ向けてしまった。術はそれを、一か月待ち続けたうなずきとして受け取ったのです」
部屋の中が、静かになった。天井の窓から差し込む光の中で、埃がゆっくりと漂っている。
とても、気まずかった。自分のせいで入れ替わり事件が起きたことには変わりない。けれど、その相手としてシノンを選んだのが、他ならぬ自分の書いた条件だったという事実を、本人の目の前で明かされるのは、また別の種類の気まずさだった。
しかもそれが、ヤンの編み出した縁結びの術だと聞かされた今では、そんなつもりはなかったのに、まるで理想の伴侶はシノンだと宣言してしまったような気がして、恥ずかしくてたまらない。
ナナリーは、顔から火が出るような思いで、膝の上で両手を握りしめた。
「ち、違います。あれは使い魔の条件です。黒猫とか、カラスとか、フクロウを想定していたんです。人間を想定していたわけでは、断じて」
「存じております。ですから、術が殿下を指し示しても、お嬢さんのお心はうなずかなかった。お嬢さんは使い魔をお求めで、伴侶をお求めではなかった。術とお嬢さんの間で、一か月もの間、話が噛み合っていなかったのです」
片方は一か月間ずっと王子を指し示し続け、もう片方は一か月間ずっとその王子を睨み続けていた。術の方は、さぞ途方に暮れていたことだろう。
「ちなみに、私の兄は」
言ってから、なぜ今それを聞いたのか、ナナリーにも分からなかった。たぶん、話題を少しでも自分から逸らしたかったのだと思う。
「兄上様でございますか」
シルヴァンは原本の図を眺め、少し考えるように首を傾げた。
「頼りになる、という条件については、満点でございました。ただ、そのほかの条件で、殿下に一歩及ばなかったようです」
ジョルジュが、紅茶のカップを持ったまま、微妙な顔で固まった。妹の理想の使い魔の候補として、王子に次点で敗れた兄。喜べばいいのか、悔しがればいいのか判断に困っているようだ。具体的にどの条件で負けたのかを聞かないのは、兄なりの自衛なのだろう。
ナナリーは、恐る恐る隣を見た。
シノンは、沈黙を守り続けている。ナナリーの顔で、原本の図をじっと見つめたまま、身じろぎ一つしていない。ただ、うぐいす色の髪の隙間から覗く小さな耳が、根元まで赤く染まっていた。
怒っているのだろうか。使い魔の候補にされた上に、一か月も勝手に指し示されていたのだから、王子として不愉快に思うのは当然だ。ナナリーは、慌てて言い訳を重ねた。
「殿下、本当に使い魔のつもりだったんです。殿下をこき使おうとか、そういうことは一切考えていなくて。むしろ、当時は殿下のこと、ちょっと恨んでいたくらいで」
「恨んでいた?」
シノンが、ようやく顔を上げた。
「殿下が全教科一位を取るから、私の順位が一つ下がると思って」
「一位が抜けても、君は二十位以内には入らなかっただろう」
ジェニーと同じことを言われて、少しだけ傷ついた。
シノンは、短く息を吐いて、また原本へ視線を戻した。耳の赤みはまだ引いていない。怒っているにしては、声が妙に柔らかかった。
「一つ、確認させてくれ」
シノンが、シルヴァンへ尋ねた。
「その術は、選んだ相手の気持ちまで変えるのか」
「いいえ。術は相手を見つけ出すだけでございます。恋心を操るものではございません。ヤンと王女が結ばれたのも、出会った後に、互いに惹かれ合ったからでございましょう。そして、正式な契りを結ぶには、双方の同意が要る。ヤンと王女は、互いに望んで契りを交わしたため、何の問題も起きなかったのです」
シルヴァンは、そこで言葉を切り、ナナリーとシノンを交互に見た。
「お嬢さんの場合は、殿下のご同意がないまま、媚薬と口づけと雷で、術が無理やり先へ進んでしまった。同意のない契りは、縁結びとしては動きません。そこで術は、見せかけの方、つまり使い魔の主従契約として動こうとした。ところが、人間同士では、主従契約は成立しない。行き場を失った魔力が、お二人のつながり先を入れ替えてしまった。ヤンが聞いたら、さぞ頭を抱えたことでしょうね」
ナナリーは、伝説の大魔術師に頭を抱えさせたかもしれない自分について、深く考えないことにした。
ただ一つだけ、ほっとしたことがあった。術は気持ちを操らない。シノンの気持ちも、自分の気持ちも、何一つ変えられてはいないのだ。
ほっとしたはずなのに、なぜか胸の奥が、少しだけざわついた。




